川崎競馬場は本当にパワースポットだった! 12月の全日本2歳優駿を楽しむムー的ポイントを魔術師・叶ここが解説
水のうねりを受け、大地のエネルギーが満ちる川崎競馬は、「UMA」も集うパワースポットなのである。
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その潜在的な霊能力は一級品である── 筆者がそう評する人物が、梨岡京美なしおかきょうみである。筆者は彼女と行動をともにし、その半生を『霊視の人』という本にまとめた。彼女の霊能力の一端をリアルタイムで見てきた筆者による貴重なドキュメントとともに、梨岡京美という知られざる霊能者の実像に迫ってみたい。
高知県安芸郡田野町に鎮座する鴻里三宝大荒神社。その奥宮の遷座式が、11月28日深夜3時から厳かに執り行われた。
代表を勤める梨岡京美斎主の先導のもと、拝殿・社務所などすべての照明が消され、ロウソクの焔だけが揺らめく仄暗い拝殿で、幣と燧石による潔斎、神拝、祝詞奏状が行われ、晒を巻いて光を遮断した天照大神・素戔嗚大神・三宝大荒神・天鈿女命・猿田彦命のご神体、ご神体を奉安する三宮、種々の神宝などが、新築された奥宮につつがなく奉遷された。
式典には総代4名と筆者が参列したが、式の開始からほどなく、梨岡斎主に唐突な神懸りがあり、主祭神である三宝大荒神の使者霊からのメッセージがあった。それは火神・三宝大荒神を核とする新たなムーブメントの幕開けを伝えるメッセージであり、霊媒斎主・梨岡京美の活動の第2幕を告げるメッセージでもあった。
目次
筆者は本誌で霊能者の列伝を連載させていただいている。それらの人々はいずれも故人であり、彼らが自身の霊能者や宗教家としての人生にどのようにケリをつけて逝ったか、そのあらましを知ることができる。けれども、現在57歳の梨岡京美(以下、筆者の常の呼び方である京さんという呼称で書かせていただく)は発展途上のさなかにあり、最終的なかたちは、現時点ではほとんど見えていない。そしてそうした発展途上の段階だからこそ、外部に身を置く筆者は、神仏と霊能者が織りなすドラマを、同じ時間の中でリアルにながめることのできる好機に与っている。筆者にとっては千載一遇の実例が、現在進行形で展開しているのだ。
京さんの潜在的な霊能力は、筆者の知るかぎり一級品だ。また、彼女の背後でさまざまな導きを行っている諸神霊の働きも強烈であり、幼少時代から今日に至るまで、みごとに一貫している。彼女を衝き動かしてきた背後神霊による諸事象の布石の巧みさ、現実と心霊的知見やメッセージとの驚異的なシンクロぶりには、否定することができない圧倒的なリアリティがある。
先に筆者は、『霊視の人』というタイトルで彼女の半生を書いた本を上梓した。それから数か月しかたっていないが、今の京さんは霊的な意味で、すでにそのときの京さんではない。そんな彼女を紹介する機会を、今回ムー編集部から与えてもらった。『霊視の人』を軸に、その後の出来事もふくめて筆を進めていきたい。
昭和39年7月、京さんは大阪府港区弁天町で生まれた。それからの人生は、過酷の一語に尽きる。出産時、彼女は産声もあげられない仮死状態で産み落とされ、すんでのところで一命をとりとめた。5、6歳時には父母の離婚があり、京さんは弟とともに高知県室戸市羽根町に暮らす父方の祖父母に引き取られた。祖父母との折り合いはきわめて悪く、彼女は自分という存在を祖父母に否定されつづけて育った。
一刻も早く祖父母の家から出たいという思いで、高校を卒業するとすぐ養豚業を営む梨岡照広さんと結婚したが、結婚生活も試練の連続で、挙式翌日から家業の手伝いや嫁の勤めに忙殺された。朝はまだ薄暗い4時半ころから起きだし、少ないときでも8人分の朝食を用意して送り出すという日課が始まった。生き物を扱う仕事だけに休みがないのはあたりまえで、朝から晩まで働きづめの日々が続いた。その間に子どもが3人生まれたので、育児の仕事も重なった。心身を磨り減らす日々が、延々と続いた。
当時のことを、後に離婚した夫の照広さんはこう回想する。
「『月に一回でいいから休みがほしい』と京美がいうがです。『そんなもん、とれるか』とはねつけたら、『半年に一回でいい』となり、そのうち『一年に一回でいいから』となった。結婚生活はそんな感じでした」
34歳のときには、実の父親と永訣した。自殺だった。
「父はやさしいけれど気の弱い、人に嫌といえない人でした。離婚してから人生がおかしくなったんでしょうね。高知の親元のところに帰ってきてからは孤独をまぎらわすために酒に溺れて、2度自殺未遂をし、3度目に自ら命を絶ちました。わたしも自分自身が心身ともにぎりぎりの状態で、とても父のことにまで気を回す余裕はなかった。父のいる実家にも帰らせてもらえず、お盆も正月もずっと梨岡家にいたので、父の様子も知りませんでした」
家事育児や相次ぐ試練は、持ち前の負けん気とガッツでまだしのぐことができたが、生まれながらの霊視・霊聴能力がもたらす霊障だけは、どうにもならなかった。彼女の意思とは無関係に死者の霊が寄り憑き、心身がボロボロになるまで彼女を苛みつづけた。
霊能はすでに少女時代から発現しており、人の死を予知したり、霊のささやきを耳にするなどの体験を重ねていた。そのため祖母からは「あんた何か憑いてる」「仏さん(死者)がどうたらいうな」と強く釘をさされて育ち、嫁ぎ先でも霊能を否定されて、長い抑圧の時を過ごした。
とはいえ、周囲がいかに否定しようとも、京さんにしがみつく霊の抱える苦しみは、そのままダイレクトに彼女の肉体に再現される。この現象は梨岡家に嫁ぐ前から始まっていた。
結婚前、梨岡家に挨拶に行き、居間の長押に飾られている照広さんの祖父の遺影を見たとたん、京さんは「首が痛い、首が痛い」と激しく悶え苦しみだした。また、叔母の遺影を見たときは「胸が痛い、胸が痛い」と苦悶した。照広さんが振り返る。
「京美が『おじいさんはどうやって亡くなった?』とか『おばさんは?』と聞くがですよ。それが一週間ほど続きました。そのときは、『こいつ何をいっちょるんじゃ』ち思って取り合わなかった。たしかに祖父は、山仕事からの帰り道で坂から転げ落ちて、首の骨を折って亡くなってます。叔母は心筋梗塞でした。でも僕は、京美がそのことをだれかから聞いて、いい出したんじゃち思ってました。もともと僕は目に見えないものは信じないたちじゃき、霊がどうのこうのという発想はまったくありませんでした」
けれども憑依現象は、止むどころかますます激しさを増していった。照広さんが友人宅に初めて京さんを連れていったとき、ふと母屋の居間の遺影を見た京さんが、にわかに苦しみ出した。
「突然、『息ができん』いうて今にも死にそうな苦しみようで、僕の目の前で悶えている。何も話しておらんけ彼女は知らんのじゃが、京美が目にした遺影の主というのは、餅をのどに詰まらせて窒息死しておるんです。遺影を見ただけで、その人の末期の苦しみが京美の身に移ったわけです。こういうことが、ちょくちょくありました。それで僕も否定しきれず、とうとう信じざるをえなくなったんです」
このころの京さんは、心霊や宗教の知識はゼロであり、自分に何が起こっているのか、なぜ死者の姿がリアルに見え、声が聞こえるのか、どうすれば霊障から逃れられるのかなどは皆目わからなかった。他の人にはないらしい自分の不思議で煩わしい能力が、ただただうとましかった。そんな無防備の丸裸状態で、霊の訴えをわが身に受けるだけの絶望的な日々が、延々と続いた。当時のことを、京さんはこう振り返る。
「たとえばだれか知らない人の家に行くでしょ。家を見たら、ほんとうに辛いんですよ。その家の仏さんが一方的に全部わたしにくるから。首が動かないとか、痛いとか、苦しいとか。その苦しさが半端ないんです。仕事上、車を運転しなければならないのに、首が動かない。目だけ左右に動かして運転しているから、危険きわまりない。体がバリバリに固まって、冷凍室に入ったみたいな感じが続いて、痛くて座って食事もできない……」
そのうち、食にも異変が起きるようになった。
「25歳ころから、いきなり肉を受けつけなくなりました。食べると吐く。全身にワッと蕁麻疹が出る。体が肉を拒絶する。あちこち病院で診てもらいました。でも、さっぱり原因がわからない。あるお医者さんには『気のせい』とまでいわれました。こんなの診断でもなんでもない。当時、わたし、自分の頭は大丈夫だろうかってすごく不安でした。神経がおかしくなる手前で、もう身も心もズタズタでした」
医者がだめならと、藁にもすがる思いで鍼灸や漢方にも頼ったが、結果は同じだった。そんな中、わずかの光明となったのが、看護師の友人から紹介されて訪ねていった奈半利町に住む女性の老霊媒の存在だった。
老霊媒は、京さんを見るなり「あんた、なぜ結婚した」と詰問口調でいった。「恋愛して結婚したんです」と答えると、「あんたは結婚すべきじゃなかった。あんたはこちらの世界で人助けせないかん人だ。けど、今あんたがこの道に入ったら家庭が崩壊する。仕方がない。40歳になるまで力を封印しておく。あんたは40からこちらの世界に入りなさい」といって京さんを後ろ向きにさせ、背後から何らかの術を施した。
30分ほど後、老霊媒は、「これだったら大丈夫じゃろ」と告げた。半信半疑で家にもどったが、不思議なことに、この日を境に京さんは霊視現象からはほぼ解放された。けれども霊の障りはそうではなかった。体にくる負担が半分ほどに軽減されたとはいうものの、依然として彼女を悩ませつづけた。
いつ抜け出せるか見当もつかない暗闇の中で、京さんは妻として、子を持つ母として、養豚場の経営を支える裏方として、馬車馬のように働き通した。そうして40歳を迎えた年、唐突に霊視現象が甦ったのである。
封印されていた霊視が再発して以降、京さんは死者の霊の姿はもちろん、その人が亡くなったときの細部にまでわたるリアルな状況、過去の因縁、遠隔地の情景や他人の家の中の様子、映像化された歴史上の出来事などをありありと見るようになり、さらには神仏、龍神や霊狐などの自然霊の姿もはっきり認めるようになった。
けれども霊視能力がより高いレベルで再発したということは、同時により強烈な霊障が再発することをも意味している。本人にその自覚はなかったが、かつて奈半利町の老霊媒が予言した「こちらの世界での人助け」のための訓練に、いよいよ本格的に入っていくことになったのである。
「霊視が再発した40歳からの3、4年間は、心身が以前よりはるかに辛く苦しい時期でした。わたしが見えないものが見えるとか、仏さん(死者霊)の声が聞けるといった話が口伝てで広まって、次から次へと相談が押し寄せるようになったんです。断るのは気の毒だから、しかたなく相談に乗る。でも会っただけで、その人が背負っている〝負のもの〟が全部こっちにくるんですよ。
そのころのわたしは、負を引き寄せる磁石みたいなものです。『ああ最悪、この人また仏さん連れてきてる』と内心で思いながら話を聞き、相談に乗っていました。わたし自身はできるものなら関わりたくないし、見たくもなかった。でも、関わるしかなかった」(京さん)
次から次へと押し寄せてくる「負のもの」や、それらがもたらす霊障から逃れたい一心で、それまで関心もなかった神社や寺、霊媒、修験者などのもとにも訪れた。この時点で、京さんは天照大神すら知らなかった。それほど宗教に対しては無関心だった。彼女を突き動かした直接的な動機は霊障だったが、その背後には、彼女にさまざまな体験を積ませて神仏の世界に導こうと働いている神霊の存在があった。
この時期、京さんは西日本では最高峰の霊場として知られる石鎚山も、行者らと一緒に巡っている。このとき霊視の利くある行者から、「あんた、どれだけ仏さんをつけてるのや」と呆れられた。たった階段一段分の高さに足を上げることもできないほどガチガチに硬直した肉体をひきずっての苦行そのものの登拝だったが、こうして出会ったその道のプロたちも、京さんを救い出すことはできなかった。救いは、彼女自身が無意識に「こちらの世界での人助け」を了承したときに訪れた。
「どこに行っても何をやってもダメ。納得のいく答えは、だれからももらえなかった。そのうちまともに動けなくなるまでに体調が悪化して、このまま死ぬのかと思い詰め、切羽詰まった最後の最後に、ふと、『ああ、もう最悪。しゃあない。もうこの道に入るわ』といったんです。無意識に言葉が出た。そうしたら、不思議なことにぴたっと痛みが止まりました」
これがすべての始まりだった。この日を境に、京さんの周囲に、それとは気づかないまま彼女を導く役割を担った人々──その中には何人もの反面教師もいた──が、次々と現れるようになった。
そのうちでも、最も重大な役割を担ったのが、安芸郡芸西村の長谷地蔵尊住職の末富教海師だった。この住職も強い霊視霊能の持主で、長谷地蔵尊は祈禱寺として知られていた。
44歳のときに初めて訪れたこの寺で、京さんはいきなり本尊地蔵尊の姿を霊視し、教示をいただくという希有の体験をした。さらには初対面の住職の来歴や、彼に寺を譲った先代住職のことまで霊視霊聴のままに語りだし、当初「この子は精神系の病気で幻視や幻聴が出ているだけだろう」と思っていた住職を、有無をいわせず納得させた。末富住職が語る。
「話していて、ああ、この子は精神系じゃなくて本物で見えているんだとわかりました。わたしらの世界では、行者や坊さんらを合わせて、『見える』のは女なら千人にひとり、男は一万人にひとりといわれております。自分で『見える』という者はたくさんおるが、本物はそうそういるものではない。でも、梨岡先生は本物でした」
住職との出会いで、京さんは初めて霊能をコントロールしたり、霊障を封じるなどの霊術の世界に導かれた。修験の九字切り、結界の結護など、それまで無縁だった術法が、乾いた砂に水が染みこむようなスピードで彼女の中に浸透していった。
「同じことを教えても、できる人とできん人がいるんです。いくら本を読み、修行をしたって、できん者はできん。ところがこの人は、こうやるんだと教えただけでできてしまう。元々その力を生まれながらに持っていたら、結界でも教えただけでパンパン張れるんです。並の行者は、血のにじむような修行をして、ようやく張れるようになるんだが、生まれ持った才能のある天才は、いともたやすく張ります。梨岡先生はその部類です。だからわしは、この人には『修行する必要はない』といっている。わしらのような凡人は、修行しなきゃだめだがね」(末富住職)
これ以後、京さんの世界は飛躍的に広がっていく。神縁に導かれて、当時無住の神社となっていた鴻里三宝大荒神社に照広さんらと参拝に出かけ、社務所で先代宮司・龍田福太郎さんの霊と対面したのが41歳。その後、神社への奉仕を始める一方、個人的な心霊相談のために日本各地を訪れ、神縁に導かれて各地の霊山霊域を歴訪するなど、「この道」のプロとして猛烈な勢いで場数を踏んでいった。
その間にも、霊視霊聴能力はますます研ぎ澄まされ、初めてぶつかった心霊問題も、現場で神霊からどうすればよいのかの教えを授かって対処できるようになるなど、その能力は日増しに強く大きくなっていった。そうして、この道に専念するために選んだ離婚(47歳)、拠点を高知から東京に移しての活動の開始、神に引っぱられて了承するほかなくなった三宝大荒神社の代表就任(53歳)と、めまぐるしく事態が進展し、その直後には肉体上の大禊ぎと思われるガンの発症と手術を乗り越えて、本格的な神社の再建に取り組み、今に至るのである。
その後の展開も、急ピッチだ。ひとつのことを終えると、もう次の課題が降りてくる。そうした場面に、筆者もしばしば同席している。神霊のメッセージがいきなり降りて、極めて具体的に次の課題が示されるのである。
中でも山岳霊場からの呼び出しはすごい。ここ数か月の間に、京さんは熊野三山の奥宮とされる玉置山、吉野山、大峰、三輪山、鞍馬山、筑波山、笠間の愛宕山、日光諸山、秋葉山、高尾山などの諸山を巡っている。そのすべてに筆者も同行しており、霊域で神霊と感応して語り出す京さんの言葉をじかに聞き、記録している。
その間には、数々の霊示も降りているし、不可思議な現象もある。京さんの感度は研ぎ澄まされており、驚かされることもしばしばだ。一例を挙げると、仙童寅吉が修行したことで知られる笠間の愛宕山頂上近くにある十三天狗の祠で、京さんは突然、唱え言が聞こえるといいだした。ひとりやふたりの声ではないという。何をいっているのか尋ねると、「よくわからないけど、オン・テング・ヒラヒラ・ソワカとかなんとかいっているみたい。ヒラヒラなんとか」と答え、霊視中によく見せる表情でじっと声に耳を傾けた。
京さんは真言そのものをほとんど知らないし、筆者もその時点では何の真言かわからなかった。そこで帰宅してから調べたところ、京さんが聞いた真言は、秋葉山の天狗(秋葉三尺坊大権現)の真言「オン・ヒラヒラ・ケンヒラケンノウ・ソワカ」だと判明した。(ヒラヒラはピラピラとも唱える)
これはほんの一例で、取材中には何体もの龍神、山神、弁才天、不動明王などの神々が示現しており、役小角の神霊から受け取っているメッセージもある。この件は京さんの今後の課題と関係しており、霊山巡りの際に守護し、導きをしてくださっている高級山人神(三宝荒神ではない)とも関わる秘事なので、いまここで書くことはできないが、とにかく京さんの身辺は、凄まじい勢いで動いているのである。
この動きを根っこで支えてくださっている鴻里三宝大荒神社の奥宮が、冒頭で述べたように落慶し、遷座も無事に終えた。機会があれば、今後の展開をご報告させていただきたい。
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