ツタンカーメン、高松塚古墳、将門の首塚……古代遺跡の呪い/世界ミステリー入門
古代遺跡の発見や発掘によって、これまでに明らかになった歴史の謎は数知れない。しかし、ときにその行為が、触れてはならない「何か」を呼び起こしてしまう……。 近づいたものに死や災いをもたらす恐るべき呪いと
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令和3年4月の「首塚改修」で再注目された平将門伝説。関東を制覇し朝廷に弓を引いた英雄にして怨霊の歴史を辿る。
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平安京を築いた桓武天皇の曾孫・高望王(たかもちおう)は、寛平(かんぴょう)元年(889)、臣籍降下(しんせきこうか)して平(たいら)姓を賜った。桓武平氏のはじまりである。
平高望はそれからほどなくして上総(かずさ)の国(千葉県中央部)の次官すなわち上総介(かずさのすけ)に任じられ、一族郎党を率いて任国へ下向(げこう)した。そこは都のような風雅など望むべくもない辺鄙な土地だったが、肥沃な風土は意外にも肌に合ったらしく、高望は任期を終えても帰京することなく、そのまま関東に土着して生涯を終えた。
そして、彼の子孫は南関東各地へ展開し、武士化していったのである。
そんな子孫のひとりが、平将門であった。
将門の生年は不詳だが、一説に延喜(えんぎ)3年(903)だという。父は高望の子・良将(よしまさ)(良持とも)で、高望の孫にあたる。したがって、将門は桓武天皇の5世孫ということになる。
将門というと、天皇に弓を引いた野武士の総大将というイメージが強いかもしれない。しかし、彼のからだには、まぎれもなく天皇の血が流れていた。もちろん、本人もその血筋に誇りをもって生きていただろう。
将門は下総(しもうさ)北部の豊田・猿島地方(茨城県西部)を地盤としたが、「将門の乱」に関する貴重な記録『将門記(しょうもんき)』(平安時代中期頃の成立)によれば、若年時代、太政大臣(だいじょうだいじん)・摂政・関白を歴任した藤原忠平に仕えたというので、上洛していた時期もあったらしい。
将門の青年期に関しては、それ以上のことは、確実な史料にもとづくかぎりは不明である。
彼の動向がはっきりするのは、延長(えんちょう)9年(931)からで、『将門記』によると、この年、将門は伯父の平良兼(よしかね)と「女論」(女性をめぐる問題)で争ったという。「女論」が具体的に何をさすのかは想像するよりほかないが、将門の妻は良兼の娘であったので、そのことに関係したトラブルだったのだろう。
トラブルがどう決着したのかも不詳だが、この一件が象徴するように、将門は他の平氏一族とはどうも反りが合わず、孤立していたらしい。承平(じょうへい)5年(935)からは、将門と同族との本格的な抗争が展開される。
この年、将門は常陸(茨城県北東部)西部に勢力をはる豪族・源護(みなもとのまもる)の一党と合戦するが、これをきっかけに将門のおじである平国香(くにか)、良正(よしまさ)、良兼(よしかね)らとも戦火を交えることになる。
彼らは源護の娘婿であり、護側についたからだ。しかし将門は護の本拠を襲ってこれを焼き払い、国香は敗死した。
翌承平6年、護の訴えにより将門は京都に召喚され、朝廷に取り調べを受けた。だが、その弁明が聞き入れられて重刑をまぬかれ、かえって武勇の名を中央にとどろかす。さらには朱雀天皇元服の大赦を得て結局は無罪となり、承平7年5月には帰郷できたのだった。
ところが、帰郷後まもなく将門は、将門打倒に執念を燃やす良兼の兵に攻められ、将門と一族とのあいだの抗争は激化してゆく。
ここからが、「将門の乱」の本番だ。
天慶(てんぎょう)元年(938)、武蔵国(東京都・埼玉県の大部分と神奈川県の北東部)の豪族間で内紛が起こると、将門は紛争の仲介に乗り出したが、失敗。こうして東国の混乱が増すなか、天慶2年11月、将門はついに常陸の国府を襲い、国こく司し・藤原維幾(ふじわらこれちか)を捕らえ、財宝を奪い、家宅を焼き払った。加えて、維幾から「印鎰(いんやく)」を奪い取ったのである。「印鎰」とは、公文書に押される国印である「印」と、正倉(税とした収納された稲を保管する倉)の鍵である「鎰」のことで、天皇・朝廷から派遣された地方官としての国司(現代の知事にあたる)の権威・権力の象徴である。国司を捕らえるのみならず、その印鎰を略取したということは、朝廷の権力を侵し、国家に対して牙を向いたことにほかならない。しかも、常陸国の国府は、当時の関東地方の中心であった。
将門はさらに下野(しもつけの)国(栃木県)や上野(こうずけの)国(群馬県)の国府も襲い、それぞれ印鎰を奪取し、朝廷派遣の役人たちを追放してゆく。
極めつけは、同年12月19日の「新皇」即位である。
『将門記』によると、この日、将門が上野国府の国庁に入ると、八幡大菩薩の使者と名乗る巫女が現れ、「朕(ちん)の位を平将門に授ける」と告げた。八幡大菩薩は応神(おうじん)天皇の神霊とされているので、「朕の位」とは皇位とほぼ同義とみてさしつかえない。そしてその巫女が皇位授与の旨を記した文書(位記)を将門に授けると、将門はそれをうやうやしく捧げ持ち、深く礼拝(らいはい)した。居合わせた数千の兵たちはこれをみると立ち上がって歓喜し、将門を伏し拝んだ。
そして、将門はみずからを「新皇」と称したのだった。
将門は、八幡大菩薩のお告げによって、新皇という天皇に匹敵する称号を得たというのである。将門が関東独立王朝の樹立を宣言したようなものであった。
実際、将門はまもなく弟や同盟者を関東諸国の国司に任命し、本拠である下総国の将門邸付近に王城を建設せよと厳命した。将門の勢力範囲は、一時、武蔵・相模・安房・上総・下総・常陸・上野・下野の坂東8か国と伊豆にまで及んだとされる。
将門反乱の報は、年末までには京都にも達した。ほぼ同じころ、瀬戸内海では海賊の首領・藤原純友(すみとも)が反乱を起こしており、東西の乱は都の人々を大いに震撼させる。
翌天慶3年正月元日、朝廷は東国と西国に派遣される追捕使(賊徒や盗賊らを鎮圧する臨時の軍事官)を任命。また賊徒の侵入にそなえて宮城の諸門に矢倉を構築し、延暦寺(えんりゃくじ)に将門調伏(ちょうぶく)の祈禱を修させ、伊勢神宮をはじめ有力社に奉幣(ほうへい)して乱の鎮圧を祈願した。
天皇や皇族・貴族たちは、勢いを得た将門や純友が上洛して一気に攻め込んでくることを本気で恐れたのである。
加えて朝廷は、東国の諸国に官符を下し、将門を討ち取ったものには恩賞を与えると定め、在地の有力者が朝廷の将門追討軍に参集することを呼びかけている。
当の将門はというと、同年正月中旬には平貞盛(さだもり)(将門が殺した国香の子)ら残敵を討つため兵を率いて常陸国へ発向するが、貞盛の行方を突き止められず、一旦軍を解く。すると、貞盛はその隙を突いて、下野の豪族・藤原秀郷(ひでさと)と組んで4000の兵を整え、合戦をしかけてきた。秀郷は藤原氏の名流の出でありながら、罪をおかして配流(はいる)に遭ったこともあるといういわくつきの人物だったが、将門の乱に際しては、朝廷の呼びかけに応じて地方暴徒の鎮圧にあたる「押領使(おうりょうし)」に任じられ、貞盛とも連合していたのだった。
将門は貞盛・秀郷軍への反攻を試みるも、しだいに追い詰められる。
2月13日、下総の将門の居館は敵に焼き払われ、将門はわずか400人ほどの手兵を率いて猿島郡の北山に陣を張った。
翌14日午後、ついに両軍合戦。はじめは風上に立つ将門側が優勢だったが、風向きが変わると形勢は逆転。そしてついに新皇将門は討たれる。
その最期について『将門記』は、神の放った矢(神鏑)に将門は射殺されて天罰をくらったと表現しているが、平安末期編纂の史書『扶桑略記(ふそうりゃっき)』は「将門が貞盛の放った矢にあたって落馬したところに、秀郷が馳せつけ、その首を斬った」と記す。おそらく、後者が真相に近いのだろう。延喜3年生まれとすれば、享年38。
これにより将門軍は総崩れとなり、将門の一族や側近は次々に討たれ、あるいは逃亡し、乱は平定された。将門の関東独立国家建設の夢はもろくも潰えたのである。
将門の敗死から約2か月後の天慶3年4月、彼の首は京都に送られた。それは憎むべき朝敵の首級(しるし)として平安京の東市にさらされ、諸人への見せしめとされた。ちなみに、将門の胴体は戦死地の下総国猿島郡石井(茨城県坂東市)に埋められ、その塚は「将門山(まさかどやま)」と呼ばれた。同地に建つ延命院(えんめいいん)の境内に将門の胴塚(どうづか)「将門山」と伝えられる土盛があり、「神田山」とも呼ばれているが、それは「からだやま」の訛りだともいわれている。
周知のとおり、将門の首はその後、さまざまな伝説を生む。
「獄門にかけられた首がからからと笑った」「斬られてから3か月たっているのに、変色しないどころか、目をひらき、歯噛(はが)みして、夜な夜な復讐を誓った」……。さらには、「故郷の東国を懐かしみ、首が飛んで空を翔けた」という話も伝えられている。
このことから、飛んできた将門の首を埋めて首塚を築いたという伝承が各地に生じるのだが、そのなかで最も有名なのが、東京・大手町の将門塚なのである。
平安時代の東京・大手町付近は武蔵国豊と島郡柴崎(芝崎)村といった。地形は現在とは大きく異なり、そこは平川という川の河口付近で、日比谷入江に面した海岸のような場所だった。
伝承によれば、将門の首はすさまじい音をたてて柴崎の地に落下した。村人はその首を埋めて塚を築いたが、じつはすでにその場所には神社があった。それが神田明神の前身にあたる神社で、由来は詳らかではないが、8世紀前半に大己貴神(おおなむちのかみ)を祭神として創建されたとか、安房国から移住した漁民が安房神社の分霊を祀ったのにはじまるなどの説がある。
牛頭天王(ごずてんのう)を祀っていたという話もある。いずれにしても、将門塚は当初、神田明神(の前身神社)の境内に位置していたのだ。
もっとも、「京都から首が飛んできた」というのは現実的に考えにくいが、梟首(きょうしゅ)後、打ち捨てられた首を将門に有縁の者が拾い受け、京都から東国まで運んだ、ということは十分に考えられる。また、後に下総の将門の胴塚が掘り起こされ、一族の手によって遺体が柴崎の首塚に合葬されたという伝承もある。
生前の将門と柴崎とのあいだにはとくにつながりを見出せないが、下総を追われた将門の一族が柴崎に隠れ住んでいたということはありうるだろう。
そしてその縁でこの地に将門塚が築かれることになったのではないだろうか。このあたりを本拠とした江戸氏が将門の末裔といわれるのも興味深い。
だがその後、将門塚は荒廃がすすみ、14世紀のはじめごろにはすっかり荒れ果てていた。同じころ、疫病が蔓延し、天変地異が多発していたが、住民たちはこれを将門の怨霊の祟りによるものと恐れおののいた。
ちょうどそのころ、遊行(ゆぎょう)中の時宗(じしゅう)の他阿真教上人(たあしんきょうしょうにん)(一遍の弟子)が柴崎村に立ち寄り、塚の荒廃に目をとめた。上人は将門に「蓮阿弥陀仏(れんあみだぶつ)」という法号を追贈(ついぞう)し、丁重に塚を修復し、石塔婆を建てて供養した。すると、ようやく疫病が収まったという。
これが徳治(とくじ)2年(1307)のこととされている。さらに上人は2年後の延慶(えんぎょう)2年(1309)、隣接する神社も修復して将門霊を合祀し、神田明神と名づけた。この号の由来については、神に供える稲をつくる田がここにあったことによるといわれるが、「下総岩井の胴塚=神田山から胴体が移し葬られていたからだ」とする説もある。
現在の将門塚に建つ石塔婆(板碑)は昭和46年(1971)の再建物だが、真教上人建立のものを復元したもので、「蓮阿弥陀仏」と刻された表書は上人建立の板碑の文字を模したものであるという。
ところで、往時、将門塚のかたわらには高さ約6メートルの円丘が存在していた。それは要するに古墳で、本来、将門塚といえば、この墳丘をさしていたと考えられている。
だが、この墳丘は大正12年(1923)の関東大震災後に取り崩されてしまった。焼失した大蔵省の仮庁舎を墳丘跡地に建てるためであった。その取り壊し工事の際、墳丘の中から石室が現れたという。しかし残念ながら盗掘に遭った形跡があり、棺や骨壺の類いは見つからなかったらしい。
──ひょっとすると、首はもっと地下深くに眠っているのか。
将門塚は大幅に規模を縮小することになったわけだが、大正15年になって大蔵大臣の早速整爾が急逝。他にも、管財局技師で工事部長だった矢橋賢吉をはじめとする大蔵省高官の死が相次ぎ、死亡者はあわせて14人を数えた。怪我人も多く出たという。──将門の怨霊が再び人びとに強く意識されるようになるのは、このころからだ。
大手町の将門塚にはたして本当に将門の首が埋葬されたのか、そして今も埋葬されているのか、その真相については不明と言わざるをえない。だがしかし、この塚が将門霊の鎮魂という重い使命を負いつづけてきたことは、まごうことなき事実なのである。
余談であるが、『将門記』によると、新国家建設を目論んだ将門は独自の暦を作成しようとしたが、適任の陰陽師が見当たらなかったので、断念したという。そんな将門の子孫が、じつはあの大陰陽師の安倍晴明だったという話がある。晴明の出生をめぐっては、和泉国(大阪府和泉市)の信太森(しのだのもり)に住む白狐が美女に姿を変えて安倍保名(やすな)とちぎり、晴明を生んだという伝説が有名だが、『簠簋抄(ほきしょう)』という晴明伝説の基礎文献に晴明の出生地を常陸国筑波山麓の猫島(筑西市猫島)とする記述があり、また父親を将門の子・将国とする異伝もあるのだ。
もっとも晴明の生年は将門がまだ10代だった921年なので、史実としては考えにくいが、こうした伝説の背景には、晴明を始祖と仰いで将門ゆかりの東国を唱導した民間陰陽師たちの活躍があるのだろう。
(2021年6月9日記事を再編集)
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