黄金の観音像が鎮める「首塚」の秘史/東京地霊スポット案内・円通寺
江戸の鬼門には何がある?そこにはミステリアスな「首塚」と、謎多き秘仏が眠っていた! 東京の異界を巡るシリーズ記事、3回目は江戸の辺縁を探る旅。
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大都会東京に残る、謎めく土地の歴史をたどる「地霊スポット案内」。4回目は江戸幕府をも震撼させたあの大事件の痕跡を追う!
「地霊」とは、その土地に残存する(かもしれない)霊的な存在のみならず、土地に染みついた記憶を伝え、その原点となる物語を宿し、ときに秘めやかに残され、ときに畏怖すべき対象として浮上する「場」が醸し出すナニモノかを言いあらわしたワードです。
本書『東京異界めぐり』(本田不二雄 著。駒草出版 刊)で掲載した東京の地霊スポットから注目すべき「場」をご案内する本稿の第四回は、お江戸を騒然とさせた事件の舞台で、禁足地のごとく封印されたいわくつきの現場です。

さて、今回中央義士会の柿崎理事長にご案内を願ったのは理由がありました。赤穂義士のもうひとつの聖地を詣でるためです。
その参道は、義士らの墓所がある泉岳寺の山門脇から高輪中学校・高校の敷地に挟まれた場所に延びる、細い路地でした。ここに通う中高生か近隣の住民しか通らないであろうその道はやがて急な上り坂になり、二本榎通りにぶつかります。正面には高輪皇族邸、その西隣には集合住宅(都営高輪一丁目アパート)。その背後の高松中学校とあわせ、この広大な土地は、かつて熊本藩細川家下屋敷でした。
都営アパートの入口にこんな石碑があります。
「大石良雄等自刃ノ跡」
一般にはあまり知られていない秘めやかな〃聖地〃がこの奥にありました。

筆者がその場所を知ったのは5、6年前。高輪を散策中、ふいに都営アパート裏にある「大石内蔵助外十六人忠烈の跡」に行き当たったのです。
忠烈の跡とは要するに、仇討ちのすえ切腹に処せられた現場のことで、このコンクリートの塀に囲まれた一画がそれのようです。堅牢な扉には覗き窓がありますが、見るとそこは何もない場所でした。あるといえば、庭石のようなものがいくつかあるだけ。
歴史的現場であることはわかりますが、忠魂碑といったモニュメントではなく、場と空間がそっくり保存され、塀に囲まれて、禁足地のような形で残されている。
ここはどうしてそんなことになっているのか。寡聞にして筆者はそんな場所をほかに知りません。ともあれ、掲げられた以下の文言が否応なしに目に入ってきます。
「赤穂義士史蹟碑
正義を愛し名節を重んじる者は暫くここに歩を停めよ
此処は徳川時代細川邸の跡 実に赤穂義士の総帥大石良雄等十七名が元禄十六年二月四日壮烈な死を遂げた現場である」
ざっと補足しましょう。
元禄15年(1702)12月14日の深更、大石内蔵助(良雄)ほか47人(いわゆる四十七士)は、主君・赤穂藩主浅野内匠頭の仇を討つために本所にある因縁の相手、吉良上野介邸を急襲。翌朝、吉良の首級を白衣に包んで槍の先にくくり付け、全員で高輪泉岳寺にある主君・浅野長矩の墓前へと向かいました。世に知られた「忠臣蔵」赤穂浪士(義士)の討ち入りです。
そして彼らの身柄は、刑の執行が決まるまで近隣の大名四家の預かりとなりましたが、うちトップの大石はじめ、もっとも多い浪士を受け入れたのが細川家でした。
「ほかの三家(松平・毛利・水野家)が前例のない事態に困って、浪士らの食事はどうするか、大小便や切った爪の扱いはどうするかなど実に細かいことまで公儀にお伺いを立てるなか、大大名で浅野家とソリの合う間柄だった細川家の当主・綱利は、みずから彼らを迎え、殿様と同じ食事を彼らに与え、手紙を出してもお咎めなし。逆に浪士らから食事の贅沢はやめてくれとの苦情が出たという話まで残っています」(柿崎氏)
仇討ちに対し、江戸城内で刃傷沙汰を起こされ、重要な儀礼を台無しにされた五代将軍徳川綱吉は激怒したといいますが、柿崎氏によれば、報告を受けた幕閣らの反応はおおむね浪士らに好意的で、老中筆頭の阿部忠秋は「かかる忠節の士を出したる事、昭代(太平の世)のしるしと存ずる」と誉め、居合わせた一同も同意の様子だったといわれます(『正史 元禄赤穂事件』)。
細川綱利も同感だったのでしょう。というより、すっかり感銘を受けていたようです。
とはいえ、公儀の裁きが免じられるはずもなく、2月4日を迎えます。
柿崎氏はこの場で、持参した「大石内藏介等賜死之真図」すなわち切腹の場面を描いた絵図を広げて見せてくれました。この現場にいた者が作成した図をもとに絵師が描いたもので、人や物の配置から切腹の段取りに至るまで正確かつ詳細に描写された俯瞰図です。
画面中央には今まさに切腹におよばんとする大石内蔵介と介錯人。
帳の向かいには先導者につづき腹心の吉田忠左衛門が介錯人とともに入場。奥の間には残り15人が控えています。手前には処刑執行のたびに敷き替えられる畳と撒き砂が積まれ、左の大書院には目付役や検死の使者、家老の使いなどが居並び、その様子を凝視しています。図の左上には「細川候モ此の杉戸ノ内ヨリ内見スト云(細川綱利も杉戸の内側をこっそり覗いていたらしい)」の文字も見えます。


柿崎氏が扉の鍵を開けてわれわれを招き入れました。
「入ると明らかに空気が変わります。いかがですか?」と柿崎氏。
カメラのファインダーを覗いていた私が答えられずにいると、同行した担当の勝浦氏が「確かに……そうですね」とひと言。
「イベントや取材など、機会があるたびにここを案内しています。で、この真ん中の石には1メートル以上は近づかないようにと言うんだけど、だめなんだ。テレビの取材のときなんか10人ぐらいカメラクルーやスタッフがいると、必ず誰かが吸い込まれるように近づいて、だいたいコケて怪我をする」(柿崎氏)

その四角く平たい石は大石らが切腹した跡に置かれたもの。「切腹した場所は、大書院舞台側、大書院上の間の前庭で、背後に池を背負った地」(「案内板)とされ、まさに絵図に描かれたその現場をあらわしています。
その石はで、かつて墓の台座だったといい、ほかの石も供養塔の残滓(角が丸くなり刻銘が消滅した石)と言われていますが、詳細はよくわかりません。

なお、屋敷の当主・細川綱利は、「血で染まった庭を清めるための使者が訪れた際も、『彼らは細川家の守り神である』として断り、反対する家臣達にも庭を終世そのままで残すように命じ」たといわれています(ウィキペディア「細川綱利」の項)。
ただし、綱利の遺命は十分果たされたとはいえず、のち綱利直系の血脈も絶えて、浪士の遺髪をいただいて建立されたという墓も供養の施設も破却されてしまったそうです。
それでも「場」は残り、明治に至るのですが、引き続き「この石には触るな」として石の周囲は木枠などで囲われ、タブー(禁忌)は保たれたようです。「細川邸跡がたまたま東京都(府)の管理になって売買されなかったのも大きかった」と柿崎氏。
事実、切腹の現場になったほかの三家の場合、松平家(元伊予松山藩主)の屋敷は松方公爵邸を経てイタリア大使館となり、旧毛利・水野家の敷地は跡形もなくなりました。
その間、赤穂四十七士の歴史的評価にかかわるある画期が訪れました。
明治元年(一八六八)、大政奉還によって明治天皇が江戸城(皇居)に入ってまもなく、帝は泉岳寺に勅使を派遣し、大石内蔵助の墓前で勅宣を読み上げました。
「汝良雄等(なんじよしおら)固ク主従ノ義ヲ執リ 仇ヲ復シ法ニ死ス……」
以下意訳すると、「このことは多くの民に感動感激を与え、私(帝)もそのように思う。今東京にいるので権辨事(ごんべんじ)藤原獻を遣使して汝等の墓を弔い且(かつ)金幣(きんぺい)を賜う。明治元年戊辰十一月五日」
当時の若き明治天皇も、実は四十七士の義挙に感動したひとりでした。結果、この勅宣により、大石内蔵助良雄らの名誉回復が図られたのです。
「この日を境に、これまで罪人だった赤穂浪士は『義士』になりました」(柿崎氏)
「正義を愛し名節を重んじる者は暫くここに歩を停めよ」
柿崎氏ら中央義士会の方々に導かれ、この場に立ち入った人たちのなかには、「涙を流す人、祈りを捧げる人、ほかには落ちていた葉っぱを持ち帰っていいかと訊ねる人もおられた。写真も撮ってもいいよと言うんですが、その半分は遠慮されますね」と柿崎氏。
「あと、先ほどの坂を恨めしそうな顔で上っていた人も、戻るときには深々と首を垂れていかれます」
ここにコンクリートの塀と鉄の扉が設けられたのは昭和35年(1960)。「財団法人中央義士会と東京都で(管理を)きちっとやりましょう」(柿崎氏)ということになり、現状に至っているとのこと。ですから、ある意味ここは昭和の戦後につくられたものともいえます。
氏の話では、ここは禁足地でも何でもなく、できるだけ多くの人を案内したいとのことですが、その畏敬の思いからか、ある種の禁忌は保たれています。また出入りした人たちの反応を聞けば、場の呪力のようなものを思わずにはいられません。
「ここに歩を停め」て考えをめぐらせます。
赤穂義士の行動は、その動機や思想、方法論、あるいはその評価についても、当時の武家社会の論理や倫理の枠内にとどまっているといえます。ですから、時代や社会が変われば共感しづらいことも当然あるでしょう。しかしいかなるときも、人はあんがい時代の空気に縛られ、自由ではいられません。そこで「義」に殉じるか、利得や保身を選ぶか、今この時代においても選択に迫られることは起こり得ます。
生命を賭して義をまっとうする。これは他から強制されるべきものではないでしょうが、内心の自由としてはありでしょう。もちろん利得や保身を選ぶよりはるかに困難なことですが、結果として人間としてありえない選択であればあるほど、善悪を越えて人の心を震わせることにもなります。
それとは別に、場の呪力が理屈抜きに人を引き寄せることもあるかもしれません。ここはそういう場だと筆者は思います。ですから「近づきすぎてはいけない」のだと。
なお、筆者は「大石内蔵助外十六人忠烈の跡」を泉岳寺墓所の〃奥の院〃と呼んでいます。奥の院はしばしば信仰の発生源であり、秘めやかに祀られている場所を指しますが、ここはそういう場だと考えると個人的にはしっくりくるのです。

本田不二雄
ノンフィクションライター、神仏探偵あるいは神木探偵の異名でも知られる。神社や仏像など、日本の神仏世界の魅力を伝える書籍・雑誌の編集制作に携わる。
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