縁起のいい「おかめ」「お多福」がもたらす、笑えない呪いなどの話/妖怪補遺々々

文・絵=黒史郎

    暗い世相にうんざりムードが続くこともあり、前回の「かわいい」に続き、今回は「福」を呼びそうな妖を補遺々々しました。ところがーー?

    福は多ければ多いほど

     不安、不幸、不景気。そんな暗いニュースが連日報じられ、気持ちも鬱々とします。こんな時ですから少しでも縁起のよい題材をと考え、たくさんの「福」を招くものをテーマといたしました。

    【お多福】です。

     昔は女性の相貌を罵るために使われた言葉でもありましたが、ルッキズムは時代遅れ、すっかり聞かなくなりました。丸顔、広い額、ふくれた頬、そして低い鼻。【おかめ】【お福】とも呼ばれる、あの白いお顔を見て皆さんはどういう印象を持たれますか? きっとマイナスの印象は抱かないのではないかと思います。「多福」と名にありますが、「多くの福」を呼び込む顔として縁起の良い印象が強いのではないでしょうか。

     そんな縁起のいいお顔をたくさん見られる日があります。
     11月の酉の日に行われる「酉の市」という祭りです。この祭りで知られる東京浅草の鷲(おおとり)神社では、たくさんのお多福と出会うことができるのです。
     熊手です。開運招福、商売繁盛、家内安全、たくさんの幸運を掻き寄せるとして庶民に愛されている縁起物の代表格。熊手には小判や鯛や鶴や亀など縁起のいい飾りが盛りだくさんで付いておりますが、熊手飾りとしてもっともポピュラーなもののひとつに「おかめ」があります。福を招く縁起の良い顔というだけでなく、厄払いや魔除けの効果もあるといわれています。熊手の中央に堂々と座しているのもわかりますね。
     この他にも鷲神社には「おかめ」がいます。「なでおかめ」です。これは大きな木製の「おかめ」で、撫でれば金運上昇や恋愛成就といったご利益を授かるとされ、多くの人たちが、そのふくふくしい顔を撫でに訪れます。

     このように全方向で有難い「おかめ」さんですが——福どころか、たくさんの不幸を招く、そんな決して触れてはならない「おかめ」も存在するのです。

    拾うな危険、おかめの面

     昭和6年に採集された、こんな話があります。

     Sさんが7才のころ。雨の降る酉の市の晩に「木彫りのおかめの面」を拾いました。
     それは、近くにあった吉原遊郭をぐるりと囲う溝(どぶ)のそばに落ちていました。この溝は遊郭で働く遊女が逃げださぬように作られたものだといい、彼女たちがお歯黒の汁を捨てていたことから「おはぐろ溝」と呼ばれていたそうです。
     酉の市の日におかめの面を拾うなんて縁起が良いです。おかめの面を持ち帰ったSさんは、自宅の箪笥の上にこれを飾りました。
     それから間もなく、Sさんの父親が亡くなりました。
     元・剣術使いで、縫箔屋(金箔や銀箔を縫い付け、金糸・銀糸を用いた刺繍を商売とする職)をしていた父親は、なぜか自ら腹を切ってしまったのです。
     その後もSさんの家では悪いことが続き、家の財産も尽き果ててしまいます。
     おかめの面は福を招くどころか、怒涛のように不幸を招いたのです。
     なぜ、それらの不幸が、このおかめの面のせいであるとわかったのでしょう。
     実は兆しがあったのです。
     災難がある時はきまって、おかめの面が口を開けて笑うのだそうです。
     これほどわかりやすい兆しはありません。
     この不吉な面を叩き割って竈の火にくべましたが、無駄でした。確かに灰になったはずの面が、もとの姿で箪笥の上に戻っており、口を開けて笑っていたというのです。
     Sさんの不幸は大人になっても終わりませんでした。自分の家に住まわせていた友人に、奥さんを寝取られてしまったのです。しかも、友人は自分の奥さんと夫婦となって一緒に暮らしてしまいます。Sさんはといえば、独り身のまま。しかも、その友人夫婦の家で同居していたそうなのです。なんてミジメな……。これもおかめの面が招いた不幸なのでしょう。

     この不吉な面は、いったいなんだったのでしょうか。
     このお面が落ちていた「おはぐろ溝」は、遊女を逃さぬために作られた溝といわれていますが、同じものは他の遊郭の記録でも確認できます。かつて横浜にあった港崎遊郭。この遊郭が大火に見舞われた時、業火から逃げる遊女たちを阻んだのが遊郭を囲う堀でした。この堀のせいで多くの遊女が逃げ遅れ、火に焼かれて死んだのです。
     囚われの身のように、そこから逃げられなかった遊女たちの哀しみと恨みは、捨てられたお歯黒の汁と共に堀の水を黒々と染めながら溜まって怨念と化し、おかめの面の形を持ったのかもしれません。

    笑う石

     徳島県徳島市を流れる助任川に架かる福島橋。ここには「とくしま市民遺産」に登録されている伝説があります。

     昔、この辺りの主要な交通手段は「地切り渡し」と呼ばれる渡し舟でしたが、寛永の末年、この付近に奉行役所ができたことで交通量が増えたため、安宅奉行の馬詰大膳が橋を架けることになりました。
     ですが、川の流れが急すぎて作業は捗りません。効率を上げようと東西両岸から石積みの土台を築いてもみましたが、作ったそばから崩れてしまいます。このままでは橋を架けることはできません。
     そこで話し合いの末、彼らは禁断の決断を下してしまうのです。
     人柱です。
     円滑に工事を進めるため、生きた人間の命を川に捧げるのです。
     ——問題はだれが犠牲となるかです。
     彼らは決めました。土台を安定させる工事の着工日の亥の刻(夜の9時から11時)、ここを通った者を人柱にしようと。
     同日、同時刻。そこを通りかかったのはひとりの山伏でした。何も知らず捕らえられた山伏は、可哀そうに人柱にされて工事現場に生きたまま埋められてしまいました。
     こうして、福島橋は完成します。
     しかし、それからというもの、この橋では怪しいことが起こるようになりました。
     大晦日の夜更けになると、助任川から寂しい鉦の音が聞こえてくるのです。生きたまま埋められた山伏が川底から鳴らしているのだといわれ、怯えた住民たちは年末だけ、この橋を渡りませんでした。
     怪しい出来事はそれだけではありません。西側の橋桁の石垣中央に大きな白い石があったのですが、雨の晩になると、この石がお多福の面になって、げらげら笑いだしたというのです。しかも、この石が通行人に向かって笑うと変事があるといわれ、あまりに騒ぎになったので取り除かれてしまいました。石は【お福石】と呼ばれていました(【お多福石】としている資料もあります)。

     人柱となったのは山伏ではなく、巡礼旅中の僧やお遍路さんであったという説もあるそうです。

    ほうねんじゃ、ほうねんじゃ

     次も橋にまつわるお多福の怪異です。
     大阪の三名橋に数えられる天神橋と天満橋。ここに奇妙な話の記録があります。

     明治18年5月、大阪八軒屋の浜より京都伏見へ通る1隻の汽船がありました。伏見より下ってきて天満橋まで来たところ、船は事故により沈没。80人が溺死しました。
     その後、夜が更けたころから天神橋に大勢の人の影が見えるという噂が立ちました。大勢の人の泣き声が聞こえるともいわれ、付近に住む人々は大変恐れました。
     やがて、天神橋の中央に【お多福】が現れるという噂が流布しだします。そのお多福、手に杓子を持ち、糸のように細い声で「ほうねんじゃ、ほうねんじゃ」といいながら手拍子足拍子を取りつつ踊るというのです。人影や泣き声は恐れたのに、現れるお化けがお多福だとなると人々は恐れなくなり、これを見ようと連夜、夜が更けてから天神橋へと集まるようになりました。
     お多福は本当に現れました。夜半になりますと、橋の中央に忽然と白衣のお多福が現れたのです。見物人が恐る恐る近寄るとお多福は、すーっと消えて居なくなりました。
     大勢の人々が見にくるようになると、天神橋の上の両側には、飴湯屋、善哉屋といったスイーツ屋台が夜更けまでたくさん営業しだしたので、見物人たちはこういう屋台に入って夜更けを待ちました。
     踊るお多福は、大阪中の評判となりました。警察も捨て置くことができなくなり、これを調べますと、意外な事実が判明します。
     お多福の正体は人間だったのです。屋台を出している飴湯屋と善哉屋が、15、6歳のホームレスを一晩50銭で雇い、お多福の面をかぶせて躍らせていたのです。人騒がせな話ですね。

     この天神橋ですが、天満橋より7間ほど長い橋なので「天神橋 長いなぁ 落ちたら怖いなぁ」と童謡で歌われています。天保のころに橋の一部が崩落する事故があり、複数の溺死者が出たことから生まれた歌だといわれています。また、先の気船の沈没事故があった1か月後、大阪一帯に大洪水があり、天満橋が落ちて数十人の通行者が落ちて流されてしまうという参事も起きています。人の命をたくさん飲み込んだ川に架かる橋——いつ〝本物〟のお化けが現れても不思議ではありませんね。

    茶屋に出るお多福 

     京都祇園の由緒ある老舗茶屋の一力亭。浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」の7段目「祇園一力茶屋の段」で、大星由良助が豪遊する茶屋のモデルとなっている茶屋です。大星由良助は赤穂浪士の大石内蔵助にあたる登場人物。その大石の命日である3月20日、この一力亭では「大石忌」という行事が行われ、蕎麦や大石が愛蔵したものが供えられます。

     この一力亭には、ちょっとした怪談があります。

     ある部屋で寝ていると、天井に小さなお多福が浮かんでくるというのです。そしてそれはだんだんと大きくなって、天井いっぱいになるといいます。
     これだけの話なので、なぜお多福が現れるのかはわかりません。
     ちなみに赤穂浪士とゆかりがある神奈川県川崎市幸区にある稱名寺では、大石の描いた掛物や彼の愛蔵品などを2024年に公開したのですが、その中に木製の「おかめの面」があったそうです。

    お多福その他

     奈良県吉野郡吉野町の南大野に「つね藪」と呼ばれていた大きな藪があったそうです。
     夜間にそこを通ると、長い竹の先からお多福が下がってきたといいます。
     この短い怪談は昭和61年の調査で採話されたもの。つね藪は南大野を南に流れる吉野川の下流であるとのことですが、地図を見ても場所の特定はできず、つね藪という名の由来もわかりませんでした。

     最後にもうひとつ、お多福の怪異をご紹介します。
     流行性耳下腺炎——俗称【お多福風】。
     ムンプスウイルスの感染により起こる感染症です(『広辞苑』では「風邪」ではなく「風」)。
     鳥取県のある地域では、この病が流行すると「きちさん、をらん」と書いて門口に逆さに貼ったそうです。「きちさん」とは「八百屋お七」の恋人・吉三郎(作品によって名は違います)のこと。お七の亡魂が頬八丁(おたふく風邪)となってうろつき回っているので、その亡魂に取りつかれないために「きちさん、をらん」、つまり「あなたの恋人はいませんよ」と書いて貼ったのだといいます。

    【参考】
    鰭廣彦「猿今昔」『旅と伝説』第五巻九号(1932)
    近藤喜博「—覚書帳から—(其二)」『旅と伝説』第六巻四号(1933)
    召南亭主人「祇園拾遺」『郷土研究上方』二十八号(1933)
    日恒明貫「大阪妖怪?談」『郷土研究上方』三十三号(1933)
    藤里好古「天神橋を語る」『郷土研究上方』四十一号(1934)
    蒲田利郎「大阪の橋をめぐる巷談」『郷土研究上方』四十四号(1934)
    「京の三月の行事」『京都』第二巻第四号(1935)
    山田竹形『四国昔ばなし』(1976)
    松村博『八百八橋物語』(1984)
    比較民話研究会「奈良県吉野町・国栖の昔話(上)」『昔話——研究と資料 十九号 視る昔話』(1989)
    比較民話研究会「奈良県吉野町・国栖の昔話(下)」『昔話——研究と資料 二十号 昔話と子ども』(1990)
    黒史郎『横浜怪談』
    浅草鷲神社 https://otorisama.or.jp/omamori_nadeokame.html
    吉原神社 http://yoshiwarajinja.tokyo-jinjacho.or.jp/
    「徳島新聞」22・6・1 https://www.topics.or.jp/articles/-/712242
    「徳島新聞」17・10・17 https://www.topics.or.jp/articles/-/4178

    黒史郎

    作家、怪異蒐集家。1974年、神奈川県生まれ。2007年「夜は一緒に散歩 しよ」で第1回「幽」怪談文学賞長編部門大賞を受賞してデビュー。実話怪談、怪奇文学などの著書多数。

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