「一刻も早く取りに来てくれ!」古物商が田中俊行に託した「行者の遺品」怪談/吉田悠軌・怪談連鎖
怪談師たちが収集した珠玉の怪異を、オカルト探偵・吉田悠軌が考察する「怪談連鎖」。今月は〝呪物〟が山積みされたあのオカルトコレクター宅を直撃!
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音楽の授業で習ったり、子供たちの遊戯で歌われる童謡やわらべ歌。その優しく、穏やかなメロディを耳にすると、子供のころの思い出が甦り、つい口ずさんでしまうという人も多いだろう。しかし、何気なく歌っているその歌詞には、実は思いもよらない真意や暗喩が潜んでいた。たわいのない歌詞の裏に隠された本当の意味とは?
「通りゃんせ」「しゃぼん玉」「かごめかごめ」「花いちもんめ」「めだかの学校」「ちょうちょう」……など、長らく歌い継がれてきた童謡やわらべ歌には、優しくてたおやかな調べがある。
幼きころに口ずさんだそれらの歌は日本の原風景を想起させるようで、郷愁を誘わずにはおかない。電子ゲームに夢中の現代の子供たちの多くも歌詞を知っており、無邪気に歌っている。

だが、何気なく歌っている童謡やわらべ歌の裏に隠された真の意味を探ると、慄然とせざるをえないときがある。
たとえば「通りゃんせ」。
♪通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの細道じゃ
天神さまの細道じゃ
ちょっと通してくだしゃんせ
ご用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つのお祝いに
お札を納めに参ります
行きはよいよい 帰りは怖い
怖いながらも
通りゃんせ 通りゃんせ
このわらべ歌の発祥地は埼玉県川越市に鎮座する三芳野神社とされ、次のような伝承がある。
──その昔、三芳野神社の参道にはしばしば山賊が出没した。参拝者が「通してください」と頼むと、山賊は「用のない者は通せぬ」と拒んだので、「この子の七つのお祝いにお札を納めに参ります」と「ご用」を話すと通してくれた。だが、お札を納めて帰路についた参拝者に掠奪行為を働いたので、「行きはよいよい、帰りは怖い」思いをした。
7歳になった子供をお札とともに天神様へ連れていく際の人身御供(ひとみごくう)の歌だったとする説もある。天神様の領域には生け贄の子供しか入れず、用のない大人は入れなかった。だから、子供には「行き」はあっても「帰り」はなかったという解釈だ。
別の説もあり、飢餓に喘(あえ)いだ親の子殺しの歌ともいわれる。大旱魃(かんばつ)時、わが子を飢え死にさせるのなら、いっそ親の手で殺してしまおうと考えた者も少なくなかった。天神社で殺せば、天神様がわが子を極楽へ導いてくれるというわけで、「行き」は「逝き」、「帰り」は「甦り(黄泉帰り)」を意味するという。


その当否はひとまずおくとして、ここでは山上智が主張する驚くべき解釈を紹介したい。
天神様とは周知のように、平安時代に生きた菅原道真のこと。出世を重ね、醍醐天皇の昌泰2年(899)、右大臣に昇った。だが、左大臣・藤原時平が嫉(ねた)み、道真には天皇廃立の志がある、と讒言(ざんげん)したため、大宰権帥(だざいのごんのそち)として九州へ左遷され、2年後、望郷の思いを抱きながら任地で病歿(びょうぼつ)した。
直後から、道真の怨霊が京で大暴れしはじめた。たとえば、延長8年(930)6月に清涼殿への落雷事件が起こり、同年9月には醍醐天皇が崩御したため、人々は道真の怨霊の仕業である、と恐れおののいた。
そこで、道真の魂鎮(たましず)めをして怨霊を封じるべく、京都北野に祠を建てて天満天神と称した。のちの北野天満宮である。


この祟りをなす怨霊=道真=天神という図式にこそ「通りゃんせ」の歌詞の秘密を解く鍵がある、という。
アプローチする際のキーワードは「七つのお祝い」。易学の八卦(はっけ)によれば、「七(月)」は「坤(こん・南西)」の方角をさす。それが「行き」の方角であり、「帰り」は逆方角の「艮(ごん・北東)」になる。
陰陽道では、艮は鬼や魔物が出入りする「鬼門(きもん)」として万事に忌み嫌われる。だから「行きはよいよい、帰りは怖い」のだ。

山上はまた、「七」に仏教の視座を持ち込む。7は仏教の聖数であり、故人に対して生者は7日ごとに7回の法要を執り行う。つまり、「七つのお祝い」とは、死者が無事に三途(さんず)の川の渡し場にたどり着いた「初七日のお祝い」だった、というのだ。
「細道」は死者のみがたどる死出の旅路。なればこそ、「ご用のないもの(生者)」は「通しゃせぬ」のである。
しかも山上よると、死んだのは7歳の女の子だという。「七五三」における7歳は女の子の祝いであり、本来ならお札をもらいに行かなければならない。にもかかわらず「この子の七つのお祝いに、お札を納めに参ります」、すなわち誕生時にもらったお札は子供が死んでしまって用ずみになったのでお返しする、ということなのだ。
山上は「しゃぼん玉」の歌詞についても独特の解釈をし、呪いの歌だと断じている。
♪しゃぼん玉飛んだ(①)
屋根まで飛んだ(②)
屋根まで飛んで(③)
壊れて消えた(④)
風 風 吹くな(⑤)
しゃぼん玉飛ばそ(⑥)
作詞者は野口雨情。わが子の死後、悲歎のうちに作詞したもので、だから「壊れて消えた」という言葉が用いられたといい、「しゃぼん玉」は死者の魂を意味しているともいわれるが、山上はもっと大胆な解釈をする。
「しゃぼん」=沙門(しゃもん・坊主)/「玉」=魂/「屋根」=野根=野辺の頂=埋葬場の頂上/「風」=風習や習わし/「吹くな」=復くな(戻ってくるな)と書き換え、この歌の意味を次のように解する。
①坊主の魂が飛んだ
②山の上にある墓場まで飛んだ
③山の上にある墓場まで飛んで
④粉々になって消えた
⑤そのような風習や習わしは、元に戻ってくるな
⑥でも、坊主の魂を飛ばそう
なんとも恐ろしい雰囲気が漂ってくるが、山上はさらに密教の「真言(しんごん)」という神秘思想を援用して、驚くべき仮説を提示している。
歌詞のなかの濁点文字を順番に拾い出すと、①~③は「ぼ(ん)・だ・だ・で・だ・で・で」の7文字、④~⑥は「ぜ・ぜ・ぼ(ん)・だ・ば」の5文字になる。
こうした七五調の文字は真言の特徴であり、これに仏典に頻出する漢字を当てはめると次のようになる。
①~③=「梵・陀・陀・出・陀・弟・出」
④~⑥=「是・是・梵・陀・婆」
これらの漢字には、次のような意味がある。
「梵」=梵語のことで、仏や釈迦を意味する。
「陀」=まじない、呪文。
「出」=追い払う、出てくる。
「弟」=劣る、身分の低い者。
「是」=これ、ここ、この。
「婆」=娑婆(しゃば)の略語。さまよっている。
すなわち、①~③は「仏の唱えるまじないや呪文が出てくる。呪文は劣っている者を追い払う」となり、④~⑥は「これ、ここに仏の呪文によってさまよっている」となる。
それが「しゃぼん玉」の歌に隠された呪文の言葉だというのだ。

ほかにも、童謡やわらべ歌の歌詞に恐るべき秘密が封じ込められているケースは多い。
日本人なら知らない者はいないはずの「かごめかごめ」も謎めいたわらべ歌の代表だろう。
♪かごめ かごめ
籠の中の鳥は
いついつ出やる
夜明けの晩に
鶴と亀とすべった(つっぺった)
後ろの正面だあれ
鬼役の子が目を塞いでしゃがみ、そのぐるりをほかの子供たちが取り囲んで「かごめかごめ」と歌いながら回り、立ち止まったところで、鬼役の後ろ側に立った子の名を当てる、という遊戯に興じたことがある人も少なくないはずだ。
あまりにもポピュラーではあるが、しかし歌詞が具体的に何を意味しているのか判然としない。
「籠の中の鳥は」閉じ込められているのか。「夜明けの晩」という矛盾は何を意味するのか。「鶴と亀」が何の脈絡も登場するのはなぜか。「後ろの正面」をなぜ推理しなければならないのか……。
いくつもの謎が浮上してくるだけに、その解釈については諸説が唱えられている。
たとえば民俗学者・柳田國男は、「かごめ」は遊戯の動作である「屈(かが)め」が転じたものだとし、「かごめ=かもめ」の連想から「籠の中の鳥」以下の歌詞が誘発されて生まれた、と説いた。その後の研究者の支持も多く、最も一般的な見解である。

江戸時代の黄表紙『かごめかごめ籠の中の鳥』は異説を唱える。
「かごめ」は「籠女」で、「籠の中」で暗喩される遊郭へ身売りされた娘が、身請けされて「いついつ出やる」(解放される)のだろうか、と案じた歌だとしている。
そこから敷衍(ふえん)されたものと思われるが、「鳥」と「鶴」は遊女を意味し、遊女が脱走して逃げている途中で転び、身ごもっていた胎児が流産した(「すべった」)歌、すなわち流産にまつわる悲劇や水子の祟りを暗示しているとする無気味な解釈もなされている。
同じ系統の解釈に、「籠の中の鳥」を胎児、「いついつ出やる」を出産、「夜明けの晩に鶴と亀とすべった」を流産とする説もある。
インターネットの世界には、まったく別の解釈もある。「籠の中の鳥」は犯罪者、「いついつ出やる」をいつ釈放されるか、「夜明けの晩」は二度と陽の目をみることのないこと、「鶴と亀とすべった」は鶴亀に象徴される長寿の逆の意で死、「後ろの正面」は犯罪者の後ろに立つ首切り役人を、それぞれ意味しているという。
東雅夫は呪文説を唱え、「籠の中の鳥」はウブメ(産褥で死んだ女が化すという鳥。赤子そっくりの泣き声をあげて飛翔し、小児を害する)ではないかとして、次のように解釈する。
──「夜明けの晩」や「後ろの正面」という相矛盾する表現はありえない状況を意味しており、「鶴と亀とすべった」も物事が不首尾になる比喩であり、否定の語句を連ねることにより、「籠の中の鳥(ウブメ)」が「出やる」ことを無効にする、あるいは阻止しようとする呪文である。

これらとはまったく異質の大胆な解釈もある。1991年に日本テレビ系列で放映された「謎学の旅/驚異の暗号歌!『かごめかごめ』」で提示された仮説がそれだ。
かごめ歌を、徳川幕府草創期に黒衣の宰相として辣腕を振るった天海僧正が日光東照宮に仕かけた壮大な風水呪術と関連づけて解釈したもので、かごめ歌は徳川埋蔵金の隠し場所を示す暗号歌だと主張したのである。
「籠の中の鳥」は鳥=金鶏=黄金の象徴を閉じ込めておく場所を意味し、金鶏は太陽の象徴でもあるので、太陽の名を冠して神として祀られた徳川家康と日光東照宮に着目。そして東照宮を飾る多数の彫刻群の中にかごめ歌に共通する意匠を探索した結果、東照宮と周辺の山々を結ぶ「籠目」を発見。その中心点となる「内の籠」という土地を黄金の埋蔵場所と断定し、地底探査を行ったのだが、残念ながら、埋蔵金の発見には至らなかった。



また『かごめ歌の暗号──わらべ遊びに隠された古代史の闇』(東京書籍)を著した関裕二は、「かごめ」は神聖な神や巫女が乗る籠の目、「籠の中の鳥」は豊受大神(とようけのおおかみ)に代表される鳥巫女、「鶴と亀とすべった」は鳥巫女が敗れたことを意味するとし、古代ヤマトの権力闘争の陰に秘められた哀史に焦点を当て、興味深い論を展開している。
ただ、紙幅の関係でこれ以上に紹介する余裕はないので、詳しくは同書に譲り、以下、別の童謡やわらべ歌に封印された真の意味を簡単に紹介しておこう。
♪開いた開いた
何の花が開いた
蓮華の花が開いた
開いたと思ったら
いつの間にかつぼんだ
童心あふれるわらべ歌だと思うかもしれないが、じつはそうではない。
「蓮華の花は開いた」は蓮華往生のことで、極楽浄土に生まれる、すなわち極楽浄土の入り口が開いたことを意味する。「いつの間にか」は「いつの間」と「にか」に分離して、「にか」はにゅうかん(入棺)の略。「つぼむ」は「すぼむ」と同義で「閉じる」の意。つまり右の歌を意訳するとこうなるのだ。
開いた開いた
何の入り口が開いた
極楽浄土の入り口が開いた
入り口が開いたと思っていたら
いつの間にか入棺して入り口が閉じてしまった
「ちょうちょう」はどうか。この歌にも、同様に裏がある。
♪ちょうちょう ちょうちょう
菜の葉にとまれ
菜の葉にあいたら
桜にとまれ
桜の花から花へ
とまれよ 遊べ
遊べよ とまれ
「ちょうちょう(蝶)」は浮気癖のある男性、「菜の葉」と「桜の花」は遊女や浮気相手の女性を意味する。浮気癖のある男性の妻が、幼い子供たちに「あなたの父親はこんな父親なのよ」と、蝶に例えて歌って聞かせた怨み節なのである。
童謡やわらべ歌をたわいのない子供向けの歌謡と侮(あなど)るなかれ。その歌詞の多くは暗喩であり、背後には意外な真意が隠されているのである。
●参考資料=『かごめ歌の暗号』(関裕二著/東京書籍)、「童謡『かごめかごめ』の秘密」(東雅夫/「ムー」233号所収)、「童謡『かごめ』と徳川家発祥の隠れ里」(東雅夫/「ムー」236号所収)、「『しゃぼん玉』を口ずさむと呪われる!?」(山上智/「ムー」250号所収)ほか
(月刊ムー 2010年11月号初出)
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