1万4000年の人類誕生と滅亡の聖書預言!! 失われた超古代文明の「シン・創造論」科学/MUTube&特集紹介
『旧約聖書』の「創世記」に記された、神と人類の物語を新たな視点から『聖書』を読み解くことで、ついに明かされる人類の歴史と未来。「シン・創造論」が告げる終末とは、はたしてどのようなものなのか!? 三上編
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かつて紙幣の肖像にもなった武内宿禰(たけうちのすくね)が、21世紀の日本で活躍していた! 1700年前から続く裏神道の祭主にして、後南朝のリーダーでもあった竹内睦泰(たけうちむつひろ)氏である。その竹内氏は2020年1月13日、53歳の若さで亡くなった。本稿では、自らを「無茶苦茶むっちゃん」と称した彼の波乱万丈の生涯を追悼し、ここに振り返る。
目次
千葉県房総半島――。
東京湾と内房線を望む高台に、第73世武内宿禰(たけうちのすくね)こと故・竹内睦泰(たけうちむつひろ)氏のための前方後円墳が現在造成中で、2021年1月13日には1年祭が催された。青空にトンビが悠然と舞い、緑の自然が広がり、ほのかに潮風の香る、なんとも心安らぐ場所だ。
「夢は、死んだら前方後円墳に入ること」が、竹内氏の生前からの願いであった。そこで死後、家人や有志が集まって、この夢を実現させる計画が進められた。そして、現代に生きた「武内宿禰」の証として、「前方後円墳」が造られることになったのである。
現代に甦った秘密結社の神主・武内宿禰とは何者だったのだろうか。
竹内氏は、19歳のとき唐突に、正統竹内家(正統竹内神道管長職家)を支える竹内神道の長老や、後南朝の参議、蔵人クラスの幹部を名乗る者たちの訪問を受けた。彼らは竹内氏に、空位となっている古神道宗家「武内宿禰」を襲名し、裏神道の祭主兼後南朝のリーダーになってくれと、告げたのである。まさに寝耳に水であった。
しかも、その理由がオカルトじみていた。1767年12月に亡くなった「武内宿禰」が「100年後に王政復古を成し遂げたのち、99年後に甦る」と予言していたからだというのだ。確かに、100年後の1867年には明治維新という「革命」によって王政復古は成し遂げられた。その99年後は1966年であるから、その年の12月17日に生まれた竹内氏は、まさに「99年後に甦った武内宿禰」ということになる。
彼らは、「武内宿禰」が空位となった理由も竹内氏に説明した。
幕末から明治にかけて、越中国(現在の富山県) 射水(いみず)郡二上山の武内宿禰陵から、何者かによってご神体石などの宝物や古文書類が盗みだされてしまった。そのショックで第72世武内宿禰こと第12代竹内三郎太郎の子供は「霊嗣之儀式[ひつぎのぎしき](正統竹内家の祭祀権相承の儀式)」が執行できず、名前も12代続いた三郎太郎ではなく、三太郎を戸籍名としたのだという。つまり、継承者がいなくなってしまったのだ。
継承者不在は3代続いた。その欠世3代目が竹内氏の父親にあたるらしい。
その話を聞いた竹内氏は当然、驚愕した。そのような話は父親からも聞いたことがなかったからだ。
しかし、それにも理由があった。本家争いがあるといけないので、竹内神道の長老と後南朝の参議たちは、1966年に生まれる者が「武内宿禰」を襲名するという「予言」を竹内家には知らせず、その間、長老・参議の子供たちにのみ古神道(正統竹内家と南朝に伝わっていたもの)の奥義と秘史を12家に分割して継承させ、未来に生まれる新生「武内宿禰」へ伝授することにしていたのだ。
しかしながら、世襲名であるとしても、武内宿禰とはいったい何者で、何を世襲するというのであろうか。
武内宿禰の系譜について竹内氏は、直接的には3世紀の第10代崇神天皇の時代に遡るという。
崇神天皇はその時代、一種の宗教改革を実施して、顕祭[けんさい](実際の神社で行う祭祀方法)を司る伊勢神宮とは別に、幽祭[ゆうさい](現実にはない神社を想像して行う祭祀方法)と顕祭を司る皇祖之靈皇大神宮(すめみおやのみたますめおおかむのみや)という、表と裏の二系統の神宮をつくった。当然、伊勢神宮が表で、後者が裏である。
表の祭主(祭祀王)には、卑弥呼の後継者として「魏志倭人伝」に記されている「台与(とよ)」ことトヨスキイリヒメ(崇神天皇の娘)がなり、裏の祭祀王には崇神天皇の義理の兄(系図上は異父兄)となる彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)が就いた。
以後、実質的に皇室の祭祀を司る裏の祭祀王は彦太忍信命の子孫の世襲となり、その3代あとに第1世武内宿禰が登場する。
竹内氏によると、歴代の武内宿禰は祭主・神主であると同時に、「記録媒体のようなもの」だという。一族の中からひとりが選ばれ、密かに霊嗣之儀式を執行する。それ以降、その人物は武内宿禰となる。その際、第1世武内宿禰の霊を自らの中に入れるとともに、歴代の武内宿禰の記憶や秘密をすべて受け、伝えられるのだという。
この武内宿禰の霊脈、正統竹内家の血脈、そして竹内神道が極秘口伝として継承してきた「秘儀・奥義の神法」という法脈の三脈を引き継いだ者、しかも鏡(知=歴史)、玉(仁=祭祀)、剣(勇=武術)を兼ね備えた者が、武内宿禰なのである。
竹内神道は秘密神道なので、家族ですらその内容、またそれに関わったことさえ、語ってはいけないことになっているという。ということは、口伝継承しても門外不出であり、他者に知らせることもできないのだ。
長老たちから「武内宿禰」を襲名しろといわれたとき、竹内氏は大いに戸惑った。受けるべきか、受けないで普通の人間として生きるべきか。そのように悩める若き竹内氏に、決定的な出来事が起きた。それは、霊夢による明確なメッセージであった。
ある日、竹内氏は鮮明な夢を見た。
その夢の中で「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」らしき女性が現れ、竹内氏に水晶玉のような石を渡して、飲むように勧めた。その玉はビー玉ぐらいの大きさなので、「喉につまりそうで嫌だった」のだが、彼はなぜかいわれたとおりに飲みこんだ。すると玉が体の中で融けて液状となり、体全体にその液体が広がるのを生々しく感じたという。
夢から覚めた竹内氏は狼狽した。夢が、まるで実際に体験したかのように超リアルであったからだ。「嘘だ。これは願望夢だ」と否定したが、それからというもの、夢の中で次々と神道の修行が始まるようになった。しかも、自分が知り得ない知識を夢の中で教えられるのである。夢から覚めて、その知識を本などで確認すると、まさにその通りのことが載っていたというようなことが頻繁に起きたと竹内氏はいう。
さらに不思議なことに、5〜10分ほどしか眠っていないはずなのに、夢の中の修行の時間はもっと「異常に長かった」と竹内氏はいう。数分が何日にも感じられることが度々起きたらしい。
夢の修行を続けるうちに現実の世界でも、竹内氏の身に不思議な変化が起きはじめた。昼間でも満天の星が見えたり、体中に金粉が噴きだしたりするようになったのだ。神主としての能力が発現しはじめたのである。もはや後戻りはできなかった。
その神秘体験の前後、竹内氏は長老家に対して正式に、後南朝小倉宮家の祭祀を継承する第73世武内宿禰になることを伝えた。
密儀は、とある山の中でひっそりと行われた。竹と筵のようなもので作られたテントのような「社(やしろ)」で竹内氏は、3代100年以上に渡り途絶えていた「霊嗣之儀式」を執行した。
そのテントのような社はあとで「天地元根造」という、もっとも古い形の社であったと知らされた。この密儀を執行したことにより、竹内氏は正式に後南朝の人間になったのだという。
当時のことを振り返って竹内氏は、次のように語っている。
「今思うと、あの天照大御神がくれた玉は、私自身の『意志』だったのかもしれない」
玉は、脈々と続く武内宿禰の「意志」そのものであったのだ。
ここで竹内氏の系譜と生い立ちを紹介しておこう。
先祖は当然、皇祖之靈皇大神宮で祭務を執行していた第1世の武内宿禰であった。神武の時代から数えて第12代となる祭祀王でもある。系図上は屋主武雄心命(やぬしたけおごころのみこと)の息子だが、実際は第12代景行(けいこう)天皇の子で、成務(せいむ)天皇とは双子であったと竹内氏はいう。
ではなぜ屋主忍男武雄心の息子になっているのかというと、当時双子は忌み嫌われ、引き離すという風習があり、祖父の屋主武雄心(景行天皇の父)の養子になったのだという。ともかく、竹内氏の祖先をさらに遡れば、神武天皇や天照大御神に行き着くことになる。
当初は天皇と同じくらいの権勢をふるっていた武内宿禰だが、やがて幽祭を執行し、極秘口伝を継承するという秘密性から裏の祭祀王となり、表舞台からは姿を消す。
『古事記』『日本書紀』などの史書においても、武内宿禰が世襲名であることは伏され、最初の5代(5世)は同一人物であるかのように武内宿禰としてまとめられ、300歳の長寿を誇ったかのように記された。
表舞台から去ったことで、古神道宗家である正統竹内家は次第に政治の権力を失っていく。それでも平群(へぐり)、紀(き)、源(みなもと)、大内と次々に姓を変えながら、うまく皇室とのつながりを保ってきた。鎌倉時代になると、「武内」「建内」を「竹の園生[そのう](注:「皇族」の雅称)の内より出た者」という意味を示す「竹内」に統一した。
南北朝時代には南朝と北朝の両方に仕えたが、南北朝が合一した際、南朝の皇子をかくまったことから南朝と深い関係を結ぶようになった。
戦国期になると、第56世武内宿禰である竹内季治(すえはる)が、将軍足利義輝(よしてる)に重用され、一時期権勢をふるった。
だが、義輝の死後、キリスト教の布教を許した織田信長について「信長は熟したイチジクだ。いずれは地上に落下する」と義輝に讒言(ざんげん)していたことが信長に知られてしまった。激怒した信長は近江の永原で季治を処刑した。これによって、武内宿禰は歴史の表舞台からだけでなく、歴史そのものの舞台からも姿を消す。
だが処刑される前、季治は息子の刑部卿・竹内長治(第59世武内宿禰)と絶縁するとともに、自分の次女を、かくまっていた後南朝の息子(小倉宮良泰[よしやす]親王の子孫)に嫁がせて系統を残したのだと竹内氏はいう。
後南朝の皇子は事実上、正統竹内家を継ぐことになり、越中宮惟治王改め竹内惟治と名乗り、第60世武内宿禰となった。このとき、南朝に伝わっていた神道の秘儀や秘史が正統竹内家の秘儀と秘史に加わったのだという。
武内宿禰の血脈と霊脈は辛うじて残せたものの、戦国の世の常で正統竹内家はその後、没落していく。越中富山に神社を構えて神主をしていたが、江戸時代中期に発生した宝暦事件(宝暦8〜9年に江戸幕府が尊王論者の竹内式部を処罰した事件)に関与したとされ、江戸幕府から弾圧されて神殿を破壊された。
それでも幽祭は執行してはいたが、神殿がなければお金も集まらず、困窮した竹内家は農民にまで衰退。そこに追い打ちをかけるように発生したのが、先述した二上山の武内宿禰陵の盗掘事件であった。武内宿禰の3代欠世の背景には、戦国時代以降の長くて辛い歴史があったわけである。
そのような歴史があったとは露知らず、竹内氏は1966年12月17日、大阪市内で生まれた。神主の家系であったにもかかわらず、キリスト教の病院で生誕した。
「そのおかげで、メダイ(キリスト教の記念章)のコレクターになってしまった」
と、竹内氏は笑っていた。
子供時代の神秘体験としては、UFOを目撃したことが挙げられる。場所は明らかにされていないが、小学生のころ、知り合いの別荘に遊びにいったときに目撃した。UFOは夜空をジグザグに動いていた。その様子を見て子供心に「これはUFOだ」と感じたのだという。そのとき竹内氏は、手に持っていた大きな懐中電灯で、その光る物体に向かって何回か光を当てた。すると、向こうからも光を返してきたという。そしてもう一度懐中電灯で光を当てると、消え去ったのだ。
竹内氏はその後、大人になってから少なくとも2度、UFOを目撃している。にもかかわらず、竹内氏の口癖は、「私はUFOを間違いなく見たが、UFOを認めない」であった。それでも神秘的な現象、オカルト的なものには非常に興味があったらしく、本誌が創刊されて間もないころには「ムー特派記者」として、「ツチノコの記事」を投稿したことがあると、話していた。
竹内氏が小学生だったころは、1974年にユリ・ゲラーが来日し、スプーンを“念力”で曲げる超能力少年がもてはやされ、その後「インチキだ」とか「トリックだ」などと批判され、突き落とされた時代でもあった。
竹内氏自身はスプーンを曲げたことはなかったようだが、彼の弟がユリ・ゲラーのスプーン曲げに触発されて、本当に“念力”で家中のスプーンをあるだけ曲げてしまうという「事件」もあった。竹内氏は、「弟のせいで、カレーライスの日なのに、カレーが食べられなくなった。結局、お箸(はし)で卵かけご飯を食べた」と笑いながら話す。
その「超能力少年」だった弟は、高校ではラガーマンだったという。著者も中学・高校とラグビーをやっていた時期があるので、親近感を覚え、いつかスプーン曲げの真相を聞いてみようと思っていたのだが、何と竹内氏が亡くなった約3か月後に急死してしまったのだという。
同じ年に若くして兄弟がそろって亡くなるというのも、古からの浅からぬ因縁があったに違いない。おふたりのご冥福を改めてお祈りしたい。
竹内氏の生い立ちに話を戻そう。大阪府豊中市蛍池で育ち、大阪教育大附属池田小中学校に通った。高校は私立校で、生徒会議長兼副会長兼風紀委員長だったと書いている。
大学は中央大学法学部政治学科で、日本政治史と国際政治学と法律を学んだ。
竹内氏が現役で中大に入学したのだとすると、大学入学後の1年生か2年生のときに竹内一族から武内宿禰襲名の打診があったことになる。
そして大学生活を送りながら、古神道の秘儀・秘史を口伝継承し、時には裏神道の神主として全国で幽祭や顕祭を執行するという二重生活を送っていたらしい。
また高校時代には、竹内氏が書いた論文が旧防衛庁関係者の目に留まり、統合幕僚会議系の調査部にスカウトされたともいう。その際、大学では射撃部に入るように指示されたため、東京大学を目指さずに中央大学に入ったのだとも語っていた。その流れに乗って、中央大学では、日本学生同盟(日学同。有力な民族派学生組織のひとつ)の、中大支部長兼査問委員長だったと竹内氏はいう。
詳しくは語らないが、統合幕僚会議系調査部からは、中央大学では司法試験を目指さずに、教育方面を目指すような示唆があったらしい。そこで竹内氏は、教職課程を取り、社会科教員免許状を取得した。
中央大学卒業後は国学院大学明階課程(神主)に通っていたというが、有名予備校「代々木ゼミナール」の日本史講師の就職試験に合格。
「23歳(1990年)の夏のことで、まさにターニングポイントであった」と、竹内氏はいう。その採用のいきさつはかなりドラマチックだ。
代ゼミの人事の本部長から呼びだされたとき、竹内氏はこう告げられた。
「君は満点であるし、トップである。しかし実は、すでに採用者は決まってしまっている」
採用された男は世界史の講師であり、本部長の親友のコネがあった。そこで本部長は、「来年は、私が君を推薦する」と気休めをいった。
しかし竹内氏は、「ハイ」とはいわなかった。「その瞬間に私は〈落選〉することになるからだ」と、竹内氏は当時を振り返る。そこで「私は、今が〈旬〉なのです!」といい放った。
その気概と迫力に感銘したのか、本部長は「週のうち、空いている曜日はありますか?」と聞いてきた。竹内氏は間髪置かずに、いい切った。
「すべて空けます!」
その瞬間、採用が決まった。本部長は、「よろしくお願いします」と竹内氏に告げた。こうして竹内氏は、初任給で年収1200万円という、代々木ゼミナールの日本史の講師となったのである。
まさか、古代日本の祭祀王が現代の予備校の講師になろうとは、いったいだれが想像したであろうか。
その後の竹内氏は、飛ぶ鳥を落とす勢いであった。黒板一面に展開される政権担当者別編年体の横書き板書「戦略図解ボード」と、独自の竹内史観を熱く語り、1年で日本史の全範囲を網羅する授業はすぐに評判となり、生徒がドンドン集まるようになった。
竹内氏は特に邪馬台国論争、天徳内裏歌合[てんとくだいりうたあわせ](960年に清涼殿で村上天皇によって催された歌合)、保元の乱、日露戦争といった入学試験にはほとんど出題されない、しかしドラマチックなエピソードを、時間を割いて大いに熱弁を振るった。
さらに異彩を放ったのが、そのファッションだ。基本的には黒や紺系統のスーツが多いが、ビジュアル系バンドのボーカルのよう派手な衣装を着たり、鎧兜をまとって度肝を抜かせたかと思うと、最終講義では狩衣を着た神主姿で教室に現れたりもした。
実生活も派手で、代ゼミの同僚で現代文講師の福田清盛氏と組んだ「サクセス」というバンドでは、ボーカルと作詞を担当、CDデビューしたこともある。渋谷タワーレコードのインディーズ部門で、当時同部門で絶大な人気を誇っていたバンド「黒夢」を抑えて第1位に輝いたこともあったという。
毎回、講義の最初と最後に、生徒とともに歴代天皇名(主に欽明天皇から後堀河天皇まで)や、「アルプス1万尺」の節に乗せた歴代中国王朝の歌を呪文のような早さで唱えて覚えさせる方法も話題となった。
その背景について竹内氏は、歴代天皇名を知っていると年代と事績が覚えやすいということはもちろんあるが、それよりも統合幕僚会議系の対心理情報戦があったと述べている。
どういうことかというと、おそらく天皇制を中心とした歴史を教えることで民族意識を高め、日本の伝統と歴史に強い、日本を誇りに思う人材を世の中に送りだすという作戦があったのではないだろうか。
統合幕僚会議系の情報関係者からの指令は、「代ゼミでトップになれ」というものであったと竹内氏はいう。
その作戦は成功した。竹内氏の人気はうなぎ登りとなり、受講生が殺到。
「日本史の若きカリスマ」と呼ばれ、サテライン(通信衛星)ゼミやスカイパーフェクTVの日本史講義初代担当者等を歴任した。
著書『超速 日本史の流れ』シリーズは「2時間で読める日本史の本」として、累計50万部を超えるベストセラーとなり、大学受験参考書の枠を超えて、社会人向けの日本史教養書としても幅広く読まれるようになった。
代ゼミの10年間の勤務で教えた生徒は10万人を数える。 授業アンケート8年連続全国1位にもなったという。竹内氏は2012年、代ゼミ時代を振り返って、次のように述べている。
「今の警察庁と防衛省の幹部の多くは私の生徒です。だって、日本を愛する若者が左派教師の授業なんて受講しませんよ。駿台予備校や河合塾からも、日本史だけは唯一私の講義を受けにきていた。代ゼミ横浜校では300人教室が満員になり、補助いすが90個。絶対、他校から潜ってきていた」
そのころは年収も3000万〜4000万円にまで上がっていたらしい。まさに竹内氏の絶頂期であった。
好事魔多しというが、1990年代に大学受験業界を席巻した竹内氏も例外ではなかった。1999年ごろ、竹内氏が女子生徒に対してセクハラをしたと告発する記事が、週刊誌に掲載されたのだ。
竹内氏は週刊誌を訴えて一部勝訴したが、セクハラ疑惑は完全には払拭できず、代ゼミを去らざるを得なくなった。竹内氏は「代ゼミの左派講師らによる陰謀説」を唱えていたが、真相はよくわからない。若きカリスマ講師に対する嫉妬ややっかみもあっただろうし、当然誘惑も多かったであろう。
だが、代ゼミを退職してしばらく充電した後、竹内氏は予備校の講師職に復帰。自らも北斗総研予備校代表兼講師を務めたり、早稲田ゼミナール講師(高田馬場校・西葛西校)や大学受験専門「秀門会」校長兼講師に就任したりした。しかし、もはや300人教室が満員となるような熱気は過去のものとなっていた。
そのころ竹内氏は、もうひとつ問題を抱えていた。それは彼が口伝継承した『正統竹内文書』に関係することであった。
竹内氏は予備校の講師をしながらも、竹内神道の神主として幽祭や顕祭を執行していた。1年に一度は奈良県桜井市にある山辺(やまのべ)の道を歩き、二上(ふたかみ)山に向かって祈りを捧げる神行を行い、まったく行き先を告げられないまま長老や参議の家の者たちに半ば拉致されて、山の中で幽祭をすることもあったという。それと同時に、膨大な歴史や秘儀・秘伝の口伝継承も続けられていた。
秘密神道であるがゆえに、内容はおろか信者の名前まで非公開なのだが、古神道を学んでいるうちに「秘儀はともかく、その思想は広く人々に伝えるべきではないかと思うようになった」と竹内氏はいう。
「古神道には現在の人類にとってもっとも必要と思われる『自然との共生』を可能にし、他の宗教・人種・民族とも共存できるようになる『和』の思想がある。これを伝えたい」 竹内氏はそう決意して、閉鎖的な竹内神道とは事実上袂(たもと)を分かち、「天神地祇八百万神(てんじんちぎやおよろずのかみ)」を祭神とする「古神道本庁」を設立。その統理(とうり)の「武内宿禰」となり、全国で祭祀を執り行うとともに、口伝の一部を公開することにしたのである。
これに対し、竹内神道の長老や参議たちは猛反発した。それはそうであろう。門外不出のはずの秘儀・秘伝を、たとえ一部であろうと口外することなど許されるはずもなかった。
しかし、竹内氏にはどうしても正統竹内家の極秘口伝『正統竹内文書』を公開したい理由があったのである。それが、越中・「竹内家」の養子となった竹内巨麿が、1910〜1920年ごろに公開した、古史古伝として有名な『竹内文書』の存在であった。
『竹内文書』は、5世紀末に武烈天皇が武内宿禰の孫である平群真鳥を越中・富山に派遣した際、真鳥を皇祖皇太神宮の大宮司に就任させ、神代文字という象形神名文字で書かれた神代の記録を漢字仮名混じり文字に改めて、写筆させたとされる古文書のことだ。
広義には、この真鳥が写筆した文献と、皇祖皇太神宮に伝わる、神代文字が記された神宝類を総称して『竹内文書』という。
しかし竹内氏は、それはまったく正しくないという。巨麿が公開した文書は偽物で、『正統竹内文書』の雑伝を改ざんしたものであり、神宝類も一部は正統竹内家の墓から盗みだされたものではないかというのである。
その根拠として竹内氏は、『竹内文書』の時代錯誤した記述内容や系図のでたらめさ、それに正統竹内家の臣下の墓守が、秘伝を教えてもらえなかったことを恨んで武内宿禰の墓を暴いたという口伝があることを挙げる。
竹内氏の推論では、盗掘された神宝の一部が何らかの理由で巨麿の養祖父に渡り、そうとは知らない巨麿が1892年に、「竹内家に代々伝わる古文献・神宝」として養祖父からそれを譲り受けたのではないかというのだ。
竹内氏によると、巨麿が養子となった「竹内家」は、そもそも正統竹内家とは血縁のない家であった。
竹内氏はそれに、我慢ができなかった。このままでは嘘の話が、まことしやかに広まってしまう。坐してただ待つよりも、『竹内文書』の誤りを正すべきではないか。修理固成(しゅりこせい)を必要とする時期にきているのだ――そう思った竹内氏は、2000年を過ぎたころから、ブログなどで『正統竹内文書』の一部を積極的に公開するようになった。その結果、もうひとつの『竹内文書』として『正統竹内文書』があることが研究家の間で知られるようになった。
筆者が竹内氏を知ったのもそのころである。2003年の夏ごろ、東京・新宿の飲食店で竹内氏を取材した。黒っぽいスーツを着こなし、眼光鋭く、半ば警戒しながらも丁寧に筆者の質問に答えてくれた。ただ驚いたのは、初対面で昼間の取材にもかかわらず、いきなりジョッキでビール2杯を飲み干したことであった。
だが、彼が話す内容は、まさに衝撃的なものであった。
竹内氏がその日、2時間にわたり筆者に語った『正統竹内文書』の世界は、驚くべきものだった。
世界を見舞った大洪水の後、最初に文明が開けたのは日本であったこと、天皇は日本から古代メソポタミアに渡った「スメル族(シュメール人)」の子孫で、いくつかのグループに分かれて日本に帰ってきたこと、そのうちふたつのグループが出雲族と大和族になったことなどを次々と明かしてくれた。
真偽のほどはわからなかったが、筆者はインタビューしたそのままを、同年12月に上梓した『竹内文書の謎を解く』(成甲書房刊)に掲載したところ、かなりの反響があった。ただ、その後も竹内氏に何度か取材したが、肝心要の話になると口を濁し、政治信条も主義主張もまったく筆者とは異なっていたため、取材を続けることを断念、距離を置くことにした。
ところが2011年1月のある日、筆者に奇妙な出来事が起きた。「武内宿禰の霊団」と見られる存在から、いきなりメッセージが降りてきたのだ。
「竹内睦泰に会いにいきなさい。お前は竹内とは主義主張が合わないし、まったく別の道を行くものだと考えているかもしれないが、私たちから見れば、お前たちの相違点はコーヒーが好きか、紅茶が好きかの違いにすぎない。それだけの違いのために会わないのはおかしい。とにかく会ってみろ。そうすればわかる」
そう、声の主はいった。
不思議なことに、「コーヒー党か紅茶党の違いにしか見えない」という言葉に筆者はすっかり感心して、あっさりと説得されてしまった。早速、6〜7年ぶりに竹内氏に連絡を取ったところ、すぐに新宿・早稲田のリーガロイヤル東京で会うことが決まった。
再会して驚いたのは、以前取材したときの印象と違って、非常に打ち解けて取材を楽しんでくれているように感じられたことであった。竹内氏が話す内容も面白く、非常に示唆に富んでいた。「声の主」が示唆したとおりに意気投合した竹内氏と筆者は、その後数か月にわたって取材会合を重ねた。
その際、筆者にとって非常に都合のいい現象も起きた。
筆者は東京へは隣県の神奈川から2時間くらいかけて取材に出向くのだが、竹内氏の取材が終わった後、本誌読者にとってはお馴染みの国際気能法研究所代表の秋山眞人氏に電話すると、普段は忙しくてなかなか会えない秋山氏が「今なら空いていますよ」と必ずといっていいほど取材に応じてくれたのだ。はるばる2時間かけて都心に取材に来る私にとって、一度にふたりに取材できることはとてもありがたかった。
こうしておふたりへの取材を続けるうちにできあがったのが、2011年8月に上梓した『誰も知らない世界の御親国日本』(ヒカルランド刊)と、同年12月17日という、奇しくも竹内氏の誕生日に発売となった『竹内文書の謎を解く2――古代日本の王たちの秘密』(成甲書房刊)であった。
流れはそのまま、竹内、秋山両氏と筆者による鼎談(3人が向かい合って話すこと)の本を出そうという話になり、約1週間後の12月26日に当時新宿にあった秋山氏の事務所に、まったく主義主張の異なる3人が集まって話をするという異色の鼎談が始まった。
どうなるかわからない企画であったが、鼎談はすこぶる面白く、次から次へと想像を絶するスリリングな別世界や異次元の話が繰り広げられた。早速、筆者が鼎談を起こした原稿を出版社に持ちこんだところ、出版にゴーサインが出てシリーズ化も決定。翌2012年4月、8月、12月に『正統竹内文書の日本史「超」アンダーグラウンド』のシリーズ3巻がヒカルランドから出版されたのである。
このように順調に本が出せるということは、人知を超えた神霊界や宇宙からの働きかけが背景にあることが多い。先述した霊団からのメッセージもそのひとつの例証だが、実際に、あり得ないような偶然の出来事が鼎談の前後に頻繁に起きていた。
鼎談の2〜3年半ほど前、秋山氏に宇宙に存在するまったく異なる3タイプの異星人が和合・協力するというメッセージが降りてきて、その直後に筆者がたまたま秋山氏の事務所に顔を出すという偶然があった。今から思うと、鼎談を髣髴させる出来事が宇宙でもあったことになる。
竹内氏と秘書が高田馬場で、夕方の空をジグザグに移動するUFOを目撃したのもそのころだ。
しかし最も宇宙の意志を感じる偶然は、最初の鼎談があったちょうど1年後の2012年12月26日の午前2時23分ごろの出来事だった。竹内氏と秘書ら数人が再び高田馬場で、夜空をジグザグに飛びまわるUFO7機(中央付近の透明なUFOを入れると8機)を目撃したのである。
鼎談記念日に「UFOを認めない」と公言する竹内氏の目の前にUFOが現れる――これが単なる偶然であるはずがない。
竹内氏はよく「偶然は神」というが、霊団(神霊)や宇宙からの働きかけが、そうした偶然を演出することもあるのである。
UFOからも“祝福”された『正統竹内文書』は、その後どうなったのであろうか。
鼎談シリーズが好評だったこともあり、竹内氏は武内宿禰として禁断の極秘口伝を自ら本に書きはじめた。
その第1弾が、2013年の『正統竹内文書の謎』(学研刊)であった。2016年には『古事記の宇宙』(青林堂刊)を上梓、「正統竹内文書」が『古事記』『日本書紀』編纂の際の基礎資料とされ、奈良時代に散逸した『帝皇日嗣[ていおうひつぎ](帝紀)』のことであることを初めて明らかにし、関係者に衝撃を与えた。
口伝の秘密を暴露した背景には、竹内氏自身が死を意識するような経験をしたことが挙げられる。今語っておかなければ、「絶えてしまう恐れ」があったのだと竹内氏はいう。その固い決意に竹内神道の長老たちも折れ、『古事記』に書かれている神については語ってもいいという許しを与えたという。
その許しの範囲内で、竹内氏はその後も『古事記の暗号』『天皇の秘儀と秘史』(以上学研刊)、『古事記の邪馬台国』(青林堂刊)を著し、『古事記』が隠している天皇家の系図を明かしていった。それ以外にも竹内氏は、筆者の取材に対して「事代主神(ことしろぬしのかみ)の母親とされるカムヤタテイヒメは、実はスセリビメである」という驚きの系譜や、オオタタネコの正体に関するヒントを教えてくれた。
こうした系譜の暴露によって、宗像(むなかた)三女神の末子タギツヒメや瀬せ津姫(せおりつひめ)が本当はだれであるかわかってくるのだが、詳しく知りたい方は、『正統竹内文書』(『帝皇日嗣極秘口伝』)を基に日本建国2500年史を読み解いた拙著『卑弥呼は二人いた』(河出書房新社刊)をお読みいただきたい。
竹内氏が極秘伝を公開するに至ったもうひとつの理由である、古神道の思想に基づく万教帰一と世界同祖論についても、最後に触れておこう。
その根拠は、竹内氏が継承した口伝の中に、「日本は世界の雛形である。日本が世界の規範となって神政復古を実現したとき、争いのない世の中、高天原が顕世に顕現する」という「武内宿禰の予言」があるからである。
『正統竹内文書』は、世界の各民族がすべて同じ祖先だったと説く。そのひとつの人種が、居住した土地の風土や気候によって異なった容姿を持つようになったのではないかと竹内氏は考える。
異なる宗教や神話も同じだ。
「よくよく調べれば、元は同じであるといえるようなものが意外と多い。それらを整理して原型(プロトタイプ)の神話を浮かびあがらせることが可能ならば、宗教紛争も減るに違いない。ひとつのモデルを提示して納得し合うことができればどんなに素晴らしいだろう。これができるのが、神社でクリスマスパーティーを開催できる寛容さを持つ神道だけではないか」
と、竹内氏はいう。
そう考えたときに、神仕組みのひとつのシナリオが見えてくる。仮に盗掘によって『正統竹内文書』の一部が明らかになったにせよ、武内宿禰の3代欠世の期間中に、めぐり巡って竹内巨麿の手に『竹内文書』が渡ったことも、神慮があったのである。竹内氏自信がいみじくも語っているように、『竹内文書』が巨麿の手によって公開されなかったら、竹内氏が武内宿禰の正体を明かし、極秘口伝を公にすることもなかったのだから。
巨麿が亡くなった翌年に竹内氏が生まれたのも偶然ではなかろう。少なくとも『竹内文書』が、『正統竹内文書』が登場する露払い的な役割を果たしたことは間違いない。
竹内氏がなぜ亡くなったのか、筆者は知らない。「溶血(赤血球が破壊される現象)」が起きたということ以外、公表されていないからだ。生前の竹内氏を知る大方の人は、酒に溺れて亡くなったと見なすであろう。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。今生での役割が終わったのだと考える人もいるだろう。
竹内氏の家人によると、亡くなる前、ほとんど話せなくなって病床に伏している竹内氏が病室の天井に向かって、額に両手で三角形のシンボルを作り、天照大御神を拝礼する仕草をしたのだという。それから2日後の2020年1月13日に竹内氏は帰幽された。
天照大御神の玉(石)によって覚醒させられた武内宿禰は、最期は天照大御神に迎えられて、常世の国に旅立ったのだろうか。ならば、願いは成就されたのだ。
「武内宿禰」の称号は21世紀の歴史にも刻印され、日本古代秘史を解き明かすための種は撒かれた。
その石(意志)は次世代へと引き継がれたのであると、著者は信じている。
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