あの「大予言」からオカルト・ミステリ小説誕生!?「ノストラダムス・エイジ」
あの「大予言」を巡って、オカルト5人組が騒動に……。ムー民必読のミステリ小説!
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あの「ノストラダムスの大予言」が映画にもなっていたことをご存じだろうか? 1999年7の月に向けた終末ブームの中、文部省推薦で世に送り出された超大作は、いかにして制作され、そして封印されたのか……。
新型コロナ感染の拡大期、SNSなどでは映画『復活の日』が話題になっていた。小松左京の壮大な原作を、深作欣二が2時間半ほどにまとめた1980年公開のSFパニック大作である。細菌兵器として開発された人口ウィルスが事故によって流出、「イタリア風邪」と称される驚異的に致死率の高い疾患が世界中に蔓延する。爆発的なパンデミックによって各国の医療は次々と崩壊、ワクチンの開発も追いつかず、いたるところで暴動やパニックが起こり、世界の主要都市は瞬く間に壊滅していく。最終的には米ソの核ミサイル自動報復システムが誤作動を起こし、人類がなすすべもないままに自滅していくプロセスを描いている。
「人類滅亡」を描く映画のなかでも最悪のシナリオのひとつだが、新型コロナの急速な感染拡大が報じられていた昨年初頭は、この映画を思い出してしまう人が多かったのだろう。その内容に「予言的」なリアリティを感じたのかも知れない(今の僕らも依然として出口の見えない「危機」のなかにいるわけだが)。
『復活の日』に限らず、確かに今回のパンデミックには、僕ら世代が子ども時代に夢中になった数々の「パニック映画」の世界が、徐々に現実になっていくかのような不安や恐怖があった。
「パニック映画」の大ブームは、1970年の『大空港』の世界的ヒットをきっかけにはじまり、80年代にかけてピンからキリまでの作品が大量に制作された。事故や災害、テロなどの大規模な犯罪、そして先述の『復活の日』や『カサンドラクロス』などのような人工ウィルスのパンデミック、さらには巨大なサメ、クマ、タコ、はては大量発生した昆虫や爬虫類などの脅威まで、多種多様のディザスターが描かれ、一時期は娯楽映画の王道ジャンルとして君臨していた。
「パニック」の要因は数々あれど、このジャンルの映画に共通の見どころは、未曾有の大惨事に翻弄されまくって右往左往する人々の群像劇である。恐怖心から理性を失い、あらぬ行動に走って事態を悪化させたり、保身のために無意味な争いをはじめて、互いに激しく憎悪をぶつけ合ったりする人々の描写が、小学生時代の僕らにはリアルに怖かった。「普段は冷静に見える大人たちも、いざとなったらこうなっちゃうのか……」なんてことを思いながら手に汗を握っていたものだが、実際、今回のコロナ騒動でも「こうなっちゃうのか……」と溜息をつきたくなるような事態が多発している。
衣料品、日常雑貨、食料品の極端な買占め、営業を続ける商店に匿名の張り紙を貼ってまわる自粛警察、マスクをしていない人をいきなり恫喝するマスク警察、さらにはSNS上などで起こった卑劣な医療関係者叩き、感染者叩きなどの騒動は、「70年代パニック映画そのまんまだな」などと思ってしまう。そしてかなり不謹慎だが、ゲンナリすると同時に、とっくに忘れていた少年時代の気分を思い出すような奇妙な懐かしさと、不思議な高揚感に似たものも感じてしまった。まるで自分たちが昔見た映画の中にいるような、なんとも無責任な非現実感に捉われ続けているような気がする。
いつまで続くかわからない非日常を過ごしながら、僕がなぜか何度も思い出してしまうのは、1974年公開の東宝パニック大作『ノストラダムスの大予言』だ。現在では「禁断の封印作品」として名高いが、公開時は「禁断」どころか、「『日本沈没』に続く超大作!」として大々的にブチあげられた目玉作品であり、「チビッ子も必見!」の「文部省推薦映画」だった。
当時の東宝は、というより日本映画界全体は、ほとんど絶望的なほどのジリ貧状態。特に東宝は「もうなにをやっても当たらない」と揶揄されていた通り、映画を作れば作るほど赤字になるという悪循環にハマっていた。お家芸だった家族向け映画は客をテレビに取られてすべて不発、唯一の看板である「ゴジラ」もとっくの昔に形骸化し、小学生からも鼻で笑われるようなデキの作品ばかり。
これを一気に打開したのが、73年の記録的大ヒット作品『日本沈没』だ。この一大逆転劇によって、会社の方針が「これからはパニック映画しかない!」となるのは当然である。そこで慌ただしく準備されたのが、前年の1973年に刊行され、まさに社会現象になっていた五島勉の『ノストラダムスの大予言』の実写映画化だった。「あんな本が長編劇映画になるのか?」とか「今からブーム便乗の大作映画を作って間に合うのか?」とか、普通なら思いそうなものだが、とにかく東宝は『日本沈没』の映画史に残るほどの超絶ヒットで勢いづいていた。とてつもない力技で強引に仕上げてしまったのである。
本の刊行からすでに9か月ほどたっていたが、幸い「ノストラダムスブーム」はさらにヒートアップしているタイミングだった。74年の夏休み映画として、これまた歴史に残る「珍作」である『ルパン三世 念力珍作戦』との併映で公開。よく「あの映画はコケた」という記述を目にするが、その年の邦画部門の興行収入第2位を記録している。『日本沈没』のモンスター級ヒットには遠く及ばないが、『ノストラダムスの大予言』も堂々たるヒット作品だ。実際、『ノストラダムスの大予言Ⅱ 恐怖の大魔王』という仮題で続編も企画されていた(ただ、この企画は諸問題で頓挫している)。
いくつかの場面が差別的だと指摘されたことで、『ノストラダムスの大予言』は国内での再上映やソフト化は行われていない。指摘は「原爆被害者への偏見を煽る可能性がある」というもので、放射能を浴びてしまった被爆者に関する荒唐無稽な描写に問題があるとされた。要するに『ウルトラセブン』の永久欠番エピソード「遊星より愛をこめて」と同様である。正直、ごくごく普通に映画を観ている限りでは、本作に差別的要素を見出す人はかなり少ないと思うのだが、当事者や、それに関わる団体の考え方、感じ方があるのだと思う。さらに3.11のフクシマ以降、実際にいわれのない「放射能差別」に苦しんでいる人々が出てきてしまっている以上、これについては公開時より現在の方がセンシティブな問題になっているのかも知れない。「封印」は自粛の形で行われているが、おそらく今後もこの「封印」が解かれることはまずないのではないかと思う。
そうした「封印」が実行される以前の1980年、本作は一度だけテレビ放映された(ただし「問題箇所」はすでに封切り中にカットされており、このテレビ放映も「修正版」だった)。当時、こうした大作パニック映画がテレビ放映された翌日の学校では、その話題でひとしきり盛りあがったものだ。しかし『ノストラダムスの大予言』については、「ヘンな映画だったよなぁ……」で話が終わってしまったのを覚えている。
というのも、なんとも感想を持ちにくい作品なのである。
特に子どもには(いや、大人にも?)、全体的に「なんのこっちゃ?」という感じの摩訶不思議な映画なのだ。
当時最大の社会問題だった公害の影響を示す場面を羅列し、まるで小学校で見せられた公害に関する教育映画のような構成。ニュース映像をつなげたドキュメンタリーのようなリアリティがある一方で、巨大ナメクジ、巨大コウモリ、ニューギニアの食人族などが登場するトンデモエピソードが次々に挿入される。さらには『ゴジラ対ヘドラ』を思わせるサイケなシーンも盛り込まれて、当時のフーテン文化、ヒッピーカルチャーの影響も濃厚。一方、妙に丁寧に演出された人間ドラマ部分もあったりして、散漫というか、チグハグというか、5本くらいの無関係な映画をメチャメチャにつなぎ合わせたようなカオス状態なのだ。観終わった後も、なにがどうしてどうなったのか、どうもよくわからない。
監督は大作群像劇を見事にまとめる舛田利雄だが、ここでは最初から「まとまり」を断念しているかのようだ。子どもたちが期待した特撮に関しても、特技監督が名匠・中野昭慶でありながら(『ヘドラ』の板野義光も協力監督としてクレジットされている)、特撮シーンはなんとも地味。いや、首都高大炎上など凄まじい場面は数々あるが、個々の見せ場が断片的で、どうれもいまひとつ印象に残らない。結局印象に残るのは、『日本沈没』でも披露された丹波哲郎お得意の熱くて重い「お説教芸」と、場違いなほどキュートな由美かおるの唐突過ぎるダンスだけなのである。
某雑誌の依頼で生前の五島勉氏にインタビューをしたとき、映画版『ノストラダムスの大予言』について聞いてみたことがある。
当初、映画化するならぜひ著者の意見を反映してほしいと、五島氏は制作現場に関わろうとしたそうだ。ところが、行ってみると現場はパニック映画以上の大パニック状態だった。『ノストラダムスの大予言』の刊行が前年の11月。その時点から企画して、翌年の8月までに大予算の超大作を仕上げて公開しなければならない。超突貫工事のスタジオは、スタッフの怒号が飛び交う修羅場だったらしい。
それぞれの持ち場のプロたちが怒鳴りあうように議論をしながら作品を制作する姿に、五島氏は「これはオレの出る幕はないな」と介入をあきらめたという。同時に、そのあまりに熱い現場の空気に触れて、「プロの職人たちがこれだけ本気でやってくれるなら、この人たちにまかせた方がいい」とも考えたそうだ。
「完成した映画を観てどう思いましたか?」と聞いてみると、五島氏は「僕がこうしたいと考えていたような映画ではなかったけど、ともかく異様な迫力がある作品にしあがっていた。よくもあんな本を原作に、これだけの劇映画にまとめられたものだと感心しましたね」と語っていた。著者本人が「あんな本が長編劇映画になるのか?」と思っていたことに笑ってしまったが、彼が言うように、確かにこの映画には、なんだかよくわからない「異様な迫力」が充満している。支離滅裂ながらも、「火事場の馬鹿力」のような、わけのわからない強烈なエネルギーを発散しているのだ。
この作品を具体的に説明しようとすると、どうしても先述のように悪口の羅列になってしまうのだが、間違いなく本作は非常に魅力的で稀有な映画だと思う。『ノストラダムスの大予言』という、ある種のテキヤ感覚・見世物小屋感覚で書かれた怪しげな現代の「奇書」を中心に、「終末論者」だった農林省の異端官僚、西丸震哉を筆頭にして、異常気象や食生態学、植物社会学の専門家、半村良や石川喬司などのSF作家、そしてオカルト児童書でもおなじみの前衛科学評論家・斎藤守弘などのクセ者を集めて、短期間でなんらかの意見がまとまるとはとても思えない。そのまとまらないコンセプトをまとめないまま、ほとんど暴力的に一作の長編映画に無理やり詰め込んだような「異形さ」。そこにこそ、本作ならではの迫力があると思う。
現在、テレビのニュースをボーッと眺めているときなど、この映画を無意識に思いだしていることが多い。いつまで続くのか見当もつかないパンデミック下の混乱を伝える映像を見ながら、あの岸田京子の不気味なナレーション「美しい乙女の輝き。それはもう輝くことはない……」が、知らず知らずのうちに頭の中で繰り返されていることに気づいたりする。
本作が筋書きのない混乱の果てに突き付けてくる有無を言わせぬ闇雲な終末観。それが今の現実に一番近いのかも知れない。つくづく現在の僕らは、あの「ヘンな映画」のような世界に生きているんだなぁ、と思う。
(2021年3月31日記事を再編集)
初見健一
昭和レトロ系ライター。東京都渋谷区生まれ。主著は『まだある。』『ぼくらの昭和オカルト大百科』『昭和こども図書館』『昭和こどもゴールデン映画劇場』(大空出版)、『昭和ちびっこ怪奇画報』『未来画報』(青幻舎)など。
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