怪僧グリゴリー・ラスプーチンの基礎知識 ロマノフ王朝を操り、帝政ロシアの崩壊を予言した男/羽仁礼・ムーペディア

文=羽仁礼 

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    毎回、「ムー」的な視点から、世界中にあふれる不可思議な事象や謎めいた事件を振り返っていくムーペディア。 今回は、皇帝夫妻の寵愛を受けて国政を操り、やがて帝国に崩壊をもたらした、ロシア史上類を見ない怪人物を取りあげる。

    名もなき少年の人生を決定づけた謎の力と宗教

     グリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチン(?〜1916)といえば、帝政ロシア(ロシア帝国)のロマノフ王朝最後の皇帝であるニコライ2世とアレクサンドラ皇后に取り入って国政を私物化し、遂にはロシア革命による崩壊をもたらした怪人物というイメージが広まっている。
     長い髪に、もじゃもじゃの髭を無造作に生やし、他人の心を見透かすような鋭い目に黒い衣装をまとった細身の肖像は、見るからにまがまがしい雰囲気を湛え、酒好きで淫乱という世評もあって「破戒僧」というイメージにぴったりだ。

    「怪僧」の異名を持つグリゴリー・ラスプーチン。ロマノフ王朝を思うままに操り、やがては帝政ロシアの崩壊を招くことになった。

     他方、彼については少年時代から信心深く、治療や予言の力に恵まれ、信者からの寄付は即座に貧しい者に与えるという、気前のよい人間だったともいわれている。
     ラスプーチンの人物像については、アメリカに渡ってサーカスの猛獣使いになった娘のマリアや、彼を暗殺したフェリックス・ユスポフ公爵が書いた伝記、さらには当時の秘密警察の報告書など多くの資料が伝わっているが、その内容は相矛盾し、真相がどこにあるのかよくわからない。
     生年についてさえ、1865年、1868年、1871年など諸説ある。だが教会の洗礼記録によれば、1869年、エフィム・ラスプーチンの子として西シベリアのポクロフスクエ村に生まれたことになっている。
     父エフィムは比較的裕福な農民で、馬も何頭か所有し、グリゴリーが生まれたころは村長も務めていた。シベリアの寒村としてはまあまあの暮らし向きで、グリゴリーは幸福な幼少期を送ったようだ。

     勉強嫌いで学校教育はほとんど受けなかったが、このころから予言や治癒の能力を発揮したともいわれており、ある農民の馬を盗んだ犯人をいい当てたとか、飼っている馬の病気を治したという話も伝わっている。また父親は信心深く、夕べには家族に『聖書』を読んでやることがよくあったという。
     しかし12歳のころから、母親や兄を立てつづけに亡くし、さらに家が火事で焼け落ちるなどの不幸も重なり、少年ラスプーチンは近くの町トボリスクの請負業者のもとで荷車の御者として働くようになった。シベリア全土に荷物や乗客を運ぶのが彼の仕事で、しばしば何日も家を離れ、夜は荷車の下や小さな宿駅で眠るのが常だった。
     そんなとき、ある見習い僧を遠く離れたヴェルホトゥリエの僧院まで送り届ける仕事が舞い込んだ。何日もこの信心深い若者と同行するうち、ラスプーチンも何か感じるものがあったようだ。
     無事に彼を送り届けた後、ラスプーチン自身も何か月か僧院で過ごした。このころヴェルホトゥリエの町にはマカーリーという有名な苦行者が住んでいたのだが、ラスプーチンはこのマカーリーとも顔見知りになった。

     いったん故郷に帰ったラスプーチンは、3歳ほど年上のプラスコヴィ・フェドロヴナ・ドゥブロヴィナと結婚し、すぐに長男が生まれた。しかし、長男はわずか6か月で死亡した。
     さらに、このころ聖母マリアの姿を見たラスプーチンは、助言を求めるべくヴェルホトゥリエのマカーリーを訪ねた。マカーリーは聖母の出現を肯定し、ギリシア正教の聖地アトス山にある、聖母に捧げられた修道院で祈るようラスプーチンに勧めた。
     その言葉を受けて、ラスプーチンはアトス山の修道院を訪ね、その後も聖地エルサレムまで巡礼の旅を続けた。

     長い旅を終えて帰ってきたラスプーチンは、完全に別人となっていた。畑仕事は妻にまかせきりで、厩の地下に穴蔵を掘って礼拝堂にし、毎日何時間も跪ひざまずいた。しばしば各地を遍歴し、何か月も家に戻らなかった。
     日が沈むと家で祈禱会を行い、ときには祈りの最中、突然歌ったり踊ったりすることもあった。他方、数々の予言を行ったり、病人を治療したことで「スターレッツ(陰修士)」として崇拝されるようになる。

    ラスプーチンとその子どもたち。若くして結婚した彼は7人の子をもうけたが、成人できたのは3人だけだった。

    不思議な治癒力で帝国の実権を握った怪僧

     シベリア全土でその名が知られるようになったラスプーチンは、1903年に初めてロシア帝国の首都サンクトペテルブルクを訪れた。首都に登る途上、折しもサロフで行われた聖セラフィムの列聖式にも出席した。
     セラフィムは19世紀初頭、サロフの郊外に住んでいた隠修士で、生涯で何度も聖母マリアの姿を目にし、大勢の人を治療した、ロシアでは非常に人気のある聖者だ。
     そのセラフィムを正式に聖人と認定する列聖式に参加したラスプーチンは、大聖堂を出るなり、翌年皇帝に男児が生まれると宣言した。この予言は1904年8月12日、アレクセイ皇太子が誕生したことで実現した。

     1905年、再びサンクトペテルブルクを訪れたラスプーチンは、その不思議な治癒力が評判となって上流階級にも知己ができた。この年の11月1日には、ある貴族の紹介で皇帝ニコライ2世とアレクサンドラ皇后にも会見している。

    ロマノフ王朝最後の皇帝、ニコライ2世。ラスプーチンとの出会いが、帝国と彼の家族を破滅へと導いた。

     じつは、皇帝一家には大きな悩みがあった。ラスプーチンの予言通りに生まれたアレクセイ皇太子は、生まれながらに血友病を患っていたのだ。
     血友病患者は血液中に凝固成分を欠いているため、ほんの小さな傷を受けただけでも出血が止まらずに死亡することがある。遺伝病のため根本的な治療は不可能であり、当時の医療では対症療法さえ難しかった。
     ところが、ラスプーチンが祈ると、皇太子の出血が即座に止まるのだ。そこで、皇帝と皇后はアレクセイ皇太子が負傷するたびにラスプーチンの治療に頼るようになる。その効果は劇的で、特にアレクサンドラ皇后は完全にラスプーチンに心酔し、彼をしばしば宮廷に招いた。
     こうしてラスプーチンは皇帝一家だけでなく、しだいに上流階級の貴婦人や、宮廷貴族の子女の間にも熱烈な支持者を増やしていくことになる。

     しかし、当然反感を持つ者も出てくる。特に政治に関わる貴族や政治家たちは、粗野な田舎者が自分たち以上に皇帝夫妻の信頼を得ている状況に我慢がならなかったようだ。
     秘密警察はラスプーチンを24時間尾行し、馬泥棒をした過去や、女性信者とみだらな関係を持っていることなどを報告した。新聞も、彼にまつわる真偽不明のスキャンダルを面白おかしく書き立て、ストルイピン首相やグチコフ国会議長といった政府の要人も、公的な場でラスプーチンを攻撃した。

     こうした非難もあってか、ラスプーチンはしばしばポクロフスコエ村に戻ることがあったが、皇后の彼に対する信頼は揺るがなかった。
     その後、政敵ストルイピンは1911年に暗殺され、グチコフ国会議長は1912年の選挙で落選、さらにラスプーチンを攻撃した政治家は次々と解任されるなどして、政界は次第に無能な人物、あるいはラスプーチンに好意的な人物によって占められるようになった。

    不思議な治癒力とその弁舌のうまさで皇帝夫妻に取り入ったラスプーチンは、上流階級の貴婦人や貴族の子女からも熱狂的に信奉されるようになる。
    サンクトペテルブルクの自宅で、大勢の支持者に囲まれるラスプーチン(中央)。

    ピョートル・ストルイピン首相。ラスプーチンを国政から遠ざけようとしたが、のちに暗殺される。
    皇帝夫妻がラスプーチンに操られていることを風刺した反皇帝派のポスター。

    毒殺も銃殺も不可能? 壮絶な暗殺劇の顚末

     1914年6月28日、オーストリアのフランツ・フェルディナンド大公がサラエボで暗殺されたことをきっかけに、第1次世界大戦が始まった。このときニコライ2世は、「戦争に加わらないように」とのラスプーチンの忠告を無視して参戦する。しかし、戦況はロシアに不利であった。
     1915年9月5日、皇帝はロシア軍の士気を鼓舞すべく、自らが前線に出て指揮を執ることにした。その留守中、国政をまかされたのはアレクサンドラ皇后であった。そして皇后は、家庭内の事項や国政などあらゆる面でラスプーチンのいいなりだった。

     こうした状況を憂慮した者たちが、何度かラスプーチン暗殺を企てていた。そして1916年12月29日の深夜、ラスプーチンはユスポフ公爵らによって殺害される。このときの彼の不死身ぶりはよく知られている。
     ユスポフの自宅に招かれたラスプーチンは、まずケーキとワインを振舞われた。ユスポフはこのケーキとワインに青酸カリを仕込んでいたのだが、ラスプーチンには何の効果もなかった。
     そこでユスポフは、祈りはじめたラスプーチンの背後から銃で撃ち、ラスプーチンは倒れ伏した。だが、死体を運ぶ途中で息を吹き返したラスプーチンは、ユスポフに飛びかかった。
     それを見た仲間のウラジーミル・プリシュケヴィチが再び拳銃を発射。恐怖にかられたユスポフは、鉄棒でラスプーチンを滅多打ちにしたうえ、彼の死体を凍りついたネヴァ川に放り込んだ。

     その後、川底から引きあげたラスプーチンの死体を調べてみると、その死因は水死だったという。つまり毒物も銃弾も、鉄棒による打撃も、彼にとどめを刺せなかったというのである。
     ただ、これらは暗殺者のユスポフが述べている内容であり、実際には、彼の体内から毒物は検出されず、また肺に水はなかったという報告もあるようだ。

    ラスプーチンの暗殺を計画したフェリックス・ユスポフ公爵。
    ラスプーチンの暗殺現場となったユスポフ侯爵の邸宅(モイカ宮殿)。
    ネヴァ川にかかるペトロスフキー橋。ラスプーチンの死体はここから川へ投げ込まれた。
    川底から引きあげられたラスプーチンの死体。手足はロープできつく巻かれ、その腕は死後硬直のために伸びきっていた。

    不死身の男が残した不吉な予言の結末

     ラスプーチンの死後、彼が暗殺される直前に、皇帝に宛てて書いたという予言めいた手紙が
    公開された。そこにはこう記してあった。

    「私は1月1日より前にこの世を去るでしょう。私が庶民、ことに同胞である農民に殺されるなら、皇帝は玉座について統治し、子どもたちも数百年にわたってロシアを統治するでしょう。私が貴族に殺され、貴族が私の血を流す場合、その手は私の血にまみれたままで、彼らはロシアを立ち去るでしょう。私に死をもたらしたのが皇帝の近親者であるなら、ご家族のだれひとりとして、2年以上生きる者はいないでしょう」

     ユスポフ公爵の妻イリナは、ニコライ2世の姪であった。つまり、ラスプーチンは皇帝の近親者に殺されたということになる。
     はたして、ラスプーチン暗殺の翌年、1917年に起きたロシア革命で、貴族はロシアから消えた。皇帝ニコライ2世の家族は、時のソヴィエト政府によって1918年7月17日、全員が銃殺された。ラスプーチンの不吉な予言は見事に的中したのである。

     なお、2000年にウラジーミル・プーチンが初めてロシア大統領に就任したとき、彼がラスプーチンの子孫であるという噂も現れた。
     しかし、プーチンの祖父はラスプーチンとほぼ同時代を生きたコックであり、父親もレニングラードの鉄道車輌製造工場で働いたことが明らかとなっている。どうやらプーチンとラスプーチンとの間には、特別な関係はないようだ。

    ニコライ2世夫妻とその子どもたち。ラスプーチンの予言通り、彼の死からおよそ1年7か月後に、全員が処刑されるという最期を迎えている。

    羽仁 礼

    ノンフィクション作家。中東、魔術、占星術などを中心に幅広く執筆。
    ASIOS(超常現象の懐疑的調査のための会)創設会員、一般社団法人 超常現象情報研究センター主任研究員。

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