超古代に列島を結んだ大地のネットワーク「日本のピラミッド」/世界ミステリー入門

文=中村友紀

    世界のピラミッドのルーツは日本にある——。キリスト教伝道者・酒井勝軍はそう主張し、日本各地の山にピラミッドを見いだしていった。 そして、それらのピラミッドを結んでいくと、大地のエネルギーをつなぐラインが現れるという。古文献にも記された太古日本の謎に迫る。

    ピラミッドの起源は古代日本にあった?

     ピラミッドといえば、だれもがエジプトやマヤの巨大遺跡を思い浮かべる。だが、こうした世界遺跡に見られるピラミッドの「ルーツ」は、古代日本にあったと主張した人物がいた。神学者でキリスト教伝道者の酒井勝軍(かつとき)である。

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    酒井(中央奥)がエジプト・ギザのピラミッドを訪れた際に撮影した記念写真。

     明治7(1874)年に山形県で生まれた酒井は、14歳で洗礼を受けキリスト教徒になる。東北学院を卒業後に渡米し、のちに得意の語学力を買われ、日本政府からパレスチナやエジプトに派遣されることになった。
     もともとユダヤと日本のつながりに強い興味を抱いていた酒井はこのとき、現地で壮大なピラミッドを目にしたことをきっかけに、ピラミッドの起源は日本にあると主張しはじめたといわれている。
     実際、酒井はいう。「ピラミッドは元来、天地神明、モット的確に言へば天照日神を祭祀する神殿であるから人跡の在らん限り、世界何れの所にも見受けられる筈のものであるが、ピラミッドといふとエヂプトに限られ、亦ギザに在る物に限られたやうに今日まで誤解されて居ったのは、一つは旅行者の眼に最も触れ易い所にあるためで、モ一つは其規模が如何にも雄大であるためであった」(酒井勝というのだ。ところが日本にピラミッドがないと「誤解されて居った」理由は、それがあまりにも眼に触れやすいところにあり、しかも規模が雄大すぎたことにあるというのである。
     それもそのはず、酒井は日本各地にある「自然の山」がピラミッドだと主張したのだ。
     酒井は、ピラミッドとは「天(あめ)の御柱(みはしら)」という意味で、霊廟ではなく祭壇であることが基本であると主張し、その形式を以下のように定義する。

    ●本殿(ピラミッド)の形が整然とした三角錐をなしていること。このとき斜面の角度は76度50分を原則とする。本体は自然の山を利用し、なるべく人の手を加えないほうが望ましい。エジプトの砂漠の場合、理想的な山がなかったので、やむをえず石材で建造したが、日本ではその必要は認められない。
    ●本殿の頂上もしくはその付近には、太陽石を中心に配置された列石(ストーンサークル)や磐境(いわさか)が置かれている。列石は円形もしくは方形、あるいは両者の組み合わせで4種類がある。
    ●本殿の近くにはそれを拝する拝殿の役割を果たす小さな山があり、そこにはドルメンなど祭祀用の施設が置かれている。

     酒井は、昭和5(1930)年ごろから各地で講演会を開いては、日本列島のどこかに必ずこれらの条件に当てはまるピラミッドが存在するはずだと説いてまわった。いや、それだけではなく、自らピラミッド捜しにも乗りだしたのだ。

    酒井勝軍が発見した日本のピラミッド

     昭和9年4月23日、酒井は広島県庄原市本村町の山中にいた。
     元代議士の某(なにがし)から、彼の郷里である広島県下にピラミッドがあるという話を聞かされたのだ。それによると、村の若者たちが山中で不思議な石を発見し、試しに掘ってみたがいくら掘ってもきりがない巨大な切石で、しかも石垣のようになっていたというのだ。また、山の頂上には文字が刻まれた謎の石柱も立っているという。
     この情報をもとに早速現地を訪れた酒井ら一行は、雨の降るなか山中を進み、鬼叫山(ききょうざん)と呼ばれる小さな山にさしかかった。

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    広島県北部に位置する葦嶽山(あしたけやま)。酒井によって発見された第1号のピラミッドで、日本のピラミッド研究の原点でもある。

     時間は夜の7時。日はすでにとっぷりと暮れている。空腹と疲労が嫌でも身体にしみた。酒井はそのときの様子をこう記す。
    「而(しか)して心身共に疲労困憊の極に達した時に、所謂胸突八丁(いわゆるむなつきはっちょう)の嶮(けん)に差懸ったのである。実に想
    ひ起すもゾッとする難儀であった。が遂に目的の終点に到達した」(『太古日本のピラミッド』)
     酒井によれば、「目的の終点」には3つのドルメン(基礎となる支石の上に、平板な石を載せた古代遺跡)があった。おそらくはこれが、ピラミッドを拝する際の供物台になっていたはずだと、酒井は感じていた。
     さらに周囲を見ると、天空をにらみつけるようにそそり立つ鏡石も目に飛びこんできた。
     鏡石の下方には、6メートルほどの高さの石柱も見えた。この柱の上面には半球型の穴が彫られており、伝説によればそこには「夜光の球(たま)」がはめられていたという。また、この石柱はかつては3本あったといい、本来は4本揃いで方位を示すものと推測された。

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    葦嶽山山中で見つかった巨大な石柱。酒井の発見時には同じような石柱が数本立っていたが、のちに彼の思想が危険視されたことで、官憲らに破壊された。

    「ここが拝殿だ!」
     暗闇のなかで、酒井はそう確信した。では、本殿であるピラミッドはどこにあるのか。だが、日が完全に没した山中で、雨はますます激しくなる一方。これでは本殿はおろか、拝殿の調査さえままならない。
     だが、奇跡が起こる。
    「そして止やむを得ず帰途の第一歩に入るべく後方に向き直った其瞬間、アヽ天佑又神助、我等の直前に松林を通して完全なるピラミッドが恰(あたか)も淡い墨絵の如くに鮮かに聳(そび)えてゐるではないか。
     余は叫んだ『諸君彼(あ)の山が正(まさ)にピラミッドである』」(『太古日本のピラミッド』より)
     目の前にあったのは、葦嶽山(あしたけやま)だった。まさに太古日本のピラミッド、葦嶽山ピラミッド発見の瞬間だった。
     後日、調べてみると葦嶽山の斜面には、明らかに人の手が加えられたと思しき巨石が階段状に積み重ねられていた。また、山頂は狭いながらも平地になっており、太陽石も確認できたという(現在では失われている)。さらに山頂近くの斜面には、エジプトのスフィンクスを想起させるような巨大な「エボシ岩」もあった。
     まさに、酒井本人が定義するピラミッドそのものだったのである。

    『竹内文献』に残るピラミッドの記録

     ところで酒井は、ピラミッドが日本で発生したことを証明する「記録」もどこかに存在するのではないか、と考えていた。そして白羽の矢を立てたのが、茨城県北茨城市の皇祖皇太神宮=天津教(あまつきょう)に伝わる古史古伝『竹内文献』である。
     実は葦嶽山ピラミッドを「発見」する前から酒井は、『竹内文献』にも古代のピラミッドに関する記述があるのではないかと思い、天津教教祖・竹内巨麿(きよまろ)に教えを請うていた。だが、それらしい記述は見つからなかったのだ。
     しかし、現実にピラミッドが「発見」された以上、『竹内文献』にも必ずピラミッドについて書かれているはずだとの意を強くした酒井は、再び皇祖皇太神宮を訪れる。
     その熱心な姿に心を打たれた竹内巨麿は、それまでは未開封だった資料も調べてみることを約束した。すると次のような記述が見つかったのである。
    「年三月円十六日、詔して、吉備津根本国に大綱手彦、天皇霊廟、亦名メシア、日の神、月の神、造主神、日来神宮」
     注目すべきは最後の「日来神宮」で、これはまさに「ヒラミット」と読むのだという。「大綱手彦」はウガヤフキアエズ朝12代天皇の叔父で、年代的には2万2000年前の人物だ。
    「吉備津根本国」は現在の岡山県付近だから、まさに酒井が発見した葦嶽山がある地域に近い。
     つまりこれこそ、2万2000年前に中国地方にピラミッドが築かれた記録だというのである。また同書には、12代天皇の時代には日本列島の4か所でピラミッドが建設されたという記述もあった。
     これに力を得た酒井は、その後も「日本のピラミッド」を発見していくのだ。

    日本各地に点在する太古のピラミッド

     日本列島には具体的に、どのようなピラミッドがあるのか。簡単ではあるが、代表的なものをいくつか見ていこう。

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    五葉山の山頂付近にそびえる日の出岩。五葉山は酒井勝軍本人によってピラミッドに認定されている。

    ● 五葉山(ごようざん)ピラミッド(岩手県)
     岩手県にある五葉山は、酒井勝軍本人によって認定されたピラミッドだ。標高は1351メートルと、北上山系では早池峰(はやちね)山につぐ高さがあり、海に近いことからひときわ立派な山容が目立っている。
     昭和13(1938)年、酒井はこの山を「ヒヒイロカネ」と呼ばれる超古代の金属を捜すために訪れる。そして、実際にヒヒイロカネを発見したというのだが、具体的な場所や発見状況については説明していない。
     なお、五葉山は山のあちらこちらにピラミッド遺構と思しき巨石が散見される異形の山であり、これには酒井も驚きを隠せなかったという。

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    超古代の金属「ヒヒイロカネ」。錆もせず、腐ることもない謎の金属と伝えられる(写真提供=八幡書店)。

    ●位山(くらいやま)ピラミッド(岐阜県)
     岐阜県高山市にある標高1500メートルの位山は、飛騨一宮水無(みなし)神社の御神体であり、日本二百名山のひとつにも数えられている。
    『竹内文献』には「位山に、日の神の皇太子の居る大宮を日玉国と云ふ」とあり、天孫降臨が行われた場所と指摘している。
     中腹の山頂が望める位置には祭壇石と呼ばれる巨大な平面の岩があり、これはピラミッドである位山の祭壇ではないかと推測されている。また、山頂へ至る登山道周辺にも無数の巨石が配置されていることから、かつては山全体が宗教施設だったことがうかがわれる。

    ●日輪神社ピラミッド(岐阜県)
     昭和13(1938)年に上原清二陸軍大佐によって、太古のピラミッドであり、太陽の祭祀遺跡であると主張されたのが、岐阜県高山市の日輪(にちりん)神社ピラミッドだ。祭神は天照皇大御神(アマテラス)で、まさに太陽神そのものである。ちなみに日輪神社・日輪宮という名前は、全国でもここだけだといわれている非常に珍しいものだ。
     山容はかなり鋭角的な三角錐の山で、外観的にはまさにピラミッドそのものだ。本殿の裏山には太陽石の存在も確認されており、この日輪神社を中心に16の方位に直線を引くと、周囲の神社やピラミッド、聖山が均等にライン上に乗ることもわかっている。

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    秋田県鹿角市にある黒又山(くろまたやま)。
    その姿から「日本一美しいピラミッド」ともいわれ、過去に本格的な学術調査が行われている。

    ●黒又山(くろまたやま)ピラミッド(秋田県)
     秋田県鹿角市十和田大湯地区にある黒又山は、本格的な学術調査が複数回行われている、日本でも数少ないピラミッドだ。
     レーダーによる地質学調査により、山体は溶岩が盛りあがってできた自然の山であることが判明している。ただ、斜面には7段から10段ほどのテラス状の遺構があり、これは張り出し部分で幅約10メートル、高さ2〜3メートルもある。さらに山の表面には、小さな礫がびっしりと貼られていたこともわかっている。
     こうしたことから黒又山は、自然の山の斜面にテラスを設け、さらに石を貼った「階段式ピラミッド」である可能性がある。
     また、山頂は平らに整えられており、本宮神社が鎮座している。平成4年に行われた調査では、社殿の真下に巨大な岩が埋められていることが判明。さらに頂上から少し下った場所では、地下10メートルほどのところに南・西・北の三面を壁で囲まれた一辺が10メートルほどの空洞も見つかっている。
     ちなみに黒又山の北東数十メートルには「小クロマンタ」と呼ばれる小山があり、黒又山ピラミッドの拝殿ではないかという指摘もある。

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    長野県長野市にある皆神山(みなかみやま)。
    ほかのピラミッドと違って、中央が陥没したような形をしているが、過去に地下空間の一部が崩れたことによると考えられている。

    ●皆神山(みなかみやま)ピラミッド(長野県)
     長野県長野市松代にある、標高659メートルの皆神山は、中央部が陥没したかのような形をしている。
     皆神山は溶岩ドームだが、現在の火山活動はほぼ皆無である。
    にもかかわらず、昭和40年には地下3〜5キロを震源とする地震が頻発。詳細は省くが、のちに「サンデー毎日」が通産省・地質調査書のデータを調べたところ、「皆神山の中心部の重力は、マイナス6ミリガル(重力の5000分の3)、標準値を下回っている」という記述を発見。
     この数値は、皆神山の地下に少なくとも縦3キロ、横1.6キロ、高さ400メートルの巨大な楕円形空間がなければ説明がつかないというのだ。
     だとすれば、中央部分が陥没したようなシルエットは、この地下空間の一部が崩れたためとも考えられる。そうであれば、もともと皆神山は、美しい三角形のピラミッドだったという可能性もあるわけだ。
     ——さて、このほかにも日本列島には、靄山(もややま)(青森県)、尖山(とがりやま)(富山県)や大和三山(奈良県)など、数多くのピラミッドが存在している。だが、紙幅の都合もあるので、以下は割愛させていただくことにしよう。

    日本のピラミッドは列島各地を結ぶ超古代の装置か?

     最後に、日本でピラミッドがつくられた目的について検証してみることにしたい。
     前述のように酒井は、ピラミッドは天照大神を祀るためのものであり、同時に神社のルーツにもなったと主張する。
     おそらくはそういう面もあったことだろう。だがその一方で、日本列島のピラミッドは互いに不思議なエネルギーのネットワークで結ばれているのではないか、という主張もある。
     日本列島を地域ごとにいくつかに分割し、それぞれの地区で中心となるピラミッド同士をつないでいくと、明確なラインが表れるというのである。これが、大地のエネルギーをつなぐピラミッド・ネットワークになっているという主張だ。
     そのエネルギーの根拠として考えられるのが、古史古伝のひとつ『カタカムナ文献』に記載された「イヤシロチ」である。
     同書はイヤシロチについて、簡潔にこう記している。
    「ヨモノタカミヲムスブハイヤシロチ」
     ヨモとは自然の地形であり、タカミは高み、つまり山や丘の山頂部を意味する。ようするに自然の高みどうしを結ぶ線が交わるところが「イヤシロチ」になるということだ。
     イヤシロチでは大地のエネルギーがより高くなるので植物がよく育ち、動物や人間の健康も促進されるという。また、そうでない土地も、巨石を一定の法則で配置することで、エネルギーを高めて「イヤシロチ化」することができるという。
     つまり、巨石を配置した高みであるピラミッドは、土地をより強力にイヤシロチ化させるパワースポットであり、このピラミッドの高みどうしをつなぐことで、間にあるほかの土地も浄化して「イヤシロチ化」させるスーパーテクノロジーだったというのである。
     古代の人々は、このピラミッドというエネルギー発信装置を大地のネットワークで結び、日本列島全体を「イヤシロチ化」させていたのではないか、というわけだ。
     そしてこの考えは、風水でいう大地のエネルギーである龍脈や、ヨーロッパの大地を流れるエネルギー、レイラインの応用法にも通じるものだ。
     とくに後者のレイラインでは
    大地のエネルギーの流れのポイントになる場所ごとに、必ず聖地や教会、マウンド(小山)が置かれている。これも、日本ピラミッドが祭壇であったことを思えば、両者の共通点ということができるだろう。
     もしかすると日本のピラミッドは、その形状だけではなく、大地のエネルギーを効果的に活用するテクノロジーとして世界に広まった、超古代における日本の叡智そのものだったのかもしれないのである。

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