SF同人誌から日本空飛ぶ円盤研究会へ!研究家としての一歩は翻訳から/超常現象研究家 南山 宏(4)
1970年代に巻き起こったオカルトブームのパイオニア、南山宏の肖像に迫る!
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1955年、日本初のUFO研究会が産声を上げる。結成70年を記念して、ミステリー史に刻まれたその足跡を検証する。(前編)
今年(2025年)は、日本最初の民間UFO研究団体である「日本空飛ぶ円盤研究会」が設立されてから、ちょうど70年の節目だ。一般社団法人超常現象情報研究センターでは、この団体の往年の活動を偲んで9月13、14の両日、ささやかながら関連資料の展示会を行った。


1955年7月1日に結成されたこの研究会には、日本全国からUFOに関心を持つ会員が、最盛時には1000人近く集まり、1960年に休会するまで、機関誌「宇宙機」発行をはじめとするさまざまな活動を行った。
顧問には作家の北村小松(文中はすべて敬称略)やマルチタレントの徳川夢声、日本のロケット開発の草分けである糸川英夫などが名を連ね、会員にもUFO・超常現象の研究家だけでなく、世界的に知られた作家の三島由紀夫や石原慎太郎、黛敏郎などの著名人がいたことでも知られている。

その日本空飛ぶ円盤研究会は、どのような経緯で結成されたのだろうか。
1947年6月24日、アメリカの実業家ケネス・アーノルドが、自ら操縦する自家用機でワシントン州レイニア山麓を飛行中、9個の謎の飛行物体を目撃した。この、いわゆるアーノルド事件をきっかけに、「空飛ぶ円盤」という言葉が誕生。事件はすぐに世界中で報道され、日本でも7月になると、いくつもの新聞や雑誌の記事に「空飛ぶ円盤」という文字が躍るようになった。
当時、こうした記事を読んでUFOに関心を持った人物が日本には何人もいたようで、そのひとりが後に日本空飛ぶ円盤研究会会長を務める荒井欣一である。
荒井欣一は、1923(大正12)年7月6日、東京の五反田で生まれた。生家は質店を営んでおり、番頭やお手伝いさんなども抱えるそれなりに裕福な家庭だったという。他方で少年時代から天文学に関心があり、宇宙のどこかに地球人と同じような生命が住んでいるのではないかと思いを馳せるような子供だったという。
その荒井が青山学院中等部に進んだ次の年に日中戦争が始まり、青山学院専門部(現在の青山学院大学)時代には学徒動員で陸軍に入隊。国立市の陸軍電波兵器学校や水戸市の航空通信学校でレーダーについて教育を受け、山口県下関市小月で機上レーダーの装備の任に就いていたとき、陸軍少尉で終戦を迎えた。
戦後しばらくは世田谷区上馬に疎開し、男手の足りなくなった地元で便利屋のようなことをしていたが、日本橋区長を務めたことのある人物の紹介で、1946年2月に大蔵省に入省、印刷局で勤務することになった。終戦直後は中央官庁も激しい人材不足で、公務員試験を受けることなく採用される人物もかなりいたのだ。
荒井がアーノルド事件について知ったのは、1947年、大蔵省印刷局に勤めていたころだった。関連記事を読んだ荒井は、他の天体の知的生命体が飛ばしているのではないかと直感し、仕事の傍ら少しずつ資料を集めるようになった。

1950年には大蔵省を辞めて古書店を開いた。結局、型にはまったお役所仕事は彼の性に合わなかったようだ。
開業にあたっては自分の蔵書に加え、数百冊を新たに買い求めて品揃えをした。なにしろ学生時代から本を読みふけり、哲学書、日本史、さらには俳句など1000冊を越える蔵書があり、それが被害を受けずに手つかずのまま返ってきたのだ。しかしそれだけだと内容が硬すぎるので、一般向けの本を買い足したということだ。
古書店に加え、貸本業も始めた。東京都古書組合第六支部に「貸本部」を作り、東京都読書普及商業組合の機関誌「街の図書館」の編集も行うなど、古書店や貸本業界の発展に尽力した。
本格的にUFO関係の記事や書籍を集めるようになったのは、このころからだ。客のなかにも関心を持つ者が何人かおり、店先で気の合う者同士、洋書や雑誌をたよりに自然にUFO論議をするようになったという。
研究会設立の直接の契機となったのは、1954年、日本でジョージ・アダムスキーとデズモンド・レスリーの共著『空飛ぶ円盤実見記』がベストセラーになったことだった。

アダムスキーは、1952年11月20日、カリフォルニア州のモハーベ砂漠でオーソンという金星人と会見したと主張し、翌年デズモンド・レスリーとの共著という形でこの会見記を公表した。現在ではアダムスキーのこのコンタクト・ストーリーについては、一部の支持者を除き大多数の研究家が否定的な見解を示しているものの、当時、この著書は世界的なベストセラーになった。翌年には日本でも翻訳出版され、大きな話題となったのだ。
こうした世間の動きを受け、1955年7月1日、日本空飛ぶ円盤研究会が結成されることになる。
雑誌「UFOと宇宙」1978年12月号に掲載されたインタビュー記事で、荒井欣一は当時の経緯に言及している。
「この本を買った人や、近所で関心のある人たちが店の中に集まって、ウソかマコトかという議論が続くようになった。……やがて、こういった問題をひとつ公の場で論じてみたら面白かろうということになってきた。ただアダムスキーがウソかマコトかという特殊な問題だけじゃなしに、UFO全般について論じ合おうじゃないかということでね」

結成に先立って荒井は、当時UFO関連の記事をいくつも執筆していた作家、北村小松に直接面談して協力をとりつけている。
北村は、昭和初期から戯曲、脚本、小説などで活躍した作家で、戦時中は戦意高揚のための小説を少年向けも含めていくつも書いた。そのため戦後は公職追放を受けていたが、1950年に公職追放が解除されて以来、各種の雑誌にUFO関係の記事を執筆していた。いわば、日本のUFO研究の草分け的な存在だった。
北村本人によれば、1948年初頭、病気で寝込んでラジオだけを聞く生活を送っていたところ、進駐軍向けの放送で偶然マンテル事件についてのニュースを耳にし、以来UFOに関心を持ったということだ。

古書店を営み、UFO関係の資料を集めていた荒井欣一だから、北村のUFO記事についてもよく承知しており、それまでいっさい面識のなかった北村の自宅を直接訪れた。こうした荒井を北村は快く迎え、十数冊に及ぶUFO関連書籍を見せてくれたという。
そしてこのときの会談で、「科学的原則は重視するが、非現実的な科学論にとらわれない。非科学的、宗教的UFO論は極力排除する。現時点では否定論、肯定論もできるだけ公平に扱う。できるだけ多くの情報を収集し、正しい情報は速やかに会員に伝える。営利主義的な団体とならず、すべての責任は荒井が負う。会員相互の意見を尊重して、できるだけ分裂、対決を避ける」という内容で合意ができた。
さらに北村は、研究会顧問として徳川夢声、石黒敬七、中正夫、糸川英夫といった人物を推薦してくれた。
徳川夢声は、今でいうマルチ・タレントの元祖ともいうべき存在で、活動写真の弁士から始め、漫談家、俳優としても活躍し、小説やエッセイも多数執筆している。しかもアーノルド事件より50年以上前の1890(明治33)年に、東京で四角形のUFOを目撃したことがあるようだ。
石黒敬七もまたタレントで随筆家であった。本来は柔道家であったが、徳川夢声とは懇意にしており、NHKのラジオ番組「とんち教室」では、一緒にレギュラーを務めていた関係で顧問に推薦されたらしい。
中正夫は作家で、少年向けに航空関係の入門書や冒険小説を残していた。雑誌「ロケット」1950年4月号には、「空飛ぶ円盤の謎 来るか遊星人」と題した記事を掲載している。
最後の糸川英夫は、「日本の宇宙開発・ロケット開発の父」とも称される工学者で、東京帝国大学工学部航空学科卒業後中島飛行機に入社、名機隼の設計にも携わった。戦後はロケット研究に邁進し、1955年に行ったペンシル・ロケットの水平発射実験は、日本最初のロケット実験として記憶されている。
その後アマチュア天文学者として名を知られた保積善太郎や、「子供の科学」誌の創刊者でもある科学ジャーナリスト、原田三夫も顧問に名を連ね、北村を含めて顧問は最終的に7人になった。
原田は、1953年に「日本宇宙旅行協会」なるものを設立し、火星の土地の分譲予約という奇妙な活動を始めて話題になったが、顧問77人のうち、北村小松と中正夫以外はここの会員だったという。
こうして「日本空飛ぶ円盤研究会」が正式に発足し、東京都読書普及商業組合の機関誌「街の図書館」などを通じて会員募集が行われた。
研究会としての最初の活動は1956年2月4日に、荒井の友人が経営する水野食堂で北村小松を囲んで行われた座談会のようで、約30名が集まり、映画「宇宙人東京に現わる」の中代富士男監督が話をし、北村が持参した海外の関連書籍の説明などを行ったという。
機関紙である「宇宙機」の第1号が発行されたのは、この年の7月1日である。第1号はB4版一枚紙の裏表にガリ版で印刷され、荒井欣一「空飛ぶ円盤研究会の目的」、糸川英夫「動力は光子ロケットか」といった記事が並び、随筆家森田たまの目撃報や洋画家三岸節子の「フランスにも着陸している」という記事も掲載されているが、これらは他の雑誌に掲載された記事の要約である。
この機関誌の発行と、研究会の存在がその年の7月9日付「朝日新聞」に報道されたことで、入会希望者が押し寄せるようになった。
「朝日新聞」などの報道を見て入会を申し込んできた人物には、高梨純一や斎藤守弘など、後にUFO研究や超常現象研究で活躍する人物が何人もいた。
斎藤守弘は、当時まだ東京文理科大学(現筑波大学)の学生だったが、新聞記事で荒井の連絡先を見て訪ねて来たという。前述の「UFOと宇宙」のインタビュー記事によれば、「その頃からUFOや超常現象の資料をずいぶん集めておられて、しかもそれを大学ノートにぎっしりと書いてあるんですよ」とのことだ。
斎藤は「宇宙機」第7号に、「日本の空飛ぶ円盤の歴史記録」を寄稿したのを皮切りに、河津薫や他繰越波夫のペンネームも用いて、毎号のように記事を寄せている。また、「宇宙機」第18号(1958年2/3月号)で、「空飛ぶ円盤は宇宙機である」というテーマで懸賞論文を募集したときには、斎藤が河津薫の名で応募した論文が並みいる会員諸氏を抑えて一等に入選し、会が発行する小冊子「空飛ぶ円盤シリーズ」の第1号として刊行された。
1960年の日本空飛ぶ円盤研究会休会後、斎藤は「S-Fマガジン」にサイエンス・ノンフィクション」と題する連載を持ち、以後少年少女漫画誌に超常現象に関する多くの記事を執筆、関係書も多数著して、日本の超常現象界に大きな足跡を残している。
高梨純一は1956年に自分の研究団体「近代宇宙旅行協会」を設立するが、その後も「宇宙機」に多くの記事を寄稿している。
なお斎藤守弘の言によれば、荒井、高梨、斎藤は日本でUFOを最初に始めた三人男だそうだ。
UFO研究家としては他にも、後に「宇宙友好協会(CBA)」京都支部長となる三上晧三や、女流UFO研究家で、後のコンタクティ安井清隆の内縁の妻である畑野房子も会員として、何度も「宇宙機」に記事を寄せている。
さらに、後に自分は金星人の生まれ変わりと主張した酒井克己や、「宇宙クラブ」を主催した堀田建城別、コンタクティのはしりである永井勉といった人物も会員だった。
またCBA共同設立者のひとりで、後に「CBA事件」をめぐって荒井と対立することになる松村雄亮も、会員ではないが「宇宙機」に何度も情報を提供し記事を書いている。
その他、世界中の不思議な事件を雑誌や著書で紹介しつづけた黒沼健、「超科学会」や「サイ科学会」会長を務めた橋本健、超常現象研究家の南山宏、日本心霊科学協会理事を務めた金沢元基や、心霊研究家の仁宮武夫も会員に名を連ねていた。
SF同人誌「宇宙塵」を主催した小隅黎こと柴野拓美も、初期からの会員だった。柴野は北村小松の紹介で入会したというが、朝日新聞社での資料収集や、銚子事件の調査など(いずれも後述)にも荒井と同行している。
「宇宙塵」は、後に高名なSF作家となる人物を大勢輩出したことで知られているが、そもそもは、柴野が日本空飛ぶ円盤研究会会員のなかから、同好の士を集めて始めたものだった。日本空飛ぶ円盤研究会こそ「宇宙塵」の母体だったのだ。
UFO分野以外の有名人としては、やはり大作家、三島由紀夫の名を最初に挙げなければならないだろう。
『UFOこそわがロマン 荒井欣一自分史』によれば、日本空飛ぶ円盤研究会発足から1年ほどたったころ、自宅に一本の電話がかかってきたという。入会申込書を送付するからといって名前を尋ねると、「三島由紀夫です」との返事が返ってきた、入会申込書には達筆な毛筆で「文士三島由紀夫」と署名があったという。

三島由紀夫の入会は、「宇宙機」第3号(1956年9月5日発行)に、作曲家黛敏郎の入会と一緒に掲載されている。
三島はかなりUFOに思い入れがあったようで、1957年6月8日に銀座日活ホテル上空で行われた円盤観測会にも参加している。このとき同席した斎藤守弘によると、上下白の粋なスーツで現れ、他の人とはあまり口を利かなかったという。三島は「宇宙機」第13号(1957年7月号)には、「現代生活の死」という一文も特別に寄港している。
のちに知事となる石原慎太郎も会員だった。文筆関係では他に星新一や文芸評論家の荒正人がいる。
「日本空飛ぶ円盤研究会会員名簿」を見ると、会員は医師や大学教授、会社経営者、小松製作所、日本鋼管や日本航空などの一流会社社員から私立探偵、中学生までさまざまだ。会員の多くはUFO宇宙機説、つまり地球外仮説を支持していたようだが、異なる立場の者もおり、「宇宙機」第4号(1956年10 月20日発行)には、後藤哲也「空飛ぶ円盤は宇宙艇ではない」という、UFOの正体を宇宙船以外に求める説も紹介された。
つまり日本空飛ぶ円盤研究会には、宇宙船説を支持する者も否定する者も、コンタクト支持派もそうでない者も、見解の違いを越えて日本でUFOに関心を持つ人物が広く参集していたのだ。

*後編(2026年1月12日公開)に続く https://web-mu.jp/column/64878/
(月刊ムー 2025年12月号より)
羽仁 礼
ノンフィクション作家。中東、魔術、占星術などを中心に幅広く執筆。
ASIOS(超常現象の懐疑的調査のための会)創設会員、一般社団法人 超常現象情報研究センター主任研究員。
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