「小豆とぎ橋」怪談現場の普門院に残された「子供の手形」の怪/小泉八雲の怪談現場・松江

文・写真=田辺青蛙

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    小泉八雲ゆかりの松江には、奇妙な手形が残された寺院がある。

    松江・普門院と小豆とぎ橋と幽霊の手形

     松江市の堀川の静かな流れる川辺に、天台宗松高山普門院がある。
     普門院の起源は、慶長12年(1607)から16年(1611)にかけて松江城が築かれた時代にさかのぼる。開基は松江藩初代藩主・堀尾吉晴、開山は賢清上人。

     当初は松江城の祈願所として、島根郡市成村(現・松江市西川津町)に「松高山願応寺」として建立され、豊国神社(祭神・豊臣秀吉)とともに香華料として三百石が与えられた。
     吉晴は豊臣政権下で功を挙げた武将であり、晩年は徳川政権下にあっても豊臣秀吉への信仰を捨てなかった。願応寺の創建には、そうした吉晴の信仰と祈りが込められていたと考えられる。

    普門院

     寛永15年(1638)、松平直政が信州松本より松江に入封し、松江藩の新たな時代が始まる。
     その後、普門院は寺町の大火により焼失するが、松平綱近の時代(元禄2年・1689)に現在の北田町へ移転した。
     城下の北東、すなわち鬼門にあたる方角に寺を置くことで、城の守護と国家安泰を祈る「鎮護の道場」とされた。この配置は風水的思想にも基づくもので、普門院は松江城の精神的な防壁としての役割を担っていたのだろうと考えられる。

    松江藩初代藩主・堀尾吉晴木像(国立国会図書館デジタルコレクション)。

    松平不昧公と観月庵 ― 茶の湯の心と風雅

     普門院の境内にある茶室「観月庵」は、享和元年(1801)に建てられた茶室である。
    松江藩七代藩主・松平不昧(ふまい)公は「茶の湯殿様」とも称されるほどの大名茶人であり、たびたびこの庵を訪れたと伝わる。
     庵に至る庭には心字池が配され、宍道湖のしじみ舟の板を天井材に用いた「腰掛待合」など、藩政期の茶の湯文化を今に伝える貴重な遺構が残る。

    普門院観月庵

     二畳隅炉の本席の東には、天井まで開け放たれた大きな窓がある。
     不昧公はここに座し、障子を開け放って東の空に昇る月を眺めるのを好んだという。池に映る“もう一つの月”とともに観賞する趣向から、「観月庵」の名が付けられた。
     この風雅な空間は、松江が誇る“茶の湯の町”の精神的原点のひとつとも言える。

     ここに小泉八雲と島根尋常中学校の同僚で、通訳も務めていた西田千太郎が普門院の住職から怪談を聞いた話が伝わっている。

     その怪談とは、「小豆とぎ橋の伝説」と呼ばれる話だった。

    小豆とぎ橋伝説 ― 橋に棲む女の怨霊

     普門院の北側には、かつて「小豆とぎ橋」と呼ばれる小さな橋があった。
     夜になると橋の下で女の幽霊が小豆を洗う音が聞こえるといい、「小豆とぎ婆」「小豆とぎ女」として恐れられていた。
     この幽霊は「杜若(かきつばた)」という謡曲を歌うと怒り、歌った者に災いをもたらすと伝えられた。

     ある侍がその迷信をあざけり、橋を渡りながら謡を口ずさんだ。
     何も起こらぬまま家に帰ると、門前に美しい女中が立っており、漆塗りの文箱を差し出した。
     箱を開けると中には血まみれの子供の首が入っており、家に飛び込むと、我が子が本当に斬られていたという。
     松江ではこの恐ろしい話が「小豆とぎ橋の祟り」として語り継がれている。

     この伝承は、古代説話集『今昔物語集』に見られる「美濃国紀遠助、値女霊遂死語」に類似している。そこでは、美濃国の男・紀遠助が瀬田の橋で女から箱を受け取り、開けると人の目玉と男根が入っていたという。
     この女は嫉妬の女神「橋姫」とされ、橋上で女の嫉妬を題材にした謡曲をうたうと祟りが起こると伝えられた。小豆とぎ橋の女も、橋姫の系譜に連なる存在だったのかもしれない。

     謡曲「杜若」は、在原業平の恋の和歌をめぐる物語であり、「唐衣着つつなれにし妻しあれば──」と詠まれる。
     恋の歌が嫉妬の神を怒らせたのか、それとも橋の精霊が人の慢心を罰したのかは定かではない。だが、「なぜ怒るのか分からない」不気味さこそが、この話をより深く人々の記憶に刻みつけてきた。

    橋姫(画像=Wikipediaより)。

    新左衛門稲荷の伝承 ― 信州から来た守護の神

     普門院にはもうひとつ、松江の町を護る不思議な伝承がある。
     それが「新左衛門稲荷さん」と呼ばれる稲荷信仰の物語である。

     松平直政が松江に入府した寛永15年頃、信州出身の浪人・新左衛門という男が普門院に日参していた。
     ある日、城内の囲碁名人・市原次郎左衛門と対局し、一目差で勝利を収めた。その後も何度対局しても新左衛門が勝ち続け、和尚は不思議に思ったという。

     やがてある夜、直政の夢に若侍が現れ、「私は信州松本の稲荷新左衛門。殿の身を陰ながら護衛しております」と語った。
     翌朝、城に報せを受けた和尚が普門院を調べると、確かに新左衛門が参詣を続けていたという。
     その後、若侍の姿は再び直政の前に現れ、白い碁石を残して消えた。
    和尚はそれを見て、「やはりあの浪人は神狐、新左衛門稲荷のお使いであったか」と悟ったという。

     直政はこれを神の顕現と信じ、普門院境内に稲荷社を建立。
     この社は明治の神仏分離令の際に仏式祭祀から分離され、明治3年(1870)に再び普門院の鎮守社として遷座され、現在も「新左衛門稲荷大明神」として祀られている。

    山門の手形と足跡

     今、普門院の山門には、いつの頃からか「幽霊の手形と足跡」が浮かび上がっている。
     地元の人の話によると、1970年頃から確認できるというこの痕は、誰がいつつけたものか分からない。

     最初は足跡だけが確認出来、ここ最近は足跡が消えて手形……しかも大きさからして子供の手形がくっきり浮かび上がって見えるようになっている。

    浮かび上がる手形

     大工さんがうっかり付けてしまった、手形なのでは? と、いう声もある。
     だが、大きさが子供のサイズであることや、山門の裏となる場所に子供の足跡が付けられた事情や、それが消えた後に新たに手形が浮かび上がって来たという経緯が謎で、しかも手形は日によって数や位置が違って見えたという声も聞いた。

     地域では「小豆とぎ橋の女の霊が残したもの」との噂もあり、今も恐る恐るその跡を見に訪れる人が絶えない。

     当時の橋自体はすでに失われたが、堀川遊覧船の航路の途中、普門院橋を渡ると、当時の面影を思わせる静けさが残る。
     観月庵の月を映す池と、幽霊の伝説が交錯するこの地には、松江という城下町が抱える「光と影」の記憶が息づいている。

    小泉八雲(国立国会図書館デジタルコレクション)。

    参考サイト:松江市普門院公式サイト

    田辺青蛙

    ホラー・怪談作家。怪談イベントなどにも出演するプレーヤーでもある。

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