正室と長男を死に追いやった非情な家康が隠した”真の素性”疑惑/東山登天
大河ドラマ『どうする家康』で話題沸騰中の徳川家康だが、その性格は、忍耐強く慎重な用心家という評価が定番である。だが彼は一面では「タヌキ親父」とも揶揄され、時に策謀をめぐらして敵対者をことごとく排除して
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江戸幕府を密かに支えた将門結界は、令和の首塚改修で改めて「覚醒」の時を迎えている? 幕末の妙見革命から秘術の経緯を辿る。
天海の主導により北斗七星によって結界された江戸だったが、江戸時代も幕末になると、志士たちのなかにも妙見信仰に共鳴する者が現れている。
その志士とは、だれあろう、坂本龍馬である。
龍馬は天保6年(1835)、土佐の郷士の家に生まれ、14歳のとき、高知城下の日根野弁治(ひねのべんじ)道場に入門して剣術を学んだ。嘉永6年(1853)、19歳のとき、剣術修業のため江戸へ出て、北辰一刀流千葉定吉の道場に入門する。北辰一刀流は定吉の兄・周作が創始したもので、神田お玉が池の道場・玄武館には全国から多くの志士が集い、江戸三大道場のひとつに数えられるほどの隆盛をみた。
そして、龍馬はこの北辰一刀流の道場で妙見信仰の秘義を修めたのである。
ここで、北辰一刀流と妙見信仰がいったいどう結びつくのか、疑問に思う読者も多いだろう。創始者の千葉周作は陸奥国栗原郡(宮城県)の出身だが、じつはあの下総の千葉氏の末裔だった。つまり、将門の末裔であり、妙見信仰の一族であった。そして流派名の「北辰」とは北極星のことにほかならない。すなわち、北辰一刀流とは、周作が修業した一刀流剣術に、千葉氏秘伝の妙見信仰を融合させたものであったと考えることができよう。
そして、安政5年(1858)、龍馬は定吉から北辰一刀流の免許を授かる。だがこのとき、龍馬はたんに剣術の免許を得たのではなかった。
やはり千葉氏の末裔で、千葉氏家伝の妙見兵法桓武月辰流(かんむげっしんりゅう)第24代宗家である千葉吉胤妙星(よしたねみょうせい)氏と、元国会議員・平野貞夫氏の共著『坂本龍馬と北極星信仰の謎』(2010年)は、龍馬はこのとき千葉一族の者だけに相伝されていた北辰一刀流の「奥義」を特別に伝授されたのだと主張している。刮目すべき指摘であろう。
そもそも龍馬の北辰一刀流免許伝授をめぐっては、授かった目録に「北辰一刀流 長刀兵法」とあることから、「龍馬は剣術ではなく薙刀術の免許を受けたにすぎず、免許皆伝ではなかった」とする説もあり、論争の的となっている。だが、前掲書によれば、北辰一刀流の「長刀」とは「なぎなた」ではなく「長じた刀」という意味であり、要するに世間一般の剣術を超越した「奥義」のことを指しているのだという。
秘伝伝授には龍馬が定吉の美貌の娘・佐那と許嫁同然の間柄になって千葉一族の厚遇を受けたことも関係しているらしいが、とにかく、龍馬は千葉道場での剣術修業のなかで千葉氏秘伝の革新精神を宿した妙見信仰に出会い、共鳴し、そして修得したのである。
龍馬は後年の慶応3年(1867)6月、新国家のヴィジョンとして「船中八策」を起草しているが、これなども彼の妙見信仰のあらわれのひとつといえるかもしれない。さらにいえば、「日本を今一度せんたくいたし申候」という彼の壮大な決意の裏には、将門以来の妙見信仰による日本の改革、妙見革命への切なる熱意が秘められていたのではないだろうか。
また、龍馬と意気投合した幕臣の勝海舟は、父親の影響もあって妙見菩薩の熱心な信者であったといわれる。そもそも、龍馬の出身地である土佐は、もともと妙見系の寺社が多い土地であった。
すなわち、将門を震源とする妙見信仰こそが、幕末回天の隠れた原動力だったのである。
だが、またも妙見革命は挫折した。
まず主役たる龍馬が慶応3年11月15日、京都の近江屋で暗殺された。享年33。真犯人をめぐっては議論があるが、今のところ、尊攘(そんじょう)・討幕の浪士を取り締まっていた幕府の京都見廻組とする説が有力である。
そのひと月後、大政奉還が行われ、王政復古の大号令が続いて明治維新が本格化してゆく。新たに誕生した明治国家は、表面的には天皇を中心としていたが、内実は薩摩・長州の武闘派に牛耳られた、官僚主導の専制国家だった。龍馬が理想としたであろう、妙見信仰とも親和する素朴なデモクラシー的要素は、巧妙に排除されていた。
それどころか、慶応4年3月から発せられた、神道国教化を見据えた神仏分離令によって、妙見信仰そのものが弾圧された。それまで妙見菩薩を祀っていた「妙見宮」「妙見社」を社号としていた神社は「〜神社」「〜星社」などと強引に改められ、祭神は妙見菩薩から北斗七星の神とされた天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)などに変えさせられたのだ。
たとえば、埼玉県の秩父神社は、平良文が上野国花園の妙見菩薩を勧請したところと伝えられ、江戸時代までは「秩父妙見」「大宮妙見」などと呼ばれていたが、明治の神仏分離で秩父神社と改称し、祭神は妙見菩薩から天御中主神に変わった。「妙見菩薩は仏教の菩薩であって、神道の神ではないので、神社に祀られるのはおかしい」というのが新政府側の表向きの理由だったが、妙見信仰が過激思想として危険視された面もあったのではないか。
また、慶応4年正月からは旧幕府勢力と新政府勢力が対決して戊辰戦争が勃発し、江戸をはじめとする関東・東北各地が戦場となった。そして一時は旧幕府側の奥羽越列藩同盟が日光山門主だった輪王寺宮能久親王(りんのうじのみやよしひさしんのう)を盟主に担ぎ上げ、親王が「東武皇帝」を称したともいい、あたかも「将門の乱」再現のごとき様相を呈したが、まもなく鎮圧され、旧幕府勢力は壊滅した。
しかも今度は、反発の動きを完全に封じ込めようとするかのように、京都の天皇みずからが東国に下り、江戸を東京と改めて遷都してしまった。あまつさえ、妙見信仰の震源であった将門霊を睥睨するがごとく、将門塚のすぐそばに建つ江戸城を皇居と定めたのだ。
明治7年(1874)には、さらなる暴挙が強行された。神田明神の祭神から将門霊が外されて本殿から別殿に遷されたのだ。これは、「天皇の住まう都にありながら、逆賊とされる将門を祀るのは不適切ではないか」という神社側の忖度に新政府側の意向が組み合わさった結果であった。
そして将門霊の遷座が行われた8月の翌月には、明治天皇が神田明神を親拝している。
こうして妙見信仰と将門の怨霊は、すっかり牙を抜かれてしまったのだ。
だが、明治も後半になると、『平将門故蹟考』を著した織田完之らによって将門復権の動きが生じ、大蔵省構内にあった将門塚に保存碑が建立される。にもかかわらず、先述したように、大正の関東大震災後の整備で塚の本体ともいえる墳丘が崩されてしまったのだが、このことは結果的に将門霊と首塚の存在感を強めることになった。これ以後、将門塚の工事関係者が怪死するなどの事件が続いたことで、将門の祟りや怨霊がしばしば噂されるようになったからである。
昭和59年(1984)には、氏子たちの熱い要望を受け、将門霊はようやく神田明神の本殿の祭神として復帰した。110年ぶりの復活であった。明治から昭和の時代を背景に、怨霊平将門の力で帝都を破壊しよう目論む魔人との戦いを描いて話題を呼んだ、荒俣宏氏の長編伝奇小説『帝都物語』の刊行が開始されたのは、この翌年だ。
そして令和3年(2021)、新型コロナウイルスのパンデミックに世界中が苦しめられているさなかの今、東京が緊急事態宣言下にある4月に、将門塚の大改修が成った。
このことはいったい何を意味するのだろうか。
かつて真教上人が将門塚を供養しなおしたことで、猖獗をきわめた疫病が収まったという。そのひそみに倣うのであれば、今度の将門塚改修は、コロナという疫病の終息をもたらしてくるのだろうか。
いや、この改修にはじつはもっと深い意味が込められているようだ。
というのも、今回取材を進めるなかで、こんな情報をキャッチしたからだ。
改修に際して、茨城県坂東市の延命院境内にある胴塚の土が東京まで運ばれ、将門塚にひそかに納められたというのである。加えて、将門終焉の地に建てられた国王神社(坂東市岩井)の土も納められたという。すなわち、胴塚と首塚のドッキングであり、それは将門の胴体と首を再度つなぎあわせようとする深奥な再生秘儀にほかならない。
これによって将門は令和日本に甦り、龍馬に代わる英雄を使嗾(しそう)して、真の妙見革命をスタートさせるのか。それとも、覚醒した将門霊の絶大なパワーによって北斗七星結界が完全に突き破られ、想像するだにおそろしい一大カタストロフが到来するのか。
アフターコロナの日本の行方は、日本の首都の秘められた中心である、新生将門塚のパワーに掛かっているのだ。
「将門の乱」の最終章は、すでにはじまっている。
(2021年6月9日記事を再編集)
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