SF少年からジャーナリスト、そして超常現象分野の道を歩んだ異端のUFO研究家ジョン・A・キールの基礎知識

文=羽仁礼

関連キーワード:

    毎回、「ムー」的な視点から、世界中にあふれる不可思議な事象や謎めいた事件を振り返っていくムーペディア。 今回は、優れた文才を発揮して多彩な作品を残すとともに、UFOや超常現象を追いつづけた研究家を取りあげる。

    世界の神秘に魅せられペンで身を立てた少年

     ジョン・アルヴァ・キール(1930〜2009)はアメリカのUFO研究家で、1966年から翌年にかけて、ウェストヴァージニア州ポイントプレザントで起きたモスマン事件に関する調査を行ったことで知られている。
     また、UFO研究家の前に現れる謎の黒衣の男たちを「メン・イン・ブラック」と呼んだのもキールである。
     一方、彼はUFOや超常現象に関するものだけでなく、生涯多くの雑誌や新聞にさまざまな内容の記事を寄稿し、詩や脚本から、テレビやラジオの台本、小説まで、あらゆる種類の文章を書き残している。

    アメリカのUFO研究家ジョン・キール(1930〜2009)。膨大な数の資料にあたる調査方法でUFOや超常現象事件を調べ、数多くの著作を残している。

     キールは1930年3月25日、ニューヨーク州ホーネルに生まれた。父ハリー・エリー・キールは、ナイトクラブやバーで演奏する小さな楽団の指揮者兼歌手をしていたが、楽譜を読むのが苦手だったため、折からの世界恐慌の中で解雇されてしまい、その後両親は離婚、幼いキールは祖父母の家で育つ。
     子どものころは手品に夢中で、物心がつくかつかぬころから隣近所の人を集めて手品を実演して見せ、学友からはアメリカの有名な奇術師ハリー・フーディニ(1874〜1926)にちなんで「フーディニ」とあだなをつけられた。
     ところが10歳のとき、母親の再婚先であるニューヨーク州ペリーの農場に引きとられ、畑を耕し、干し草を作るなどの農作業を手伝う田舎暮らしになった。

    田舎暮らしの中で、キールは職業作家を夢見る少年時代を送った。

     しかし、キールの魂は、遠い地平線の彼方にあるインドやエジプトといったまだ見ぬ異国の神秘に引き寄せられて、農作業には身が入らず、学校では図書館で、雨の日には乾草小屋で、魔術や催眠術、腹話術、黒魔術などの本やSF雑誌を読みふけっていた。そして、こうした退屈な田舎暮らしの中で唯一心の慰めとなったのは、愛犬のティピーだけだった。
     だが、キール少年はそんな生活の中でも自分を表現する手段を求め、村役場から謄写版を借りて「道化師」というタイトルでガリ版刷りの印刷物を発行しはじめると、14歳にして地方週刊誌「ペリー・ヘラルド」に記事を掲載するようになった。

    キールが「ペリー・ヘラルド」に寄稿していたコラム記事。

     やがてキールは職業作家を夢見るようになり、図書館に通ってあらゆる本を読破しつつ、ニューヨークの雑誌に詩や小説を投稿しはじめるようになった。
     1947年、16歳のときに愛犬ティピーが死ぬと、わずかな荷物を持って家を出た。所持金は75セントしかなかったが、ニューヨークまで600キロの道のりを2日間ヒッチハイクしてたどり着き、当時アーティストの巣窟となっていたグリニッジ・ヴィレッジの一角に住んだ。
     ニューヨークでは「アメリカの詩人」や「ライムライト」をはじめとするいくつかの雑誌や新聞に記事を書き、ラジオ番組にも脚本を提供するなど、あらゆる雑文を書き散らし、文筆家として少しは注目されるようにもなった。

    ニューヨークに移り住んだキールは、文筆で生計を立てはじめた。写真は19歳のころ、オフィスの外で撮ったもの。

    番組制作がきっかけで風変わりな冒険旅行へ

     1950年に朝鮮戦争が始まると、キールも翌年兵役に取られ、西ドイツのフランクフルトに派遣された。
     フランクフルトでは文筆業の経歴が注目されたのか、アメリカ軍向けのラジオ番組を制作する部署に配属され、UFOを扱った番組を作ったり、近隣のフランケンシュタイン城から、今でいうフェイク・ドキュメンタリー風の放送を行ったりもした。

    兵役で西ドイツに行く際、軍服姿で祖母と撮影した1枚。
    タイプライターに向かうキール。フランクフルトで、軍向けのラジオ番組制作に携わるようになった。

     このフランケンシュタイン城からの放送が評判になり、脚本部長に抜擢されると、以後ヨーロッパ各地を訪問してドキュメンタリー番組を制作した。
     そして、1953年10月、万聖節前夜の特別番組を作るため、エジプトのカイロを訪れたことがキールにとって転機となった。このとき、自身も演者のひとりとして、ピラミッドの中から中継を行ったキールの心に、子ども時代に抱いた、まだ見ぬ世界の神秘への憧れが甦ったのだ。

    ドキュメンタリー番組で、自ら出演者となったキール。写真はピラミッドから出てくるところ(写真=YouTubeより)。

     こうしてキールは1954年に軍を辞め、3年間のあてのない旅に出た。旅費は、行く先々での体験を男性誌に記事として売り込んでまかなったが、原稿料の送金が遅れ、ほとんど一文無しになることもしばしばで、命の危険にも何度か遭遇した。
     まずはナセル革命直後のエジプトのカイロにアパートを借りると、奇妙な話や人物を探しているというアメリカ人の噂はすぐに広がり、神通力の持ち主や自称予言者、聖者、ヘビつかい、魔術師など、怪しげな人々が彼のアパートに大勢押しかけるようになった。
     こうして集まった人物のつてを利用して、生きたヘビを食べる、頬に刀を刺すといったパフォーマンスを行うリファーイー教団の集会に参加したり、死体を盗んでミイラを作っている工場にも潜入した。アスワンを訪れたときには、自らUFOを目撃している。
     エジプトでネタが尽きると、アレキサンドリアから船でベイルートに渡り、そこから陸路でイラクを訪問、悪魔教徒ともいわれるヤジード教徒の聖地にも滞在した。
     続いて訪れたインドではヘビつかいの技術を学び、ロープ魔術や千里眼、水上歩行など、自称聖者たちが見せるさまざまなトリックの種をつきとめ、チベットにも足を伸ばしてイエティらしき奇妙な動物も目撃した。
     アジア大陸を横断するこの冒険旅行は、シンガポールからヨーロッパへ強制送還されて終わりを迎えるが、ニューヨークに戻った1957年、この放浪記を『ジャドウ』として出版する。
     その内容は、のちのキールの著作に比べるとかなり現実的で、聖者や魔術師が行うトリックをいくつも暴露する一方、手品が得意なキールにも説明できない事例についてはそのように書いている。

    3年におよぶ冒険旅行をまとめた初の著書『ジャドウ』。

    綿密なUFO研究から見いだされた独自説

     ニューヨークでは再び文筆業に戻り、今度は大手の新聞や雑誌「プレイボーイ」にも定期的に記事を書くようになった。
     ほかにも、百科事典に科学記事を書いたり、「それ行けスマート」をはじめ、いくつかのテレビ番組に台本を提供するなど、文筆家としてかなり活躍したが、その内容はコメディや男性向けピンク小説など、UFOや超常現象とは関係のないものが多いようだ。

    ニューヨークに戻ったキールは、ジャーナリスト、作家として本格的に活動を始めた。

     キールが本格的にUFO研究に乗りだすのは1966年からである。「プレイボーイ」誌の依頼でUFO事件の調査に乗りだすと、いくつもの新聞の切り抜きサービスを依頼するようになる。以後40年以上の間に2000冊以上の本や数千冊の雑誌を参照し、各地で何千人もの関係者と対面したという。

    1966年11月15日に起きた、謎の蛾人間UMAモスマンの目撃事件を報じる新聞記事。
    目撃者の男性が描いたモスマンのスケッチ。キールはこの事件を詳細に調べたことで有名になった。
    モスマン事件の詳細から、怪電話や脅迫状といった妨害、そしてのちに起こる橋の崩壊事故までを詳述したドキュメント『モスマンの黙示』。


     当初は他の研究家と同様、キールも「UFOは他の天体から来た宇宙人の乗り物だ」という、いわゆる「地球外仮説」を支持していた。
     しかし、新聞の片隅に掲載される小さな事件や、まともな研究家ならあり得ないとして無視するようなハイ・ストレンジネス事例まで手当たり次第に参照し、大勢の関係者と面談するうちに、キールはあることに気づいた。
     まず、UFOのような現象は現代に特有のものではなく、古代からずっと報告されつづけてきたということだ。
     謎の生物の出現や心霊現象、悪魔や妖精の目撃など、他の超常現象とUFOとの間に似通った特徴があること、さらにUFOの目撃者や搭乗員とコンタクトした者たちが、人格の堕落や悪夢、幻覚などといった悪魔憑きにも似た症状に悩まされ、その周囲でポルターガイストが発生することも発見した。
     キール自身も何回も説明不能な体験をした結果、彼は1年も経たないうちに地球外仮説を捨て、「超地球人説」という独自の説を唱えるようになった。この説が本格的に示されたのは、1970年の著書『UFO超地球人説』においてである。

    ↑キールが本格的に自身の「超地球人説」を主張した『UFO超地球人説』。

    UFOや超常現象の陰で暗躍する「超地球人」

     では、キールにいわせると、UFO現象とは何であり、その背後にいる「超地球人」とは何者なのだろう。
     キールによれば、UFOの実体は物質ではなく一種のエネルギー体であり、周波数が違うため普段は人間の目には見えないが、自由に可視化でき、しかも望むままの姿をとることができるという。
     そして、このUFO現象を背後で操っているのが超地球人というわけだが、この超地球人については、キールも断片的な記述を繰り返すのみである。

    ↑キールによれば、あらゆる超常現象の背後には、人類以前から地球にいたという「超地球人」の存在があるという(©rolffimages)。

     それらをつなぎ合わせると、彼らは人類がこの地球に現れる前から地球にいた先住民であり、地球で人類と共存してはいるが、人類の時間軸とは異なる部分に住んでいるため、その存在は認識できない。だが、彼らは自在に人間世界に侵入でき、その際は望むままの姿をとって、人間の思考や知覚を操ることさえできるらしい。
     しかも、彼らはUFOだけでなく、悪魔や心霊現象、その他あらゆる超常現象の背後におり、さらには人類の歴史を陰で操って暗躍してきた存在であるらしい。ただしキールは、彼らの最終目標については明らかにしていない。
     以後キールは、UFOや超常現象に関する著書を何冊か著しているが、それらはいずれもこの超地球人説に基づいて書かれている。

    UFOや超常現象の研究に没頭するキールを取り囲む異星人たちのイラスト。キール自身がUFOの調査活動中に圧力をかけられた謎の男たち=「メン・イン・ブラック」の姿も見られる。

     また、キールは地球外仮説に固執する研究家を辛辣に批判し、攻撃するようになったが、批判された他の研究家からすれば、キールは何でも信じてしまう偏執狂で、詐欺と真実の区別がつかない人物、ということになる。
     当然、他の多くの研究家との関係は悪化し、かつて親交のあった者たちとも決別することになった。
     しかし、意見の一致する一部の者とはずっと交流を保っており、2009年7月3日、心臓発作で死去するまで、「国際フォート機関」の顧問を務めていた。
     キールのいう超地球人説は、超地球人なる存在を仮定することで、すべての超常現象を包括的に説明できると同時に、一種の壮大な「超陰謀論」ともいえるが、キールとほぼ同時期に、フランスのジャック・ヴァレ(1939〜)も似たような説を唱えている。
     ふたりの説は特にヨーロッパの研究家に大きな影響を残しており、ユーフォロジー(UFO研究)の新潮流ともなっている。

    ↑キール(右)の超地球人説と同じような説を主張するフランスのUFO研究家ジャック・ヴァレ(左)。

    ●参考資料=『ジャドウ』(ジョン・キール著/光文社)、『UFO超地球人説』(ジョン・A・キール著/早川書房)、『UFO手帳6.0』(Spファイル友の会)

    羽仁 礼

    ノンフィクション作家。中東、魔術、占星術などを中心に幅広く執筆。
    ASIOS(超常現象の懐疑的調査のための会)創設会員、一般社団法人 超常現象情報研究センター主任研究員。

    関連記事

    おすすめ記事