UFO=空飛ぶ円盤を世界に認識させた 「ケネス・アーノルド事件」/羽仁礼・ムーペディア

文=羽仁礼

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    UFO、UMA、心霊現象から、陰謀に満ちた事件まで、世界には不可思議な事象や謎めいた事件があふれている。ここでは毎回「ムー」的な視点から、それらの事象や事件を振り返っていく。今回は、「UFO事件史の幕開け」ともいえる「ケネス・アーノルド事件」を取りあげる。

    世界がUFOを認識した 「UFO元年」の事件

     毎年6月24日は、国際UFO記念日として記憶されている。 最近、一部の研究家は、「ロズウェル事件」が起きた7月2日もUFO記念日とみなしているが、この6月24日については、1947年のこの日、アメリカの実業家ケネス・アーノルドが9個の謎の飛行物体を目撃するという、いわゆる「ケネス・アーノルド事件」が発生したことで定められた。
     この事件によって、正体不明の物体が空を飛んでいるということが世界的に認識され、「フライング・ソーサー(空飛ぶ円盤と訳される)」という言葉が生まれたのもこの事件がきっかけだった。

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    UFOのイラストを指して、自身の目撃体験を語る晩年のケネス・アーノルド。

     ケネス・アーノルド(1915〜1984年)はミネソタ州セベカに生まれ、長じてミネソタ大学に学ぶと、1940年からアイダホ州で防火システム機器の販売・据付を行うグレート・ウエスタン・ファイヤー・コントロール・サプライという会社を設立した。
     ビジネスマンであると同時に水泳と飛び込みが得意なスポーツマンでもあり、小型機のライセンスを持つパイロットでもあった。
     問題の1947年6月24日、彼は商用のため、自家用機を操縦してワシントン州チェハリスを訪れていた。チェハリスでの仕事を終えたアーノルドは、次の目的地ヤキマに向けて飛び立ったが、機上で、少し回り道をしてレーニア山に向かうことを思い立った。じつは前年の12月、アメリカ海兵隊のC-46輸送機が乗員32名を乗せたままレーニア山付近で消息を絶つという事件が起きたが、積雪で捜索が難航したこともあり、6月になってもその残骸が発見されていなかったのだ。
     空は完全に晴れていて、穏やかな風が吹いていた。
     アーノルドはレーニア山周辺で少しばかり飛び回ってみたが、結局何も発見できなかった。そこであらためてヤキマ方面に進路を変更し、2、3分ばかり飛んだときだ。突然アーノルドは、太陽が鏡に反射したような閃光を感じた。
     ほかの航空機が近くにおり、その機体からの反射ではないかと思って周囲を見回してみたところ、左後方のかなり離れたところに、DC-4輸送機が1機飛んでいるのが見えた。しかし、この輸送機はアーノルドの自家用機から遠すぎて、閃光の原因とは思えなかった。
     最初の閃光から約30秒後、左方向から再び光が見えた。自家用機の風防に太陽光が反射しているのかとも考え、機首を左右に振ってみたり、眼鏡をはずしたり、左側のガラスを開けたりした後、アーノルドは、斜めの梯隊(ていたい)を組んで飛んでいる何かが、太陽の光を反射しているのだと気づいた。
     それは「高度約2850メートルをほぼ北から南、正確には方位角約170度方向へと飛行していく、航空機のように見える奇妙な9つの連なった物体」だった。
     物体までの距離は、38キロほどと思われた。
     飛行物体は、数秒ごとに舞い降りたり方向を変えたりして飛んでいた。
     その飛び方からガチョウの群れかとも思ったが、高度や明るい輝き、非常に速いスピードを考えると、それはあり得なかった。そこで新しいタイプのジェット機かと思い、その形状を確認しようとした。最初はその大きさや形を判断できなかったが、物体がレーニア山を通過する際、残雪をバックにしたため、輪郭がわかった。
     左後方にいるDC-4は大きさがわかっているので、アーノルドはその機体と、両者の距離との関係を比較し、物体の大きさは約15メートルと見積もった。
    幅はそれよりやや狭かった。厚さは薄く、横から見たときは1本の黒い線のようだった。ジェット機にしては尾翼が見えず、時折急に動く際には明るい閃光を発した。
     物体の列は少なくとも8キロほどと思われ、この列がレーニアの山南端に差しかかってから、最後の1機が少し離れたアダムズ山を通り過ぎるまでに102秒かかった。

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    アーノルドが描いた飛行物体の説明図。飛行物体の先頭にいた1機は、図のように飛行していた。

    「空飛ぶ円盤」は誤報から生まれた?

     アーノルドは午後4時ごろヤキマに到着し、そこで、友人で空港のゼネラル・マネージャーでもあるアル・バクスターに自分の奇妙な体験を物語った。アーノルドの奇妙な体験は、すぐに大勢の知るところとなった。
     次の目的地オレゴン州ペンドルトンで、アーノルドは地図を調べ、レーニア山とアダムズ山の距離が約76キロあることを確認した。
     そうすると物体は、このふたつの山の距離に列の長さを加えた84キロを1分42秒で通り過ぎた計算になる。そのまま時速に直すと2900キロ以上の超高速になる。
     アーノルドは少し控えめに時速2720キロと判定したが、いずれにせよ当時実用化されていた航空機のなかで、この速度で飛行できる機種など存在しなかった。
     翌25日、アーノルドは地元紙「ペンドルトン・イースト・オレゴニアン」の事務所で新聞記者たちと会見し、その日の午後から、多くの新聞が彼の事件を報じるようになった。
     アメリカのUFO研究家テッド・ブローチャーによれば、新聞に「フライング・ディスク」とか「フライング・ソーサー」という文字が躍ったのは27日からだという。ただし、この呼び名は物体の形状に基づいたものではなく、アーノルドがその飛び方について「コーヒー皿(ソーサー)が水面で跳びはねるような」と表現したことから生まれたものだという。
     物体の形状に関しアーノルドは、事件直後にはゆがんだ円のような形を描いたが、後に、尾翼や尾部のない平たい形で翼があり、9個のうちの1機はほとんど三日月形で中央にドームがあったと述べるようになった。
    また、物体の飛び方についても、中国の凧の尾のような動きとか、太陽の中で翻る魚のよう、などと述べたこともある。
     いずれにせよこの「フライング・ソーサー(空飛ぶ円盤)」という言葉は瞬く間に世界中に広まり、のちにUFOという言葉が一般化するまで、謎の飛行物体全般を指す言葉として用いられるようになった。

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    1947年6月24日にケネス・アーノルドが目撃した飛行物体の再現イラスト。その飛び方を「ソーサー」にたとえた彼の証言が誤って伝えられ、「空飛ぶ円盤」という言葉が生まれた。

    さまざまな憶測を呼んだ飛行物体の正体とは?

     では、アーノルドが見たものはいったい何だったのだろう。この点に関してはさまざまな説が唱えられてきた。
     まずは、当時アメリカ空軍が開発中だった円盤形航空機、あるいは全翼機ではないかとの報道も出た。しかし、軍当局は当日、レーニアの山現場付近に軍の航空機がいたことを否定している。
     他方でアメリカ空軍は、アーノルドは蜃気楼を見たのだと発表した。しかし物体は、レーニア山の手前に、はっきりした輪郭を保って見え、雪原に対して明るく輝いていたというから、蜃気楼では説明できない。
     UFOについて否定的な天文学者ドナルド・メンゼルは、アーノルドは山から吹きあげられた雪煙を見たのだとしたが、ブルース・マカビーは、そのような雪煙はぼんやりとかすんだような光となり、アーノルドが述べた鏡のように明るいものではないと反論した。
     その後メンゼルは、特殊な形の雲だったとか、窓ガラスの水滴を見誤ったのだとも述べた。
    これらの説についても、当日は快晴だったことから雲ではあり得ないし、窓ガラスの水滴という説については、アーノルドが窓を開けて確かめたという証言に反するから、これも考えられない。
     そのほか、アーノルドが見たものは隕石ではないかとの記事も現れたが、物体の形状や飛び方を考えると該当しない。
     一方、アーノルドの距離の見積もり、さらにそれに基づいた飛行速度の計測に疑問を持つ者もいる。
    「UFO研究の父」ともいわれるアメリカのジョゼフ・アレン・ハイネックは、アーノルドのいう時速2720キロという速度が正確であるためには、物体は32〜40キロほど離れていなければならないが、その場合、長さ15メートル程度のものが肉眼で確認できるかどうか疑義を呈している。
     もしアーノルドの速度計算が誤っており、実際にはかなり低速であったとすれば、通常の航空機であった可能性もある。この前提に立って、連結した気球だったとか、ペリカンの群だったという説も唱えられているが、結論からいうと、アーノルドが目撃したものが何だったのか、現在に至るも結論は出ていない。

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    アーノルドの目撃体験記が初めて掲載された雑誌「フェイト」。

    アーノルドが見たのは極秘開発中の戦闘機か?

     ただ、三日月形で後部が尖っていたというアーノルドの証言が正しければ、この形状は第2次世界大戦末期にドイツが開発していた全翼機、ホルテンHo229にそっくりだ。この機種は、戦後アメリカ軍が捕獲して持ち帰り、今ではアメリカ航空宇宙博物館に保管されている。
     同機については、アメリカ国内で試験飛行が行われたとの証言もあるが、確認されていない。もちろん、1947年6月24 日にレーニア山付近で試験飛行が行われていたという記録はない。
     しかも、ホルテンHo229についてはほかにも奇妙な噂がある。その形は、アメリカ空軍の最新鋭機のひとつ、ステルス戦略爆撃機B-2に非常によく似ているのだ。そこで、ホルテンの技術がB-2の開発に利用されたと主張する者もいる。
     これが正しいとすれば、アメリカ軍が戦後密かにホルテンの試験飛行を行ったことも十分あり得るだろうし、現在運用中の戦闘機にそのデータが活用されているとすれば、試験飛行の情報も軍事機密の厚いベールに隠され、未だに公表されていないという可能性も出てくるだろう。
     なお、アーノルドはこの事件後も何度かUFOを目撃したことがあり、同じ1947年6月に起きた「モーリー島事件」では、アメリカのSF雑誌「アメイジング・ストーリーズ」の編集長をしていたレイモンド・パーマーの依頼で現地調査に訪れたほか、UFO目撃者やコンタクティなどにもインタビューしていくつか記事を書いている。
     1960年代になるとUFOからは距離を置くようになったが、1977年、パーマーが創刊した「フェイト」誌がUFO
    30 周年を記念して企画したイベントには、久しぶりに顔を見せた。
     また1947年はアメリカでUFOの集中目撃、いわゆる「ウェイヴ」が発生した時期であり、アーノルド事件やロズウェル事件、モーリー島事件のほかにも、多くの目撃情報が報告されている。

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    UFOとの接近遭遇事件について、分類の指標を初めて設定したジョゼフ・アレン・ハイネック。アーノルドの目撃証言に疑問を持っていた。
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    アメリカ空軍のステルス戦略爆撃機B-2。ホルテンの技術が利用されたという説もある。

    (ムー2020年1月号掲載)

    羽仁 礼

    ノンフィクション作家。中東、魔術、占星術などを中心に幅広く執筆。
    ASIOS(超常現象の懐疑的調査のための会)創設会員、一般社団法人 超常現象情報研究センター主任研究員。

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