われわれの脳や記憶は宇宙の“揺らぎ”が生み出した泡沫にすぎない!? 「ボルツマン脳」議論の現在地

文=仲田しんじ

    われわれはその年齢に応じて人生経験を積み、相応の記憶を蓄積している。しかし、驚くべきことに先鋭的な思考実験では、われわれの脳や記憶は泡沫のように偶然に生まれてはすぐに跡形もなく消え去る「ボルツマン脳」であるという。ことが提唱されている。我々の脳このボルツマン脳であるとすれば記憶と意識は何の根拠もないランダムな副産物に過ぎないのだ――。

    宇宙の“ゆらぎ”が脳を生み出す!?

     製造現場の各種生産ラインにおいて、不良やエラーを完全に無くすことはできないとされている。理論上はエラーが起こり得ない設定だったとしても、それを実際にゼロにすることは極めて困難なのだ。

     高精度な生産現場で起きたエラーはむしろ希少価値となるケースもあり、たとえば印刷ズレがある切手や紙幣は、コレクターの間で極めて高額で取引されている。

     おそらくいくつもの偶然が重なって生じるエラーなのだが、一部の理論物理学者の間では、この“いくつもの偶然の重なり”は、熱平衡状態で生じる“ゆらぎ”によるものと考えられている。つまり、この宇宙もきわめて稀にではあるがエラーを発生させることがあるというのだ。

     そしてこの宇宙の“ゆらぎ”が一時的に“脳”を生み出し、その場限りのランダムな記憶を持って瞬時に消える、という思考実験は「ボルツマン脳」と呼ばれる。基礎となる理論の提唱者であるオーストリアの物理学者ルートヴィッヒ・ボルツマン(1844~1906)にちなんで名付けられた。

    ※ルートヴィッヒ・ボルツマン 画像は「Wikipedia」より

    熱力学第二法則と過去仮説

     あまりにも大胆な仮説である「ボルツマン脳」だが、そのベースにあるのは次の2つの理論だ。

     1つは「熱力学第二法則(エントロピーの法則)」で、外部とのエネルギーのやり取りがない断熱された系では、系のエントロピーが減ることはなく、不可逆な自発的変化により増大する一方であるという法則である。

     たとえば、室温20度のテープルに置かれたコップに氷を入れておくと、いずれは溶けて水温20度の水になる。さらにその水は徐々に蒸発して、室内の20度の空気の一部にもなる。この場合、氷のエントロピーが増大したと説明される。

     もう1つは「過去仮説」である。これは熱力学や宇宙論において、なぜ時間は過去から未来へと一方向に流れるのか、その“時間の矢”を説明するための物理学的仮説である。

     過去仮説では、宇宙の初期状態(ビッグバン直後)は極めて低いエントロピーであったと定義しており、その後のエントロピーの増大によって時間が流れていると考える。部屋のコップに当てはめるならば、入れた氷が溶け、さらには気化するまでは一方向へ時間が経過していると解釈される。

     これらを踏まえてボルツマン脳では、きわめて長い時間存在しているこの宇宙では、エントロピーのランダムな変動である“ゆらぎ”によって時折、高度に組織化された構造が生み出されると考える。しかも原理的には、そこには詳細な記憶や知覚を備えた脳のように複雑な構造まで含まれるというのだ。

     そして、われわれの脳がそのようにして生まれたならば、各自が一貫性のある過去として経験した(ように信じている)ものは、もはや現実ではなくなるという。記憶や観察といった複雑な構造は、実際の過去の正確な記録ではなく、宇宙の“揺らぎ”がもたらすエントロピーの変動からランダムに生じたものである可能性の方が高くなるのだ。これこそがボルツマン脳仮説の中核であり、脳が泡沫のような儚いものであるという論拠となっているのである。

    ChiaJoによるPixabayからの画像

    時間の経過と変化には因果関係が無い

     われわれの脳に秘められた記憶は、確固たる人生経験によって培われたものではなく、水面に浮いては消える泡のようなものなのだろうか。

     米サンタフェ研究所(SFI)の教授であるデイビッド・ウォルパート氏、同研究所のフラクタル研究員であるカルロ・ロヴェッリ氏、そして物理学者のジョーダン・シャーンホルスト氏が昨年12月に学術誌「Entropy」で発表した研究では、1世紀以上にわたって物理学者を悩ませてきた「ボルツマン脳」仮説を再検討するものだ。

     まず研究チームは、熱力学第二法則および過去仮説が、時間と依存し合っていることを検証する枠組みを構築。そして「エントロピー予想」と呼ぶ理論を基に、この分野におけるほとんどの議論が、巧妙な循環論法に基づいていることを指摘した。過去に関する仮定が、記憶の信頼性やエントロピーの方向性といった結論を正当化するために用いられ、さらにその同じ結論が、元の仮定を支持するために用いられているというのだ。

    Kohji AsakawaによるPixabayからの画像

     研究チームは今回、これらの議論に決着をつけようとするのではなく、議論の構造を明確にすることに重点を置いている。物理法則と、それらを解釈する際の選択を区別することで、時間とエントロピーに関する長年の疑問を、より透明性の高い基盤のもとで検証しようと試みているのだ。研究チームの主張によれば、時間の経過と変化には因果関係は無く、切り離して考えるべきであるという。

     はたしてわれわれの脳は「ボルツマン脳」なのか。個々の人生経験も記憶も、すべては偶然の産物なのだろうか。感覚的に理解することは困難なテーマではあるが、最先端の科学がわれわれのこれまでの世界観と人間観を大きく揺るがしていることは間違いない。

    ※参考動画 YouTubeチャンネル「Robinson’s Podcast Clips」より

    【参考】
    https://scitechdaily.com/what-if-your-memories-never-happened-physicists-take-a-new-look-at-the-boltzmann-brain-paradox/

    仲田しんじ

    場末の酒場の片隅を好む都会の孤独な思索者でフリーライター。興味本位で考察と執筆の範囲を拡大中。
    ツイッター https://twitter.com/nakata66shinji

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