俳諧で江戸妖怪が大増殖!「妖怪を名づける 鬼魅の名は」/ムー民のためのブックガイド
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『ノストラダムスの大予言』—— 。累計250万部を超える大ベストセラーであり、日本におけるノストラダムス研究書の代表である。その著者、五島勉氏が亡くなられた。はたして五島氏とは、どのような人物だったのか? 改めてここに検証し、その死を追悼する。
目次
「一九九九の年、七の月
空から恐怖の大王が降ってくる
アンゴルモワの大王を復活させるために
その前後の期間、マルスは幸福の名
のもとに支配に乗りだすだろう」(五島勉氏訳)
日本人の大部分が、この四行詩を知っていた時期があった。最初の一行、「一九九九の年、七の月」という一節には、今もデジャ・ヴュを覚える人が相当程度いるのではないだろうか。
「恐怖の大王」「アンゴルモアの大王」という、正体はわからないがなんとなく不安と恐怖を誘う言葉に、1999年という世紀末の年号が重なり、第1次石油ショックで騒然としていた当時の日本社会で、この詩は呪文のように広がり、本当に世界が滅亡するのではないかと悲観して自殺する者もいた。
当時からけっこうネクラの少年だった筆者なども、本書を読んで厭世観(えんせいかん)をさらに強めると同時に、世界が終わるという予言にそこはかとない安堵(あんど)を感じたことも事実だ。
あらためて解説するまでもなく、これは、16世紀フランスの大予言者、ミシェル・ノストラダムスの有名な予言詩である。
ノストラダムスは、当時使用されていたユリウス暦の1503年12月14日、プロヴァンス州サン・レミの公証人ジョーム・ド・ノートルダムとその妻レニエール・ド・サン・レミの長男として生まれた。両親はいずれも改宗ユダヤ人の子であったらしい。
15歳前後(1518年ころ)にアヴィニョン大学に入学したようだが、その後大学を離れたようで、1521年から1529年まで各地を遍歴(へんれき)1529年10月23日にモンペリエ大学医学部に入学した。
1530年代初頭には、人文学者ジュール・セザール・スカリジェに招かれてアジャンに移住し、1531年にその町で最初の結婚をしたようである。しかし、まもなく妻子を病気で失い、また気難しいスカリジェとも不仲になった。さらに1538年にはトゥールーズの異端審問官から召喚を受けたこともあり、長い旅に出た。
遍歴中のノストラダムスについては、さまざまな伝説がつきまとっている。
代表的な逸話としては、ある旅の僧の前にひざまずいたところ、その人物が後にローマ教皇シクストゥス5世になったというものや、ロレーヌ地方のフロランヴィルの領主の居城に逗留したとき、白豚と黒豚の運命を予言したというものがある。
1546年には、ペストが流行していたエクス・アン・プロヴァンス市から乞われて治療に従事し、その後プロヴァンス州サロン・ド・クローに落ち着き、死ぬまでこの町で過ごした。
1553年には町の名士として公共の泉の碑文を起草、1550年代後半にはクラポンヌ運河の建設に出資したりもしている。
こうした活動と並行して、1年間の出来事を予言した暦の刊行を始め、これが評判を呼んで1555年5月には、『予言集』の初版を出版した。
当時の国王アンリ2世と王妃カトリーヌ・ド・メディシスからの招待を受けたのは、この『予言集』出版の直後であったが、時期を考えると、『予言集』ではなく暦の評判が王宮に届いたことが理由と考えられる。
1564年、新しく王に即位したシャルル9世は、フランス各地をまわる大巡幸の途上、わざわざサロンに立ち寄って、市内のアンペリ城でノストラダムスと謁見(えっけん)した。別の機会にアルルに逗留した際にはノストラダムスを呼び出し、彼に「常任侍医」および「顧問」の称号を下賜(かし)したという。
その後ノストラダムスは、痛風もしくはリウマチと思われる症状に苦しめられ、1566年7月に死亡した。
ノストラダムスの名は、『ブリタニカ』をはじめとする欧米の百科事典には、歴史上の人物として必ずその名が掲載されていた。しかし、日本ではごく一部の、それもかなりコアなオカルト・ファンの間で名が知られていた程度であった。
その状況を一変させたのが、五島勉氏が1973年に著した『ノストラダムスの大予言』である。
本書は累計で250万部を超える大ベストセラーとなって、翌年には映画化され、以後続編や、他の研究家によるノストラダムス研究書が続々と刊行されるという、いわば「ノストラダムス現象」ともいうべき状況が生じた。
その五島氏が6月16日、誤嚥性肺炎で死去した。
2年ほど前から心不全などいろいろな病気を発症して入退院を繰り返していたというが、6月上旬にまた入院し、やがて食事も摂れなくなってそのまま亡くなったという。享年90だから、天寿を全うしたといえるだろう。
その死が公表されたのは7月も下旬になってからのことで、7月22日付朝刊各紙は一斉に死亡記事を掲載した。
死亡記事の場合通常は、本人の名前と享年が冒頭に来るのだが、五島氏についてはほとんどの掲載紙が、「ノストラダムスの大予言」とタイトルをつけていた。それほどに五島氏といえばノストラダムス、ノストラダムスといえば五島勉という認識が確立されていたということだ。
では、その五島氏とはどのような人物だったのだろうか。まずはその足跡をたどってみよう。ただ、残念ながら筆者は生前の五島氏に面会する機会には恵まれなかったので、以下に述べることは、生前に氏が行った各種インタビューなどでの発言をもとに、一部筆者の推測も混じっていることを最初におことわりしておく。
五島氏は、本名を後藤力(つとむ)といい、1929年11月17日、北海道函館市で7人兄弟の末っ子として生まれた。生家は敬虔なロシア正教信者の家系で、代々医者を営んでいたという。
旧制函館中学を経て旧制二高仏文科を卒業後は東北大学法学部に進学、大学時代には「イールズ声明反対闘争」と呼ぶ学生運動にも関わったという。
一方で大学時代から官能小説のようなものを投稿しはじめ、それがきっかけで、ルポライターの仕事も行うようになった。すでに在学中の1953年、倉田英乃介名義で『コイン利殖入門』、そして五島勉(つとむ)名義で『続・日本の貞操』の2冊を出版している。
卒業後は、東京の出版社に誘われて上京し、フリーライターとしての仕事を続けた。1950年代には「知性」「中央公論」など多くの雑誌に記事を掲載する傍ら、『東京租界』『アメリカへの離縁状』など、基地問題に関わる著作を中心に、何冊かの著書をものしている。なかには『戦後残酷物語』のように映画化されたものもあった。
ライター仲間からは「サソリのベン」という異名で呼ばれていたらしく、朝から晩まで鉛筆をポケットに持ち歩き、何かあるとメモをとっていたというほど仕事熱心であったようだ。
ただ、1956年ころ結婚した夫人の話によれば、当時は実家が火事で焼失したこともあり、貧乏で新婚旅行もできず、夫人の実家から食料を送ってもらっていたという。
1958年、光文社から「女性自身」が創刊された際には、乞われて創刊号から記事を執筆し、半分専属のような立場で10年以上関わったらしい。
「女性自身」は、1970年までに135万部まで部数を伸ばしたが、五島氏もこれに貢献したということになる。
1970年、光文社での労使紛争が原因で、一部の社員が離脱して祥伝社を立ち上げた。このときには、五島氏にも声がかかり、五島氏が祥伝社から出した最初の本が『ノストラダムスの大予言』となった。
五島氏は『ノストラダムスの大予言』以前に、20冊近くの著書を残しているが、そのなかでオカルトめいた話題を扱ったものはただ一冊、1965年の『世界の廃墟物語』だけである。この『世界の廃墟物語』は、エジプトの大ピラミッドやイースター島など、世界の古代遺跡を物語仕立てで紹介するもので、ムーやアトランティス、さらにはツタンカーメンの呪いなども扱っているが、予言などは出てこない。
では、五島氏はノストラダムスについて、いつ知ったのであろうか。
五島氏本人は、旧制二校時代にとあるフランス語教師からその名を聞き、ずっと気になっていたと述べたことがあるが、一方でルポライターになってから知ったと述べたこともある。このあたりはもはや確認することはできないが、いずれにせよ『ノストラダムスの大予言』を書くかなり前から、ノストラダムスとその予言については知識があったということだろう。
同書は、ノストラダムスが1999年に世界は滅亡すると予言しているというプロットを軸にしているが、公害による環境破壊や核戦争に対する危機を強く訴える内容にもなっている。
五島氏が名前のふりがなを、従来の「つとむ」から「べん」に変えたのは本書からのようだが、五島氏としては、自分がこれまで書いてきた何冊かの本のひとつという認識で書き上げたのだろう。ところが、本書は大ベストセラーとなり、社会問題にまでなってしまった。
これはやはり、本書のペシミスティックな内容が、時代の雰囲気にマッチしたということだろう。
1960年代後半から本書が発売される1973年11月までの世相を振り返ると、世界的には1968年のプラハの春、1971年のニクソン・ショックや第3次印パ戦争、1973年の第4次中東戦争、第1次石油ショックなどの事件が続く一方、東西のデタントが始まり、1973年1月にはアメリカとベトナムが和平協定に調印するなど、明るいニュースもあった。
日本では、ベトナム反戦運動の高まりが70年安保反対闘争にも結びつくが、安保闘争は挫折、1970年の大阪万博は盛り上がったが、その後景気は急速に後退した。
脇目もふらずに戦後復興に邁進してきた日本人がふと息切れし、周囲を見回してみると、公害や地方の過疎化など、高度経済成長時代の負の側面もはっきりし、先が読みにくくなっていた。
一方、安保闘争に挫折した団塊の世代には強い虚無感が残り、こんな世の中などなくなってしまえ、という暗い願望を秘めた者もそれなりにいたのではないだろうか。五島氏がさまざまな媒体で行ったインタビューを読んでみると、彼自身も、心のどこかにこの種の厭世観を抱いていたように思われる。
とにかく、これまでと違って未来への希望が持ちにくくなっていたところに、期を一にするように起きたのが、第1次石油ショックによるパニックであり、本書の発売であった。
こうした世相と無縁ではないのが、1974年に始まるオカルト・ブームである。このブームも本書の売れ行きを加速し、同時に本書もオカルト・ブームに強い影響を与えた。
本書は、発売3か月で100万部を売り上げたという。これだけ部数が伸びれば、出版社はすぐにも続編を出すのが普通だが、正式な続編『ノストラダムスの大予言Ⅱ』が出版されたのは6年後、1979年の年末であった。
1974年には五島氏と西丸震哉氏との共著『実説 大予言』が出版されているが、これは続編というより同年公開された映画の宣伝のため対談をまとめたような内容であった。
『ノストラダムスの大予言Ⅱ』が1979年に発売されるまでの間、五島氏は『宇宙人謎の遺産』や『生命転生の秘密 カルマの法則』、小説『カバラの呪い』と、続編の代わりに祥伝社から古代宇宙飛行士ものや精神世界関連の著作を刊行しつづけた。
このあたりの事情は推測に頼るしかないが、やはり『ノストラダムスの大予言』の内容について、各方面から批判を受けたことが大きく影響しているのではないだろうか。実際に本人も後に、激しいバッシングに自殺を考えたこともあると書いている。
ところが1979年4月14日午後7時から日本テレビで放映された、「土曜スペシャル・空前! 糸川博士の星占い」という番組で変化が生じた。
番組のタイトルにもなっている糸川博士とは、戦時中日本帝国陸軍の名機、一式戦闘機隼の設計にも携わり、戦後は日本のロケット開発をリードしつづけてきた「ロケット博士」糸川英夫のことである。
現在では、2005年に日本の小惑星探査船はやぶさが着陸した小惑星、「イトカワ」にもその名を残す人物であるが、一方で、日本最初のUFO研究団体「日本空飛ぶ円盤研究会」の顧問でもあり、1970年代には西洋占星術にも関心を持っていたのだ。
糸川博士は、当時としては画期的であったコンピューターによるホロスコープ作成を試み、番組はその成果を紹介する内容であった。そして、以後ノストラダムスと関連づけて論じられる重要なアイテムのひとつ、「黙示録の十字」が登場したのは、この番組のなかだった。
この番組については、筆者もリアルタイムで観た記憶があるが、番組内で。当時まだ珍しかったコンピューターによるホロスコープ作成を行い、1999年7月には特別な星の配置はないものの、8月18日にはグランド・クロスと呼ばれる配置が生じることを明らかにした。
グランド・クロスとは、西洋占星術で用いられるアスペクトのひとつである。現在の西洋占星術では太陽と月、そして冥王星も含めた地球以外の8惑星、さらには月の軌道が黄道と交差するポイントなど、いわゆる「占星点」同士がなす角度をアスペクトと呼び、特定の角度に特定の意味を結びつけている。
グランド・クロスとは、4つ以上の占星点が地球から見て90度ずつの4つの方向に位置する場合をいう。
太陽系を真上から見たとすれば、これら4つの占星点が地球を中心に十字の形にならぶわけだが、占星術では凶相である。しかも1999年8月のグランド・クロスは、冥王星以外の全惑星が参加して形成する珍しいもので、西洋占星術の理論からすれば、なにか重大な事件が起きることを予測するものとなる。
『ノストラダムスの大予言Ⅱ』は、この番組の成果をとりいれる形で1979年12月に出版された。
このとき五島氏の強力な助っ人として登場したのが、「黙示録の十字」の名づけ親でもある西洋占星術師、フェニックス・ノア氏であった。
フェニックス・ノア氏については、法政大学及び上智大学に学んだという以上の経歴は不明であるが、ノストラダムスも独自に研究しており、1974年に『神の計画』を出版している。
「黙示録の十字」という呼び名は、1999年に惑星が所在する4つのサイン、金牛宮、獅子宮、天蝎宮及び天秤宮が、「ヨハネの黙示録」に登場する4つの獣に対応するとして名づけられたものだ。
『ノストラダムスの大予言Ⅱ』では、「黙示録の十字」との関連もあって、「ヨハネの黙示録」がクローズアップされた。以後ノストラダムスは単なる「予言者」ではなく、聖書系列の「預言者(神の言葉を伝える者)」だとする見方が広まっていく。
さらにアナグラムの使用や、予言詩の番号に特別な意味を付与する手法も本格化した。なによりも、「別のもの」が現れれば滅亡は回避できるということがはっきりと明示された。
これ以降、五島氏は本格的に予言関係の著述を量産するようになった。またこの時期には、翻訳書も含め、他の研究家によるノストラダムス関連書籍が続々と刊行されるようにもなった。
そうしたなか、五島氏は、1998年までに『大予言』シリーズ全10冊を刊行、それ以外にもノストラダムス関連書籍や『ファティマ・第三の秘密』、『2000年5月5日ポール・シフト』など、ノストラダムス以外の予言に関する著書も量産した。
内容においても、『ノストラダムスの大予言Ⅲ』では1986年のハレー彗星接近に加え、第10巻65にある「ローマ滅亡」の詩を最後の秘詩として打ちだし、『ノストラダムスの大予言Ⅳ』は直前に出されたフランスのフォンブリューヌの解読批判、『ノストラダムスの大予言Ⅴ』では、謎の結社ルシフェロンとの接近と6行詩など、次々と新基軸を打ち出し、他の日本人研究家の多くも、五島氏が提供した数々のアイテムや手法を用いた。その意味で五島氏は、「ノストラダムス現象」を招いた張本人であり、同時にこのブームをリードしつづけたといえよう。
日本のノストラダムス関係書は、湾岸戦争直後に最初のピークを迎え、その後減少。運命の年である1999年に40冊以上を数えたのを最後に、以後は急速に減った。
1999年という年が無事にすぎた後、当然ながら五島氏はかなりのバッシングを受けたようだ。しかし2001年の9・11事件以後は、エリカ・チータムの解釈も引きながら、じつはノストラダムスの予言は的中していたと主張している。
21世紀に入ってからも、釈迦や日蓮、さらにはヒトラーやウェルズ、イソップ物語の予言に関する著書を刊行するなど、予言関係の著述家として活動を続けた。
彼の著作内容については、さまざまな批判が寄せられていることも事実だ。しかし、物書きというのは、所詮業を重ねる職業であるし、五島氏の著作がなければ、ノストラダムスの名が日本でこれだけ広まることはなかっただろう。それに、彼の著作を通して読んでみると、一貫して文明批判の視点が貫かれていることも見えてくる。
ノストラダムスといえば五島勉という図式が確立されたなかで、それを利用したビジネスに走らなかったことにも、生涯を一介の物書きとして生きた五島氏の一種の矜恃(きょうじ)のようなものが感じられる。
この場では、死者に対する不敬は控え、静かに故人の冥福を祈ることにしよう。
五島勉(ごとうべん)
1929年北海道函館生まれ。東北大学法学部卒業後、すぐにルポライターとなる。「週刊新潮」「女性自身」などの週刊誌で活躍し、数作の著作のあとで1973年、『ノストラダムスの大予言』を発表。累計250万部を超える超ベストセラーとなり、日本中で「ノストラダムス現象」ともいうべき状況を巻き起こした。2020年6月16日、没。
なお、本記事執筆にあたっては「ノストラダムスwiki:ノストラダムスの大事典」のサイトを活用させていただいた。管理人の山津寿丸氏に誌面を借りて厚く御礼申し上げる。
羽仁 礼
ノンフィクション作家。中東、魔術、占星術などを中心に幅広く執筆。
ASIOS(超常現象の懐疑的調査のための会)創設会員、一般社団法人 超常現象情報研究センター主任研究員。
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