芝公園の裏に八臂の弁財天が座す!「松蓮社弁天窟」/東京地霊スポット案内

文・写真=本田不二雄

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    東京の知られざる聖地を訪ね、「地霊」の記憶を呼び起こす! 今回の旅はその名もミステリアスな「裏芝」へ。

    東京の「地霊」を訪ねるミステリートラベルへ!

    「地霊」とは、その土地に残存する(かもしれない)霊的な存在のみならず、土地に染みついた記憶を伝え、その原点となる物語を宿し、ときに秘めやかに残され、ときに畏怖すべき対象として浮上する「場」が醸し出すナニモノかを言いあらわしたワードです。

     本書『東京異界めぐり』(12月23日発売、本田不二雄 著。駒草出版 刊)は、東京の11エリアから、その土地に潜む地霊スポットを探索し、案内する内容ですが、そのなかから選りすぐりの「場」を紹介する本連載の第2回は、都心に残された謎めく洞窟です。
     では、さっそく参りましょう。

    「東京異界めぐり」(本田不二雄・著)/税込み1980円/駒草出版
    https://www.amazon.co.jp/dp/4909646876/

    別次元に紛れ込んだ? 「裏芝」異空間

    「裏芝」。実はそんな地名はないのですが、これから巡るエリアを特徴づける言葉として用いることにします。

     あえていえば、地図表記にいう「港区芝公園」にすっぽり収まる地域のうち、日比谷通りの以西に位置する芝公園および増上寺を仮に「オモテの芝」と呼んだ場合の「ウラ」に相当する場所。ウラといってもどこからが表でどこから裏かは曖昧ですが、大ざっぱに「芝公園のウラのほうにある不思議スポット」が点在するエリアを「裏芝」と総称したい。そんなニュアンスでご理解ください。

     起点は都営地下鉄三田線の「御成門」駅。そこから神谷町方面に3分ほど歩き、最初の交差点にある歩道橋を渡ると、左側に小さな「松蓮社」の表札が見えます。神社とも寺とも思えない中の様子に二の足を踏みそうですが、月に2日、1日と17日は入って参詣することが許されています。では、木造の家屋の脇をすり抜け、その奥に進みましょう。

     いくぶん不法侵入っぽいドキドキ感を覚えつつ進むと、崖のような場所に行き着き、視線の先にぽっかり洞窟が口を開いています。

     知る人ぞ知る芝公園の洞窟霊場「松蓮社弁天祠(窟)」です。

    弁天洞窟入口。右脇には腰まで埋まった童子像(持物などは地蔵菩薩ふう)と水盤。

     説明版には「八方・八陣 勝利弁財天」として、こう書かれています。 

    「本弁財天を祀る松蓮社は、徳川家菩提寺である三縁山増上寺の境内地であったこの地に、三代将軍家光公の長女・千代姫様の位牌殿として元禄12年(1699)に建立された。千代姫は尾張徳川家に嫁ぎ生涯弁財天を信仰、徳川家の繁栄を願った(以下省略)」

     以下、洞窟内の弁財天像についての説明がつづきますが、これはどうやら松蓮社の由来を語るもので、洞窟霊場の説明ではなさそうです。

     ではここは何なのか。入口手前には懐中電灯がふたつ置かれ、右脇には意味深に微笑む童子風の石像と、石をくりぬいた水盤。

     何はともあれ、洞窟の中に入ってみましょう。

     入ってまもなく、受付のモギリのような石仏が右の壁面にあらわれますが、会釈しつつ先に進みます。人が窮屈にすれ違うほどの幅に、背丈ギリギリの洞窟がつづきます。途中、封鎖された分岐がありますが、そこは何なのかと思う余裕もなく、狭い真っ暗闇の隧道はただただ人を不安にさせます。都会の真ん中にこんなものがあるとは……別次元の世界に入りこんでしまったような錯覚を覚えつつ(実際はさほどの距離ではないのですが)、灯火の先に本尊が見えてきました。

     石に半肉彫りされた八臂(八つの腕をもつ)弁財天像です。

    洞窟奥にあらわれた弁財天の石祠。

    御利益は出征者守護と「小遣銭に困らぬ」財運

     手前には新しい花が供えられており、ここが確かに祈りの場であるのがわかります。何と秘めやかな聖地でしょう。じんわり感動を覚えつつ、弁財天の真言「オン・ソラソバテイエイ・ソワカ」を唱えて合掌拝礼。場を後にします。

     八臂の弁天像といえば、頭上に人頭蛇身の宇賀神を戴く像容(宇賀弁財天)を思い浮かべますが、そうではなく、あらためて案内板を読むと、「飛鳥時代に伝来した金光明経に基づく八臂(腕)の坐像」とあり、それぞれの腕に「弓、羂索、戟、長杵、矢、鉄輪(法輪)、斧、刀という古代インドに源がある武器を持つ」と書かれています。

     その像例はあまり見かけませんが、江戸時代の仏画集『仏像図彙』に「金光明辨天」とあるのがそれで、その原典は『金光明最勝王経?こんこうみょうさいしょうおうきょう』という奈良時代に重んじられた護国経典の「大弁才天女品?ほん」にあり、一般に知られた弁才(財)天とは異なる鎮護国家の戦神(いくさがみ)としてのお姿が強調されています。

    八臂の弁財天(「金光明辨天」)像。
    『仏像図彙』(元禄三年版)に所収の「金光明辨天」。

     それにしても、なぜこのような秘めやかな洞窟霊場がつくられ、本像が祀られたのか。その理由が気になります。

     情報が乏しいなか、手当たり次第にネット検索をしていくと、「洞窟の辨財天 愛宕山の故臼井哲夫邸内に 有難や利驗の数々」と見出しされた昭和12年(1937)の朝日新聞の記事がヒットしました。

     それによると、松蓮社はかつて臼井哲夫という人物(明治から大正期に代議士を務めた)が住居にしており、記事の当時はその未亡人「しん刀自〈69歳〉」(刀自は婦人への敬称)がひとり、「毎朝五時に起きてこの弁天様に水をあげるお勤めを欠かさ」ず、洞窟霊場を守っていたことを伝えています。

     記事では、「伝え語られる霊験奇瑞は著しいものがある」として、しん刀自に洞窟内を案内してもらっているのですが、その後半にはこんなことが書かれていました。

    「祠には文化九年の文字が彫つてあるから百四、五十年以上のものであることは想像出來るが記録がないのでその他は一切判らぬといふ。一日と十七日の開帳にお詣りする人は多く軍人、株屋、役者に水稼業の人も少なくないといふ。御利益は出征者守護と『毎月の小遣銭に困らぬ』といふ事と聞く、これから大いに参詣しようと思った」

     奥の祠には「文化九年」(1812)の記銘があるものの、それ以外のことは不明。8つの腕に武具をもつ”勝利弁財天”ゆえに「出征者守護」のご利益で知られ、財運の御利益スポットとしても人気。そして、現在と同じく1日と17日にご開帳とのことです。

     少しずつ、洞窟霊場のありようが見えてきました。

    「朝日新聞」昭和十二年七月一○日付の記事より。

    洞窟の掘られた年代が判明!

     弁財天祠の造立が「文化九年」(筆者は未確認)だったとして、それがなぜ洞窟の奥に祀られなければならなかったのか、なおそんな疑問が残ります。ややもやもやした感覚を抱きながら捜索を進めると、今度は「東京市役所編纂 東京市史稿 遊園篇第五」(昭和8年)という資料に行き当たりました。

     これは、戦前まであった東京市の、特に公園になどの設置に関する公文書なのですが、そこに「松蓮社後庭公開事蹟」というタグがあり、明治11年(1868)5月31日に松蓮社住職と芝区(当時)戸長の連名で、松蓮社の後庭を一般に公開することを市に願い出、市がそれを受理したという内容で、そこにはこう書かれていました。

    「右松蓮社旧境内地のうち、山の頂より伊豆や相模および北関東などの八国をはるかに見渡し、その麓に去る嘉永六年(一八五三)五月、先住職の龍禪の代に入口幅四尺(1.2メートル)あまり、高さおよそ六尺(1.8メートル)、奥行二十二間(約40メートル)あまりの巌を穿いて洞を開き、石像の辨天を据置いたところは、山頂および麓の洞窟とも公園の一景にふさわしく、ついては広く衆人に縦覧せしめたく、速やかに御聞届きますよう」(原文意訳)

     つまり、弁天洞窟は「嘉永六年五月」に当時の住職・龍禪が「巌を穿いて洞を開き、石像の辨天を据置いた」ものだったというのです。

     話を整理しましょう。江戸の前期、増上寺の境内地に三代将軍家光公の息女・千代姫の菩提を祀る松蓮社が建てられ、江戸後期の文化年代には石造の弁財天祠が造立、幕末の嘉永になって洞窟霊場が開かれた。

     つまり、松蓮社が建てられた113年後に「金光明辨天」が造立され、さらにその41年後に洞窟が掘られたということになります。

     これら乏しい情報だけで何かを語るのは難しいのですが、洞窟が掘られた嘉永6年に着目すると、この年にペリー提督が率いる艦隊が浦賀沖にあらわれ、日本各地では相次いで大地震が発生していました。

     大政奉還によって徳川将軍家による幕藩体制が終焉を迎える14年前。ここから時代は一気に動くことになりますが、そんな時期に、徳川将軍家の守護仏を奉じる増上寺の関係者が、「勝利弁財天」という「鎮護国家の戦神」を奉じて洞窟に掘り進め、中に籠って祈りを凝らしていた――それだけは確かなことのようです。

     ところでなぜ、洞窟という場が選ばれ、そこに弁財天が祀られたのでしょう。

     というのも、そのような場(いわゆる「穴弁天」と呼ばれるスポット)はほかにもあり、東京だけでも数か所が知られています。それぞれの場は個別の由緒によって生じたもので、必ずしも関連しているわけではないのですが、穴(洞窟/岩屋)と女天(水神/蛇神)というモチーフは、日本人の宗教観に深く根差したもので、ときにわれわれは、そのような場と結縁することを強く求めてきたのです。

     ともあれ、かつて松蓮社裏の高台は、現在愛宕神社のある愛宕山からつづく「山」で、関八州(関東地方)を見晴らす景勝地でした。今はそんな風情はカケラも感じさせませんが、その麓に位置するここだけは、江戸幕末から変わらず崖面に真っ暗な穴を開き、民家風の建物にカモフラージュされながらも有縁の人たちを招き入れているのです。(了)

    本田不二雄

    ノンフィクションライター、神仏探偵あるいは神木探偵の異名でも知られる。神社や仏像など、日本の神仏世界の魅力を伝える書籍・雑誌の編集制作に携わる。

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