キューバに飛来した新型UFOに騒然! 翼の生えた回転光はTR-3Bの進化モデルか、専門家も交え議論沸騰!
キューバ上空で確認された奇妙すぎる形状のUFOが話題だ。果たしてその正体は何だったのか? 激しい議論が巻き起こっている!
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ツチノコの目撃で知られる町・兵庫県宍粟市千種町で、ツチノコが発見・捕獲されていた! ムー編集部にもたらされた衝撃の情報を受けて、その真偽を確認するために、長らくツチノコを取材する研究家・山口直樹が現地へと飛んだ。
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かつて“ツチノコ生け捕り2億円”という破格の賞金で話題を集めた町があったことをご存じだろうか? 今は兵庫県宍粟(しそう)市の一部となっている千種(ちくさ)町で、名水百選に選ばれた清流、千種川の源流がある自然豊かな町だ。
1992年に当時の小原朗町長が、古くから目撃情報があり、1970年代から有志らが捜索をつづけていたツチノコの捕獲に2億円の賞金を懸け、ツチノコでの町おこしを始めた。しかし「平成の大合併」を受け、2005年4月に一宮町、千種町、波賀町、山崎町が合併して宍粟市が発足。千種町は宍粟市の周辺部となり、ツチノコ捕獲の賞金は「現実性のない予算は組めない」との理由で廃止され、捜索イベントなども行われなくなった。そのため、以後、ツチノコ関連の話題で千種町が取り上げられることはなくなってしまったのである。
その宍粟市千種町に暮らす元町職員の阿曽茂夫さん(64歳)から、ムー編集部に次のような連絡が入ったのは、2019年9月初旬のことだった。
「宍粟市になって、ツチノコの町・千種は忘れ去られてしまった。地元でもツチノコは過去の遺産になりつつあります。『千種町のツチノコ目撃史』をきちんと資料化したいので、『ムー』で取材し、記事にしてくれませんか」
そこで筆者が阿曽さんと連絡を取ったところ、なんと千種町でツチノコの子供と見られる謎の生き物を捕獲し、そのミイラ化した死体を保管している方がいるとの驚きの情報を得たのだ。
2018年6月には「神戸新聞」が兵庫県内の「ツチノコ捜索騒動」を振り返る特集記事を組み、問題の死体の写真を1枚、掲載している。それをインターネットで見ると、全長20センチほどでやや小さいものの、太めの胴体に手足はなく、三角形の大きな頭と細くて短い尾を持つヘビのような姿は、まさにツチノコだ。
しかも、死体の所有者は、かつて千種町ツチノコ捜索隊の中心メンバーだった平瀬景一さん(83歳)の親友で、平瀬さんにお願いすれば、おそらく実際に見せてもらえるだろうという。そこで筆者は、平瀬さんが稲刈りなどの農作業を終えるのを待ち、10月15日に現地へと向かったのである。
山陽新幹線を姫路駅で下車し、レンンタカーに乗り込み、中国自動車道を経由して約1時間30分で指定された千種市民局(元千種町役場)に到着した。
元町長室に入ると、かつては屋外に立てられていた「ツチノコ手配書」の看板が壁に立て掛けられており、捜索は過去のものと実感させられた。しかし、ほどなくお会いできた死体の所有者の体験談は、千種町のツチノコ・ミステリーが今も終わっていないことをはっきりと示すものだった。ただ、所有者は騒がれるのを嫌い、名前も住所も伏せたいというので、Aさんと記す。また、捕獲現場を明らかにすると、近隣の方に迷惑がかかる恐れがあるため、Aさんの希望に即して明示を避けたことを了承してほしい。
Aさん(81歳)がツチノコを捕獲したのは2001年2月のことだった。
その日の午後、用があって千種町を車で訪れたAさんは、ある山道に入った。すると、前方の山の斜面が崩れている。徐行して進むと、崩れ落ちて積もった土砂の上から何かが頭を突きだしているのが見えた。
そこで、車を降りて近づくと、開いた穴から小さな生き物が頭を出している。軽く足で踏んでみたが動かない。Aさんは、何だろうと思いながらも先を急ぎ、用をすまして現場に戻ってみると、まだ生き物はそこにいた。
好奇心が旺盛なAさんは、車内にあったヒモをその首に巻き、穴から生き物を引きだした。それは、太くて短い見たこともないヘビだった。まだ生きているようだったので、レジ袋に入れてそのまま家に持ち帰ったという。
「これが、そのとき家で撮った写真です。使い捨てカメラ(レンズ付きフィルム)だったので、うまく写ってはいないのですが……」
そういってAさんが見せてくれたサービスサイズの10枚ほどのプリント写真は、驚きのものばかりだった。あえてその生き物をツチノコと呼ばせてもらうと、写真は「穴から顔を出したツチノコ」「ガラス窓に貼りついたツチノコ」といった衝撃的なものだったのである。と、そのとき、信じられないことが起こった。ふと見ると、窓から40〜50センチ離れた畳の上に置いていた生き物が、ガラス窓に貼りついていたのだ。残念ながら、Aさんも友人も生き物が動いている姿は見ていない。だが、時間的にみて、畳を這っていったのではなく、外に逃げようとしてジャンプしたと思ったそうだ。Aさんは生き物を手でつかんで畳の上に置いたが、何の抵抗もなくガラスからはがれたので、粘液などは出していなかったらしい。
こうして友人にすすめられ、Aさんが写真を撮りはじめると、じきにまったく動かなくなって死んだそうだ。
そこでAさんは、記憶を確かなものにしておこうと考え、窓ガラスに生き物が貼りついていた様子を死体で再現し、写真を撮った。また、庭の土の斜面に穴を掘り、穴から顔を出していた発見時の姿の再現写真も撮影したのだ。その後、物置状態で暖房を入れていない2階に死体を吊るして干した。すると、いい具合いに乾燥し、やがてきれいにミイラ化したという。
その後Aさんは、物置状態で暖房を入れていない2階に死体を吊るして干した。すると、いい具合いに乾燥し、やがてきれいにミイラ化したという。
この死体はツチノコなのか?
正体を知りたくなったAさんは、しばらくして千種町の役場に出かけ、担当者に写真を見てもらった。
しかし、写真を見るなり「ツチノコに似た、トカゲの足がもげたものだろう」といわれ、偽造を疑われたという。当時は、インドネシアやオーストラリア、パプアニューギニアに生息しているアオジタトカゲが、四肢を取ればツチノコに姿がよく似ていると、テレビや雑誌でしばしば取りあげられていた。日本でもアオジタトカゲをペットとして飼っている人は多い、と報じられていたため、役場の担当者はそのようなことをいったのだろう。また、役場は合併の準備に追われており、担当者はツチノコに詳しくなかった。そのためきちんと対応できなかったと、平瀬さんは残念そうに振り返る。
そこでAさんは、ツチノコの話題を紹介していたテレビ局に連絡した。すると取材スタッフが大挙して自宅に訪れ、どんどん撮影されて驚いたという。それなのに番組では、死体の正体を探ることなくうやむやにしていたため、マスコミにも不信感をもったそうだ。
その後、Aさんは、つてを頼って某大学の農学博士(故人)に死体を見てもらった。すると博士は「このような生物は日本にはいない」と断言した。
しかし、Aさんが鑑定書を書いてほしいというと「私には書けない。責任を持てない」と断られたという。そして「これは大変貴重な資料なので、むやみに人に見せたり、貸したりしないほうがいい」と助言されたそうだ。
そんなおり、Aさんは平瀬さんと知り合い、ふたりは意気投合した。死体を見た平瀬さんは「ツチノコに間違いない」と確信し、再度の鑑定をすすめたが、死体では偽物と疑われるだけというAさんはかたくなに拒んだ。
そこで、平瀬さんがツチノコを捕獲することができたら、死体と一緒に公表しようということになったという。
というのも、Aさんが捕獲した生き物がツチノコであるなら、これまで不明だったツチノコの生態のいくつかが明らかになったことになるからだ。
まず、捕獲時期は2月初旬で、崩れた山の斜面の穴から頭を出していたことから、冬眠中に不慮の事態に見舞われたと推測できる。Aさんが足で踏めたのも、冬眠中に目覚めたため、体が動かなかったからだろう。
生き物の全長が約20センチだったことは、これが生まれてすぐの幼体だった可能性を示唆する。なぜなら、ツチノコとよく比較されるマムシ(全長45〜60センチ)は卵胎生で、妊娠したメスは8月から10月に尾の付け根にある総排出腔から全長20センチほどの子供を産むからだ。また、マムシは11月〜翌年3月まで冬眠するが、産まれたばかりの子供も同じように冬眠し、生後3〜4年で成熟する。
こうしたことから平瀬さんは、ツチノコは土の中で冬眠すると確信した。そして、冬眠前後が捕獲の好機ととらえ、冬眠しそうな場所に罠を仕掛け、今も捕獲に挑みつづけているそうだ。
そうした経緯があるにもかかわらず、2018年に「神戸新聞」の記者に見せたときも、記事はおもしろおかしくまとめたものでしかなかった。そのため、今回、平瀬さんとAさんは、筆者に会って話をしたうえで死体を見せるかどうかを判断することにしたという。
幸いAさんは、筆者がこれまで執筆してきた「ムー」のツチノコの記事がいちばん信頼できると評価していてくれていた。そのため、筆者に死体を見てほしいということになり、宍粟市に隣接する佐用町にあるAさんの自宅に急ぎ車を走らせたのである。家に着くなり、Aさんは部屋から脱脂綿が詰まったプラスチックケースを持ってきて、中からミイラ化したツチノコらしき死体を取りだした。
それは、まさに数々の目撃証言から築かれたツチノコの再現図を全長20センチにして実体化した死体だった。
四肢はなく、頭は三角形で、胴に比して大きい。ただ、尾はネズミのようにすべてが細くはなかった。やや太くて短い尾で、先端はとがっている。
捕獲時の写真を見ても大差はなく、尾だけはツチノコのイメージと若干異なっているようだ。ただ、マムシの幼体も、尾の先端は橙(だいだい)色という成体とは違う特徴をもっている。ツチノコの幼体も成体とは異なる尾を持っているのかもしれない。
もちろん、四肢の痕跡をくまなく捜したが、どこにもなかった。間違いなく、この死体は、ヘビのように最初から四肢のない生き物だ。
背中には、小さな楕円形のうろこがびっしり並ぶ。その色の違いで浮かび上がった模様は横縞模様に見えるが、捕獲時の写真を見ると、V字にも見えるが、はっきりしない。
捕獲時の写真では目は大きそうに見えるが、死体の頭部はややつぶれた状態になっており、断定はできない。また、口には歯が数本残っているが、捕獲時の写真、死体とも牙は確認できなかった。同様に舌の様子も不明だ。
興味深いのは腹部だ。
通常、ヘビの腹部には幅の広い腹板と呼ばれるうろこが連なっている。この腹板と背中側の細かいうろこの境目には少し角があり、地面にひっかかるようになっている。ヘビは、このひっかかりを脚のように使い、腹部を滑らせて前に進むわけだ。しかし、ツチノコらしき死体の腹部には、背中と同様、細かいウロコがびっしり。四肢のあるトカゲに似た腹部になっているのだ。
もちろん、ツチノコは四肢がなくても、ヘビのように蛇行はしない。まっすぐ前に進み、そのままの姿勢でバックもできる。そのうえ、ジャンプもするなど、ヘビの仲間とは考えられない動きを示すので、腹部の状態が違っていてもツチノコではないとはいえない。
はたしてこの死体の正体は? そしてツチノコの実態は? ここから先は、千種町のツチノコ目撃史を振り返りながら検証したい。
ツチノコらしき死体が見つかった千種町は、兵庫、岡山、鳥取の3つの県境が交わる地点から兵庫県側に広がる、中国山地の東端を占める山深い町だ。じつは筆者がこの町を訪れたのは、今回が初めて。というのも、筆者が本誌でツチノコを追いはじめたのは1981年から。80年代も1992年に2億円の賞金が懸けられた後も、千種町では大きなツチノコ目撃事件は起きていなかったからだ。
しかし今回、千種町を訪れ、謎の死体を見た筆者は、過去のツチノコ目撃事件を知ってさらに驚かされた。1970年代以前にも、ツチノコのミステリアスな生態を目の当たりにする衝撃的な事件が多数起きていたのである。
千種町で有志グループによるツチノコ捜しが始まったのは、昭和47(1972)年ごろ。山本素石さんを中心にツチノコを捕獲しようと関西で活動していたノータリンクラブをモデルに、田辺聖子さんが小説「すべってころんで」を朝日新聞に連載し、ツチノコが全国に知れ渡りつつあったころだった。
千種町出身で小学5、6年生のころにツチノコらしき奇妙なヘビを目撃した平瀬四司男さん(当時41歳)と、その従兄弟で町産業課の平瀬景一さんたちが、捜索を開始。町内での目撃情報を掘り起こそうと、千種農業協同組合の有線電話を使い「太くて短い変なヘビを見た人はいませんか? それは幻のヘビ・ノヅチ(ツチノコの別名)です。見た人があれば農協か町の産業課までお知らせください」
と毎日、朝と夕方の2回、呼びかけた。すると、数多くの目撃情報が集まったのだ。
平瀬四司男さんの目撃も特異なものだった。晩春のある日、河呂(こうろ)の自宅に帰る途中、太くて短い丸太ん棒のような、やや黄色がかった生き物が、近くを横向きにコロコロと転び、止まると同時に草むらへまっすぐ入っていった。目も口も足も見えなかったそうだ。
こうしてグループは、有力な目撃情報を得るとその現場周辺を捜し、翌昭和48(1973)年には「捜索隊」を結成。以後、千種町が宍粟市となるまで活動をつづけたのである。
千種町で筆者は、捜索隊の副隊長だった平瀬景一さんらから目撃情報を聞き書きした資料のコピーをいただき、存命の目撃者から話を聞くこともできた。50件を超える目撃の中から、興味深い事件を数件紹介しよう。まずは、捜索隊発足のきっかけとなった事件だ。
昭和48年6月10日の正午ごろ、岩野辺の越乢(こしだわ)で、中学2年の小河良介君と中学1年の小河伸一君、伸一君の弟で小学6年の弘志君が、ツチノコを目撃。自宅近くの林道で山イチゴを食べていたとき、良介君と弘志君が道端の草むらから太い茶色のヘビが下半身を出してじっとしているのを見つけた。太い胴体から、細いシッポがチョロッとついていたのが不思議だった。そこで伸一君をそっと呼ぶと、物音に驚いたのか、ヘビは石が積み重なったところへ消えたという。
少年たちはこの目撃を先生に話し、平瀬景一さんも伝え聞いた。平瀬さんは少年たちに会い、現場に案内してもらって質問をした。すると少年たちは「ヘビがカエルを食ったのなら、よう知っとる。そんなもん、見間違えるはずなどない。見たこともないヘビじゃった」と憤慨した面持ちで答えたという。
事件はすぐさま新聞社に伝わり、新聞、テレビで報じられ、町では賞金をかけて捜索隊を出すらしいと騒がれた。そこで急遽「生け捕り100万円、死体は30万円」で「千種ノヅチ捜索隊」を結成、6月24日に少年3人が目撃した現場一帯で捜索することになった。
こうして、第1回捜索を告示すると、新聞やテレビ局など10社が取材にきた。参加者は53人。奈良からふたりの青年も来た。奮闘むなしくツチノコは見つからなかったが、捜索中、近くで見たという過去の目撃が3件発覚し、次回を期待させたという。
翌昭和49(1974)年には、4月27日に正式に「千種ノヅチ捜索隊」の結成式を行い、本部を中央公民館に置く。隊員は50人。平瀬四司男隊長のもと、副隊長に千種高校の池谷宏長校長と平瀬景一さんが就いた。そして、20個のツチノコ捕獲器を作って山に仕掛けるなどの活動を実施。ただ、この年の目撃は、一の茅野で7月14日に起こった1件だけだった。
しかし、昭和50(1975)年には、2件の驚きの事件が同じ日に起こった
のである。
まずは、ツチノコを捕まえたのに、逃がしてやったという事件。
6月16日朝、千種小学校の和田享先生(昭和4年生まれ)は、自宅の裏山、西山の増切にある休耕田へ草刈りに向かった。午前10時ごろ、石が散在するあたりまで刈り進んだとき、奇妙な生き物がじっとしているのに気づいた。丸太を切り落としたような形のヘビだった。
一瞬、気味が悪くてびくっとしたが、そのまま見ていると、ヘビはノロノロと這って、棚田の石垣を登りはじめた。前に進むときも斜面を登るときも蛇行はせず、まっすぐに進んだ。
ところが不器用なことに、途中まで登ってはずり落ちるミスを2回繰り返し、3度目にやっと高さ50センチの急坂を登りきって草むらに姿を消したという。
のろいやつだが、素手で捕まえるのは危険。家に帰って袋などを持ってこようかと考えていると、近所に住む和田利吉(77歳)さんが鍬をかついで登ってきた。そこで、鍬を貸り、石垣上の休耕田の草むらを鍬で分けると、そいつは、まだいた。
とっさに鍬で首を押さえたが、怪蛇は動こうともしない。ふたりは草の間をのぞきながら、1メートルも離れていない近さで、怪蛇を観察した。
和田先生によれば長さは約45センチ。太さはサイダー瓶とビール瓶の間ぐらい。頭は三角形で顎が張っていた。胴体はしっぽの付け根で急に細くなり、しっぽは全長の5分の1、頭も全長の5分の1ほどだった。
色は、黒みの強い茶色で紋様はなかった。目は黒光りしていたが、草の間だったので腹部はわからなかった。胴体のウロコは小さかったが、頭部にいくほど大きくなっていた。舌は出さなかったという。
ふたりは、そのまま10分ほど見ていたが、生け捕りするにも入れ物がなく、あまりにもおとなしいので、殺すにしのびない。
ようやくノヅチに似た格好だと気づいたが、こんなおとなしいノヅチはいないと思った。生かしておいて、また捕ればいいと思い、鍬を離すと、怪蛇はあわてて草むらに逃げていった。そのときも直進だったという。
一方、同じ日に河内では、山仕事をしていたふたりの主婦が、ツチノコを2度目撃していた。大前きみ子さんと、7歳年上の林与志恵さんは、隣同士で仲がよく、よく一緒に山仕事に出かける。その日は、山の斜面に隣り合った持ち山の下刈りで、草刈り鎌をかついで登った。
午後3時。あらかた刈り終え、湧き水の小流で喉を潤したときだった。きみ子さんが、後ろに何かがいる気配を感じて振り返ると、1メートルほど先に見たこともない太いヘビがいた。
「チャラ!」と叫んで逃げるきみ子さん。並んで座っていた与志恵さんが駆け寄ると「そこに怖いヘビが……」といって脅えている。気強な与志恵さんは、すぐさま草刈り鎌で捜したが、何も見つからない。
「見間違いじゃ」といっても、きみ子さんは「確かに太いヘビがおった」と訴える。背中ははっきり見たが、頭や尾はわからなかったという。
その後、なんとかこの日の下刈りを終えた午後6時ごろ、ふたりが山を下りはじめたときに再び事件は起こった。道の右手から太いヘビが現れたのだ。
立ちすくんだきみ子さんは、少し離れて下りてくる与志恵さんに「姉さん。また出た!」と叫び「あっちに走っていった」と、松の木の方角を指さす。与志恵さんが、道のすぐそばに立っている松に駆けよると、今度は確かに奇妙なヘビがいた。草の間に、ビール瓶くらいの太さのヘビの下半身が30センチほどが見えた。色は、ブロックが水に濡れたようなネズミ色に青みがかかり、背中には黒いすじがあった。
与志恵さんも見たとたんにゾッとして、すぐ逃げたそうだ。
なお、きみ子さんによると、太いヘビは目の前を右から左へ、真っすぐに素早く走った。ただ、見たはずなのに頭や尾は記憶に残っていない。長さは1メートルほどあったように思うが、恐ろしさのあまり長く見えたのかもしれないという。色は黒みがかった灰色。胴体は、やや平べったくて、背中の真ん中が山形になっていたように見えたそうだ。
2か所の目撃現場は300メートルは離れていたため、同じ個体ではなく、2匹のツチノコに遭遇したと捜索隊では推測したそうだ。
同じ日に、直進するツチノコが2か所で目撃されたわけだが、一方は動きがのろく、一方は素早かった。もしかすると、のろいほうはメスで、妊娠していたのかもしれない。
つづいて、過去の印象的な目撃事件を古い順に記そう。
先のふたりの主婦が目撃した道の西側で、河内の大前賢一さんは、昭和7(1932)年ごろの5月、奇妙な生き物を目撃した。太くて黒いヘビのようなものが、体をタイヤのように丸めて転がっていったという。
また、大前さんは、同じ場所で昭和15(1940)年8月に、太くて短いヘビが真っすぐ走っていくのを見たそうだ。
昭和30(1955)年ごろ、鷹巣(たかのす)の森井花治さん(明治38年生まれ)は、猟銃を手に内海の女乢(おんなだわ)にウサギ狩りに出かけ、恐ろしい体験をした。
犬を連れて草むらを歩いていると、1メートルほど先の草がガサッと動いたので目をやると、見たこともないヘビがいた。
長さは50センチぐらい。ビール瓶より太い胴体を回転させ、ゆるい坂を横に、ゆっくりと動いている。シシ狩りの名手の森井さんもさすがに驚き、思わず後ずさりしたという。
そこで森井さんは、ヘビ好きの愛犬をけしかけた。ヘビを見つけると吠えながら飛び回り、最後は噛み殺してしまう犬だ。それが、この怪蛇を見たとたん、前脚をふんばって立ち止まり、シッポを後ろ脚の間に巻き、声も立てずに怖がったのだ。その間に怪蛇は草の間に姿を消したが、森井さんも犬も後を追う気はしなかったそうだ。
昭和37(1962)年ごろ、河内の大久保富子さんは、ひと山越した山崎町上の上にある岩上神社の近くの草むらで、奇怪なヘビを目撃した。目の前を、太くて短い(約35センチ)ヘビが、立てた丸太を倒して縦に転がすような格好で、ドデンコドデンコと坂を転がっていった。
気味が悪かったが、石を投げつけると今度は坂を登りはじめた。その際、上半身を持ち上げ、こちらをにらんだという。登り方も奇怪だった。頭を中心に、身体全体を左右に振りながらゆっくり進んでいくのだ。そうして草の間に消えた。色は黒褐色。体に仕付け糸のような白い線があったそうだ。
昭和40(1965)年ごろだろうか。山田政吉さん(明治38年生まれ)は、7月初めの昼ごろ、その日の早朝に山に入ったばかりなのに、ぼんやりした様子で河呂の自宅に帰ってきた。奥さんが「気分でも悪いの?」と尋ねても返事がない。おかしいなと奥さんが思っていると、その夜、じつは恐ろしいものを見たと、話しだした。
カヤが生い茂った谷の底に降りる途中、長さ40センチほどで、ビール瓶くらいの太さのヘビが、先の大久保富子さんが見たものと同様、縦に転がって坂をすごい速さで降りていった。一瞬のことだったが、薄気味悪くなり、帰ってきたという。
このように千種町では、ツチノコの生態でもっとも不可解で不思議な動きが何度も目撃されていたのである。
いったい足を持たない太くて短いヘビのような体のツチノコは、どのような体の仕組みと動きで、真っすぐ直進したり、奇妙な転がり方をするのだろう。
通常ヘビは、腹部に並んだ幅の広いウロコ(腹板)を使い、体をくねらせて前に進む。これでは直進はもちろん、後退は絶対にできない。
だが、今回見たツチノコらしき死体は、腹部に腹板はなく、小さなウロコがびっしり並んでいた。もしかしたら、そのひとつひとつを細かく動かし、直進や後退、ジャンプなど多様な動きをするのだろうか?
これは、死体を見ただけではわからない。生きて捕獲されない限り、謎は解けないことだろう。
さて、千種町の歴史は古い。縄文遺跡も弥生遺跡もある。
また、一帯は古代から鉄の生産地として名高く、『播磨国風土記(はりまのくにふどき)』には「鉄生ず」とあり、千種鋼といわれ、わが国最良の鋼鉄の産地として知られていた。
鉄の神、金屋子神(かねやこのかみ)が最初に降臨した地が千種の岩野辺で、天児屋根命(あめのこやねのみこと)の末裔が製鉄を始めたという伝承もある。
また、かつて巨人・ダイダラボッチの足跡が残る巨岩が河呂にあったが、道路拡張の際に壊された。島谷の奥の栗尾には、元日に黄金の鳥が飛びたつという伝説がある。そのほか、大蛇の伝説も多く、実際につい最近までしばしば大蛇が目撃されていたという。
さらに千種町にはツチノコと思われる怪蛇・サメのいい伝えもあり、「サメとクマとトモヨリは、見ても見るな」と、昔からいわれてきたのだ。
サメは魔性を持つヘビで、トモヨリはヘビの交尾。これにクマを加えた3つは、見ても見たふりをするな、人に語るなというのである。サメとトモヨリは祟りがあり、クマは、見たふりさえしなければ何もせずに去っていく。そういう意味だそうだ。
このように神秘に包まれた千種町では、妖怪めいたツチノコも目撃されている。足があるツチノコだ。
昭和46(1971)年6月中旬の午後4時すぎ、河内の主婦、大上ゆくえさん(46歳)は、薪を背負い、三室渓谷の一の茅野をゆっくり降りてきた。
そのとき、なんとも気味の悪い生き物と遭遇した。
全長約33センチ。ビール瓶くらいの太さで、色もビール瓶のよう。背中に黒いシマがあり、頭は三角形で小さく、細い尾がちょこんとついていた。
そのヘビのような生き物には短い4本の足があり、それを使って、ピョンピョンと撥ねるように坂を登っていったのだ。
筆者は、このような生き物の目撃は、これまで聞いたことがない。千種町には、異界に通じる扉があり、ときおり異生物が現れては消えるのだろうか?
今回お会いした千種町の人々はみな、最近は山も里も景色が変わったという。ツチノコの目撃が多発したころは、山には広葉樹も多く、里には雑木林が多くあった。小動物も多くいて、ツチノコが生息しやすい環境だった。
それが今では、当時植林された杉が大きく育ち、杉の山ばかりになってしまった。棚田もほとんど休耕田となり、草が生い茂っている。雑木林も過疎化で荒れてしまっている。
それゆえ、ツチノコが目撃されなくなったというのだ。
とはいえ、昔ながらの自然も残っている。2001年に、偶然冬眠していたツチノコらしき生き物が捕獲されたが、1991年6月16日にも、ツチノコらしきヘビが千種町の隣町で目撃され、写真が撮影されていたのだ。
平瀬景一さんの友人が、波賀町(現在は宍粟市)の深山の林道の下で、午前10時ごろに発見。長さ60センチほどの太いヘビが、シマヘビをくわえていたという。葉に隠れて頭は見えず、シッポもよく見えなかったが、写真は数枚撮影できた。見ていると、スーッと穴の中に消えたという。
ただし、残念ながら撮影された方は、すでに亡くなっており、直接話を聞くことはできなかった。
このように、全国各地には、まだまだ表に出ていない目撃事件が数多くあることだろう。そうした埋もれた情報を探りながら、ツチノコが捕獲される日を待ちたい。
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