「将門塚の祟り」は1976年起源だ! 怨霊を復活させた大河ドラマの衝撃/吉田悠軌・オカルト探偵
江戸の総鎮守、東京の地霊、あるいは日本最大の「祟る神」。さまざまな呼び方で畏怖される古代の武将、平将門。東京大手町の将門塚はその首を供養した聖地、霊域として名高いが、「塚の祟り」が取り沙汰されるように
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日本三大怨霊に数えられる平将門の祟りは、東京は大手町にある「首塚」の祟りを中心に語り継がれている。 昭和の時代、少年少女が恐れた東京の定番怪奇スポットを、“懐かしがり屋”ライターの初見健一が回想!
2020年末、首塚の俗称で知られる東京大手町の「将門塚」の改修工事がSNSなどで大きな話題になった。大規模なオフィスビル街の再開発の波がついに首塚にまで及んだことで、多くの人が「大丈夫なのか?」と眉をひそめたのである。僕もその一人で、ニュースを知って思わず「え?」と声を出してしまった。
僕ら世代の東京人は、幼少期から首塚についての話を親や祖父母などからさんざん聞かされてきた。たとえば首塚周辺の会社では、誰かが首塚にお尻を向けて座らないように、常にデスクの並べ方に細心の注意を払っている……というような逸話は、当時の東京っ子なら誰もが知っていたと思う。社員の誰かが不遜にも塚にお尻を向けてしまうと、その人の体調が急激に悪化したり、会社全体の業績がガタ落ちしたりするという。周辺の会社すべてが本当にそんな配慮をしているのかどうかはともかくとして、当時の大人たちはこうした話をまことしやかに語っていたのだ。
また、小学生時代に読み漁ったオカルト児童書でも、震えあがるような逸話をたくさん読んできた。「信心」などというものとは縁遠い高度経済成長期以降の70年代っ子たちも、首塚については「相応の敬意を払えば守護してくれるが、少しでも礼を失すればたちまち祟りがある」と叩き込まれてきたのだ。「首塚に手をつける」と聞けば、反射的に怖気づいてしまうように育っているのである。
当時のオカルト児童書の首塚の記述は、だいたいどれも次のような内容のものだった。
まず首塚の由来、つまり「平将門公伝説」が、若干講談じみた文体でオドロオドロしく解説される。平安時代中期、関東を支配していた下総の将門公は朝廷と対立、長期に渡る戦いの末、ついに打ち取られて斬首される。その首は京都に運ばれてさらし首にされるが、首はいつまでたっても腐らず、夜ごと「俺の体はどこだ! 体を返せ! 俺は体を取り戻して再び戦い、朝廷を滅ぼしてやるのだ!」などと叫び続けた。そしてあるとき、将門公の首は体を求めて東の空に飛びたった。飛んだ首が力尽きて落ちた場所が、現在の大手町である……。
ここまでは昭和の子どもたちにとっても「日本昔話」的な伝承でしかなく、特に恐怖を感じることは少なかっただろう。70年代っ子たちが震撼してしまうのは、これに続いて語られる「将門公の祟りは近代~現代になっても続いている」ということを示す事例の数々である。
首塚に足しげく日参して成功を得た会社社長が、財を成した途端に参拝を忘れてしまい、あっという間に転落してしまうといった「証言者」の個人的な体験が語られるパターンも多かったが、必ず解説されるのが次の二つの事例だ。
大正末期、当時の首塚を更地にして大蔵省の新庁舎建設を企てたところ、時の大蔵大臣が急死、続いて大蔵官僚や工事関係者が十数人も不審な死を遂げた。そして昭和20年には、GHQが首塚を撤去して駐車場にしようとしたが、重機が事故を起こして作業員が死亡。以降は米軍もこの地に触れようとしなくなった……。
当時の新聞記事なども引用されて語られるこれらの事件・事故は、要因が祟りであろうとなかろうと、ともかく「事実」としてのパワーを持っており、当時の子どもたちを震えあがらせたのである。
また、塚碑のそばの石灯籠が深夜になると武将の姿に見えるという「お化け灯篭」の話や、神田明神は将門公を祀っているが(神田明神はもともと首塚のある地のそばに創建された)、そもそも「神田」という地名は将門の体が埋葬された地ということから「カラダ」という言葉が訛って「カンダ」になった、という説(神田の地名由来は諸説あり、「神の田」の意味合いを持つ説が有力)など、さまざまな周辺情報が掲載されることも多かった。
首塚にまつわるこうした話は70年代の子ども文化のなかでも連綿と語り継がれ、特にオカルト児童書市場で「ファラオの呪い」関連本がブームになった70年代なかばあたりに盛りあがった記憶がある。
昨年末の改修工事開始直後に茨城県を震源とする地震が発生し、SNSには「将門公の祟りでは?」といったコメントがあふれた。年明けのコロナ感染再爆発についても、やはり首塚を引き合いに出して語る人が多かったようだ。
ほかのことならアハハと笑い飛ばせる類の反応だが、首塚絡みの話はどうも笑いにしにくい。14世紀初頭に大流行した疫病は、将門公の祟りによるものだとされていた。神田明神が霊を供養し、これによって疫病は沈静化したという伝承がある。これを信じようと信じまいと、なぜわざわざよりによってコロナ禍のタイミングで首塚に手をつけるのか? 僕にはやはりどうにも理解しがたい。将門公に対して不遜という以前に、東京土着の住民たちの自然な感覚に対して、あまりに無神経だと思ってしまう。将門公は東京の中心に鎮座する屈指の「祟り神」という「畏れ」が、子どものころから体に沁みついてしまっている世代ならではの感慨かも知れないが……。
おそらくバブル期以前に子ども時代を過ごした世代は、首塚のほかにも東京におけるいくつかの「禁忌の地」に対する畏敬の念を、それ以降の世代よりも強く抱いていると思う。やはり幼少期に祖父母や両親から聞いたり、オカルトブーム期に繰り返し本で読んだりしているからだろう。
例えば、撤去しようとするたびに事故が相次いだ「羽田の大鳥居」。敗戦直後、GHQが羽田空港周辺を強制的に開発しようとしたが、穴森稲荷神社の赤い大鳥居だけは、工事中に作業員が死傷するなどの事故が起こるために作業が中断された。空港の巨大な駐車場に赤い鳥居だけがポツンと取り残されていた光景は、子ども心にも非常に異様だった(この鳥居は1999年に移設された)。
また、礼を失すれば必ず障りがあるということでは首塚と並ぶほど有名な「四谷稲荷」。「四谷怪談」関連の企画を進める演劇・映画関係者、あるいはテレビ局の人間が、「四谷稲荷」へのお参りを怠ったためにひどい目に合うという話は、当時の怪談の定番だった。
さらに、付近で多発する交通事故に関連して語られる「鈴ヶ森刑場跡」。罪人の処刑や「さらし首」などの見せしめが行われた地で、現在も「磔台」(の台石)や「首洗いの井戸」など、恐ろし気な遺跡が残っている。「八百屋お七」の亡霊が現れるとか、生首が舞うとか、古風な怪異譚が絶えない場所だった。
これらの場所への「畏れ」は、数々の逸話をさんざん聞かされた子ども時代のころのまま、今も生々しく心に残っている。とてもじゃないが遊び半分で行く気はしない。また、開業時にさまざまな怪談を生んだ「サンシャイン60」(巣鴨プリズン跡地)、「禁忌の地」というわけではないが、関東の「タクシー怪談」発祥の地である「青山墓地・青山トンネル」にも、子ども時代のトラウマを呼び起こされてしまう。
かつて東京人が漠然と共有していた土地への畏怖の感覚は、土地が一様に投機対象となったバブル期に急速に薄まったと思う。しかし、それでもバブル崩壊後、90年代後半くらいまでは、その土地その土地の歴史的な意味合いや物語を共有する感覚、それに対する敬意とか遠慮といったものは、まだかろうじて残っていたような気がする。
これは単なる個人的な感慨だが、こうした感覚の消失のひとつの象徴が、あのホテルニュージャパンンなのではないか?
前代未聞の惨劇となった1982年の大火災の後、ホテルニュージャパンは実に14年間も廃墟のまま放置され続けた。東京の超一等地にありながら、競売にかけてもあの曰くつきの土地を開発しようという投資家は現れなかったのだ。土地の「穢れ」などという、まったくもって非理論的な感覚を、財界の人間までが共有していた、というか、共有せざるを得なかった状況があったということだろう。
ようやく解体されたのが96年、その後、外資と国内大手不動産会社が具体的な開発を進め、2002年に複合施設の機能を持つ超高級タワーマンションが跡地に完成する。このあたりのタイミングで、「見えないもの」に対する人の感覚に大きな変節があったのではないか思う。
そしてグローバル化と新自由主義が加速し続ける現在、「畏れ」知らずの「経済優先」の前では、どんな「禁忌」ももはや意味をなさなくなったようだ。
(2021年4月29日記事を再編集)
初見健一
昭和レトロ系ライター。東京都渋谷区生まれ。主著は『まだある。』『ぼくらの昭和オカルト大百科』『昭和こども図書館』『昭和こどもゴールデン映画劇場』(大空出版)、『昭和ちびっこ怪奇画報』『未来画報』(青幻舎)など。
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