新宿・歌舞伎町で消えた鬼と出くわし、水神の記憶をたどるーー「東京異界めぐり」

文=本田不二雄

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    神仏探偵・本田不二雄の新刊「東京異界めぐり」刊行記念! 新宿の歌舞伎町の裏面を覗き、地霊とふれあう散歩コースをご案内しよう。


    「東京異界めぐり」(本田不二雄・著)/税込み1980円/駒草出版
    https://www.amazon.co.jp/dp/4909646876/

    「鬼王」という名をもつミステリアスな神社

     さて、花園神社の本殿脇から西に出ると、すぐに新宿ゴールデン街ですが、ここは気にせず北上します。やがてラブホテルが建ち並ぶエリアになりますが、カップルとは目を合わさず左折して区役所通りに面するこんもりとしたイチョウの杜を目指します。

     稲荷鬼王神社。「鬼王」なる精神を祀るという神社です。
     まずはお詣りしましょう。

     参道の左にあらわれるのが境内社の三島神社。
     鳥居の扁額には「恵比壽神社」とあり、その上に縁起のいい宝船が載っています。案内板には、「御神歌『うみやまの 数のたからの大久保の 恵比寿おおかみ まもりたまえ』を唱えながら鳥居をくぐるとご利益がいただける」とのこと。
     水盤の手前に斜めに突き立っている竹筒にもご注目。筒口に耳をあてると「ビョンビョン」と金属弦を弾くような音がします。いわゆる水琴窟(すいきんくつ)です。参拝ののちは、手水の柄杓で水をすくい、「かえる石」(水琴窟の対面にあり)にかけ、石をさすりながら願い事を唱えるという作法も紹介されています。

     つづいて本殿へ。拝殿の脇に「天水琴」(水琴窟の一種)があります。「こちらはご祭神に清らかな水の音を聴かせるためのもの、水琴窟のほうはお詣りのときの御鈴がわりです」(大久保宮司)。いずれも、その涼やかな音で日頃の垢が祓われる心地です。
     その奥、本殿左脇には、ミニ富士山の富士塚が二分割(一〜四合目までと五合目から頂上まで)されて積み上げられています。倒壊防止のために再構築されたようですが、それらを左右に配して裏参道の鳥居へとつづくレイアウトになっています。いわば聖なる富士を越えて俗世に還る仕掛けです(逆ルートもあり)。

     見どころの多い神社ですが、社務所の壁には「まちかど博物館」と称して古い映画のポスターが展示され、休憩用のパイプ椅子や喫煙スペースを設けるなど、「鬼王」の名に反して気配りの利いた敷居の低さが印象的です。

    花園神社の靖国通り側の参道にある青銅製狛犬の阿像。
    夕刻の花園神社境内。インバウンドの観光客の奥には熱心な参拝者の姿も。

    〝消えた神〞鬼王権現をめぐる謎

    「大久保家十六世」。いただいた大久保直倫宮司の名刺にはそうありました。

     当社の創祀は承応二年(一六五三)。
    「古くから、現在の歌舞伎町を含む一帯は『大窪』と呼ばれる低湿地で、神聖な場所だったといわれています。そこに稲荷神が勧請されて村(西大久保村)の氏神になった」と大久保宮司。
     実に大久保家は、その当初から祭祀にかかわっており、大窪から大久保へという地名の変遷にもかかわっているのだそうです。

     そして天保二年(一八三一)、当社は鬼王権現なる謎の神を祭神に加えます。
     神社の由緒によれば、大久保村のある百姓が西国巡礼に出かけ、道中で病を罹患。「鬼王大権現に豆腐を捧げて祈れば、病は癒える」と夢告され、紀州熊野の地で鬼王権現に祈ると病気が治った。そして鬼王権現の分霊を携えて村に帰還し、のち稲荷社に合祀される運びとなったといいます。

     なぜ豆腐なのか、いやなぜ謎なのかといえば、その神名が熊野はもとより日本のどこにも残っていない〝消えた神〞だったからにほかなりません。
     いったいどんな神格だったのか。一説には熊野修験の行者が崇めた蔵王権現の別名ともいわれていますが、定かではないようです。

    「一種の流行神だったのかも」としつつ、大久保宮司はいいます。
    「古くは鬼は神であり、力の象徴だったともいわれます。ただ、江戸時代も下ったこの時期、鬼を崇める信仰が起こるというのはどうか。大久保という村で、そんな悪目立ちする氏神を奉じるものなのか……」そう思案しつつ、こう続けます。
    「なのに、あえて村人は鬼王なる祭神を受け入れた。とすれば、もともと(鬼神信仰を受容する)何かがあったのかもしれません」

     実は、「鬼王」とは平将門の幼名「鬼王丸(外都鬼王・げつおにおう)」に由来しているとする説があります。明治四〇年に刊行された『平将門古蹟考』に書かれた説で、明治期に逆賊とされた将門の信仰が、鬼王権現の発祥ではないかというもの。とはいえ、「神社の伝承にはないので、そうだともいいづらい」と大久保宮司。

     というわけで、謎の真相は保留ですが、御由緒にのっとって〈豆腐を一丁奉納し、代わりに当社の「撫守なでまもり」を受け、豆腐断ちをしつつ患部をお守りで撫で、平癒を祈る〉という独特すぎる祈願作法は、今も生きているそうです。

    稲荷鬼王神社。詣でた日には「えびすまつり」の案内が掲げられていた。
    恵比壽神社手前の水琴窟。竹筒に耳をあててその音を拝聴する。

    重い石ダライを支え続ける鬼

     実はもうひとつ、見逃してはならない鬼がいました。
     区役所通りに面した鳥居の脇にある、「水盥台石(すいかんだい)」を支える像です。何ともいえないお姿と表情ですが、こんな伝承が残っています。

    「とある武士の庭にあったこの盥石。夜中に誰かが水浴びをしているような音を聞き、主人が家宝の刀で切りつけたところ、この盥石があり、それを支える鬼の背中にはそのときについた傷があった。その日から家族が頻繁に病気をするなどの祟りがあり、困り果てた家主がその刀(名刀鬼切丸)とともに当社に奉納した」

     大久保宮司によれば、「奉納されてからは、私の先祖が毎日、鬼の背中に水をそそいで介抱してやったそうです。すると、お参りの人たちも同様に水をかけるようになり、子どもの病気が平癒した、夜泣きがおさまったと評判になった」とのこと。

    当社鳥居脇にある水盥台石とそれを支える鬼形(力様)。

     この「鬼」は、社寺建築でしばしば見かける梁や水盤を支える「力士像」、俗にその重みに耐える姿から「がまんさま」などと呼ばれているもので、みちのく弘前の周辺で見られる鳥居の「鬼コ」とも同類です(気になった人はネットで検索を)が、単体で石盥を支える像はほかでは見たことがありません。
     この石像の背中には、確かに刀傷を思わせる(?)えぐれた跡も残っています。ちなみに稲荷鬼王神社では「力様(りきさま)」の名で親しまれてきたそうです。

     興味深いのは、この盥石がつくられたのは文政年間(一八一八〜一八三一)といい、先ほどの鬼王権現の勧請とほぼ同時期であること。ふたつの伝承は脈絡が異なるものですが、期せずしてふたつの〝鬼〞が当社に合流したわけです。

     ともあれ、本殿の奥に鎮まって姿をあらわさない鬼王権現に代わり、この「鬼」が当社のアイコンとして親しまれてきたのでしょう。近年は、各種の鬼の像が寄贈されるようになり、大久保宮司の蒐集も相まって拝殿内は鬼ランドと化しています。

     なお、今は参拝者が「力様」に触れることはできないようですが、代わりに大久保宮司が毎朝この盥石(石像)に神事用の井戸水をかけてご奉仕を欠かさないそうです。

    稲荷鬼王神社の拝殿内に集められた各種鬼の像。
    神前にて祈祷を受ける「稲荷鬼王大神撫守」。

    タイガー&ドラゴンが躍動する弁天堂

     さて、ラストは歌舞伎町のど真ん中へ。
     稲荷鬼王神社から南下していくと、唐突に下り坂があらわれ、土地が一段低くなっているのがわかります。歌舞伎町の中心部を東西に横切る花道通りは、かつて蟹川という川だったそうです(現在は暗渠)。

    歌舞伎町弁財天。

     ふと見上げると、まちのランドマークになっている新宿東宝ビルがそびえていました。その横を通り抜けると、一本奥の路地にぶつかったすぐ脇に、今回のゴールとなる歌舞伎町弁財天があらわれます。
     飲食店(風俗店含む)の雑居ビルに囲まれた一画。向かって右に、ややキッチュな西洋の古城風の「王城ビル」が重厚な圧をもたらし、向かって左には店舗型ヘルスの店が接続。裏の細いビルの入口にはコスプレバーの看板と「18禁」の文字が見えます。

     その本堂は、うねる波のような破風が印象的で、拝殿は容易に上がれないよう高く設置され、鉄柵の扉が締まっています。賽銭箱は手前にある石の塊がそれのよう。やたらガードの固さが目立ちますが、盛り場と垣根なしにつながっている境内ならではのセキュリティなのでしょう。

     目を引くのは、左右のコンクリート壁に描かれたタイガー&ドラゴン(「天地龍虎図」)です。これは、「芝居の宣伝美術家として、また世の混沌を描く墨絵師として」活動する東學あずまがく氏が描いた「天に立ち昇る龍神」と「大地を駆ける虎神」の図です。

     なるほど。
     ここを弁財天を祀る舞台に見立て、その演出として描かれたのがこの絵だったわけです。水神の弁財天が鎮まる波間で躍動する龍虎、というド派手なビジュアルですが、「混沌」たる歌舞伎町でこそ映えるデザインなのでしょう。

    歓楽街のビルに埋もれるように鎮座する歌舞伎町弁財天。

     ではそもそもなぜここに弁財天だったのか。境内に建つ石碑(「歌舞伎町弁財天由来」)には興味深いことが書かれていました。以下要約してみましょう。

    「弁天様は仏教以前、宇賀神と称する天地創造の神の一方で、仏教の守護神として崇められた。宇賀神はもとは水をつかさどる神で、信仰すれば知恵を授かり、芸術に長じることから弁才天といわれ、さらに財宝が授かる霊験から、弁財天といわれるようになった。
     この地は昔『大村の森』といわれ、広大な沼があってそのほとりに弁天様が祀られていた。淀橋浄水場の建設(明治三一年完成)にあたり、その残土で沼は埋められたが、弁天様は現在地に残り、大正二年の改築再建にあたり、上野の不忍池弁財天より本尊を勧請した」

    大窪の池から出現した無数の蛇

    「由来」には、弁財天と同体にして、それにさかのぼる存在という宇賀神が強調されています。宇賀神とは、人頭蛇身のいわば蛇神で、水にかかわる巳神(穀霊神・福徳神)として信仰されてきました。というのも、蛇はしばしば水場を出入りします(脱皮を容易にするための下準備といわれる)が、それを見た人々は、蛇を水界に通じた神とみなし、脱皮・再生をくり返すことから福財の神に見立ててきたのです。

     先述のように、かつてこの地は大久保と呼ばれ、窪地の湿地帯(大窪)だったのですが、そこに肥前・大村藩主の屋敷があった「大村の森」があり、広大な沼がありました。
     一説には「池を埋めて開拓を進めた際に出現した無数の蛇を、かつて『大村の森』にあった沼周辺に祀られていた弁財天に葬ったことから、再建の際、不忍の弁財天本尊を勧請した」ともいわれています(「歌舞伎町文化新聞」)。

     勧請とは、神仏の分霊を迎えること。もとから弁財天は祀られていたが、「無数の蛇」が出現したことから、あらためて不忍池の弁天さんをお迎えしたというわけです。
     現在本殿の前に琵琶をもつ女神像がありますが、これはインド由来の水神・弁才天( サラスバティー)の像。一方、上野不忍池の弁財天は、同じく女神ですが、腕が八本で頭上に人頭蛇身の蛇神を載せた像容です。
     この説をふまえれば、池(沼)が埋め立てられて居場所を失った蛇を供養するために、蛇神を戴く弁財天(宇賀弁財天ともいう)で祀り直したとも読めます。

     さて、その沼(池)のあった場所は、明治時代に鴨場となり、埋め立て後は第五高等女学校(現・都立富士高校)の敷地になりました。そして戦後、焼け野原からの復興にあたり、歌舞伎の演舞場を中核とした再開発計画が浮上。これを契機に、町名は歌舞伎町になりました。計画は頓挫しましたが、まちの中心部には新宿コマ劇場ができ、さらにゴジラヘッドの新宿東宝ビルへと脱皮・再生していきました。

     その周囲にはありとあらゆる水稼業の店舗がひしめいています。水商売という言葉の由来は諸説ありますが、その発祥は江戸時代の「水茶屋」にあったといいます。つまり、歓楽地に店を構え、看板娘を置いて水(茶)を高く売るシステム。看板娘はホストやキャバ嬢に呼び名を変え、今も健在です。

     そして、このまちには何らかの渇きを癒すかのように人々が集まってきます。
     最近では居場所を求めて若い男女がやってくる〝トー横界隈〞が話題ですが、なぜあえてここ(新宿東宝ビル横)だったのか。そんなことをつい考えてしまいます。
     かつてそこにあった噴水はありません。大沼は埋められ、川は暗渠になりました。しかし人々は、失われた水場の記憶をたどってここに来ているのではないか。そんな、根拠のない思いが衝いて出てきます。

     ところが、歌舞伎町弁財天にはその名残が残っていました。
     境内の端を見ると、水の流れをあらわすささやかな石の設えがあったのです。詣でたときは水は涸れていましたが、このお堂がここにある意味を発見したような気がしたのでした。

    境内の端に設えられた小池。

    (「東京異界めぐり」より)

    「東京異界めぐり」(本田不二雄・著)/税込み1980円/駒草出版
    https://www.amazon.co.jp/dp/4909646876/

    本田不二雄

    ノンフィクションライター、神仏探偵あるいは神木探偵の異名でも知られる。神社や仏像など、日本の神仏世界の魅力を伝える書籍・雑誌の編集制作に携わる。

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