ムー旅番外編はベトナムへ! UMAの住処やカオダイ教寺院、超能力者を訪問する5泊7日の旅、募集開始!
目次1 アジアの神秘! ベトナムの謎に挑む2 気になったら無料のオンライン説明会へ3 三上編集長からのコメント アジアの神秘! ベトナムの謎に挑む 第二弾も好評を博した、ウリャと行く「ムー旅メキシコ
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60年代から90年代まで、ベトナムにココナッツ教団という集団があった--。反戦・平和を訴え続けた活動を振り返る。
「メコン川の中洲にコンフン島という島があって、そこにはかつてココナッツジュースと果物しか摂らないココナッツ教という宗教があったのよ」
そう教えてくれたのは、1990年代のはじめ、私が勤めていた貿易商社の、ホーチミン市駐在事務所で働いてくれていた30代の女性スタッフだった。
今もホーチミン市発の人気日帰り観光コースといえばメコン川クルーズだが、90年代当時もすでに観光サービスが提供されていて、筆者もたまの休みに日帰り観光を楽しんだ。帰りぎわに、サンパン船にゆられてコンフン島を通りかかった際に、同行していた女性スタッフがそういったのだ。
ココナッツ教の教祖はココナッツ・モンク、すなわちココナッツ坊主と呼ばれたという。
そんな話を聞きながら遠目に、極彩色の……龍のようなものが絡みついた柱が何本かと、これまたカラフルに彩られた門がちらりと見えた。だがその時はそれほど興味を持たなかった。
案内してくれた彼女自身は熱心なカトリック教徒だったが、タイニン省にいけばカオダイ教というベトナム独自の新興宗教についても教えてくれた。
「カオダイ教はその昔、信徒も多く、軍隊や大蔵省などの機関も備えていて、まるで独立国家のようだった」
せっかくタイニン省に出張したというのに、そのときも二本の鐘楼のそびえたつ、これまた極彩色の教会の脇を通っただけだった。その15年後に、まさか「カオダイ教徒」の女性と結婚するとは思っていなかったから、当時カオダイ教にもまったく興味を覚えなかった。
とにかく、社会主義国ベトナムには、関西弁でいえば、まことにけったいな宗教がいくつも存在し、いまもそのいくつかは残っている、ということだけが記憶に刻まれた。
「島の突端には、70フィート(21m)もの石膏で作られた山の頂上にタワー状のパゴダがそびえていた。頂上には仏教の卍字に三角形と十字架が冠せられ、巨大なモザイク状の祈りのための円形テラスを見下ろしていた。円は色分けされ、動的な二元性を表す陰陽のS字形の優美なラインを描いていた。頭に煌々とネオンライトが光る、メコン河の九頭の龍が祈祷者のための円形テラスからゆうに40フィート(12m)はあろうかという高さにそびえていた。古代的で神々しい姿をした龍は、驚くほど豊かなデルタを確かにつくりあげた、メコン川の扇形の沖積土の9つの支流を象徴していた」(The Other Side of Eden – Life with John Steinbeck, by John Steinbeck IV & Nancy Steinbeck)
1968年春、記者のジョン・スタインベック4世は、サイゴン(現ホーチミン市)から70km先にあるミト市におもむき、そこからサンパン船にゆられ、ココナッツ教団の島、コンフン島へ上陸したときの寺院の様子を記述している。彼の目には寺というより遊園地かなにかに見えたのだろう「浄土仏教のアミューズメント・パーク」だとも述べている。
ジョン・スタインベックといえば「怒りの葡萄」という小説でピューリッツアー賞とノーベル文学賞を受賞した米国の作家だ。しかし、コンフン島のココナッツ教団を訪ねたのは、その作家当人ではなく、小説家の父親と同じ名前をもつ息子である。
小説家の息子・ジョンは徴兵で兵役につき、ベトナム戦争に参戦した。帰還後は記者となって、再びベトナムを訪れ、南ベトナムの仏教やカトリック教の指導者たちを取材した。そのときにベトナム人の友人からココナッツ教団の話を耳にして、彼はその教団の教祖、ココナッツ坊主を訪ねたのだった。
コンフン島に上陸すると、そこには7層の屋根をもつパゴダに、端から端まで70フィートはあろうかというベトナム地図にミニチュアの都市が並び、200名ほどの僧侶たちが石膏でできた山に向かって祈りを捧げている。その山のてっぺんに小さな小屋があり、そこにココナッツ坊主がにこやかに座していた、そうジョンは記している。
「間違いなく彼は、狂気じみた世界において永遠に愛らしく神秘的で、古典的な『心配しないで、幸せになろう』という姿勢を真に体現した人物だった」(The Other Side of Eden)
ジョンは、ココナッツ坊主の風貌について、それ以上詳しく述べていない。
また、日本人写真家の桑原史成氏は、1974年3月発行の雑誌「太陽」で「メコンの椰子の実坊主〜ある反戦運動〜」との記事を掲載している。彼は直接メコン川に浮かぶコンフン島に乗り込んで取材している。ココナッツ坊主にも直接面談し、その印象についても以下のように記している。
「コンクリートでつくられた八角形の小さな台の上にアグラをかいて坐っているナム師(注:ココナッツ坊主の本名はグエン・タン・ナム)をみた。その風貌はあまりにも奇異、わたしは一瞬吹き出したくなる気持ちをおさえた。背筋はやや曲がり、脱色した長い髪を束ねて頭に巻きつけ、さらにあまった毛は垂れ下がっている。大きく飛び出した丸い眼球、その異様な視線のまま右手の人差し指を一本たてる。それはナム師の好意の挨拶であった」(「太陽」1974年3月号)
桑原は写真家でもあったので、雑誌「太陽」にはココナッツ坊主自身やコンフン島の寺院、信者たちの姿が写真に記録されている。髭をたくわえ、袈裟をまとい、痩せこけた身体をしたココナッツ坊主。記事冒頭のプロフィール写真をみると、柔和な表情だが、どこか人をひきつける目のチカラが感じられる。当時、10万人もの信徒がいるとされたココナッツ教団の教祖たる迫力だろう。
ココナッツ坊主は1963から1964年ごろに信者20名ほどとともにコンフン島に移り住み、宗教施設を建設した。ココナッツのほか、フーティユというコメとタピオカでつくられた麺を主食とし、バナナ、マンゴスチン、ドリアンなどのくだものを食べ、肉食は禁忌した。
教団の主な戒律は、①殺さない、②セックスをしない、③盗まない、④悪い言葉を使わない、⑤禁酒のほか、⑥禁煙、⑦音楽をしない、⑧賭けごとをしない、⑨目上に挨拶、⑩流行を追わない、であった。
当時は南北ベトナムに別れ、内戦が続き、そこへ米軍が介入、軍事顧問や兵士、武器を南ベトナムに供給して、果てなき戦争が行われていた。特に北ベトナムの指導によるテト攻勢によってゲリラ活動が活発になり、その鎮圧が行われると、南ベトナム政府軍の徴兵を逃れるため、一時期5千名を超える信者が教団に集ったといわれている。戦争が激化すると、南ベトナム政府が徴兵を強化し、今度は徴兵忌避が拡大した。
そして、その徴兵忌避のひとつの手段として、ココナッツ教団への信仰を選択する若者もいたということだ。
ココナッツ坊主自身はベトナムの平和のために奇想天外な行動にも打って出る。1960年代には南ベトナム政府の大統領選への出馬も検討したようだ。「平和と統一のためベトナム全土は連帯しよう」というスローガンで選挙をたたかい、もし自分が大統領に選ばれたら、7日以内にベトナムとインドシナに平和をもたらす」との公約も掲げた。
ホーチミンルートを北上して、北ベトナムの指導者と面談し、停戦をよびかけようとして、カンボジア国境で逮捕されたり、ココナッツ坊主自身と弟子の僧侶たちを引き連れて北緯17度線の非武装地帯(DMZ)で平和を求めて祈祷するなどを計画するも、南ベトナム政府はそうした「反戦活動」を許さなかった。
1964年、米国国防長官のマクナマラが訪越した際には、ネズミとネコをいれたカゴを手にし、「ネズミとネコを同じカゴにいれても喧嘩さえしないのに、人間はもっと賢いのだから、戦争はやめるべきだ」として、国防長官に面会を求め、米国が戦争を停止するように求めたという。このときのことは、米国で「ココナッツ・モンク」という絵本となって紹介されている。
ココナッツ坊主は1910年生まれ。キリストと同じ誕生日の12月25日であると自称したが、出生記録には4月22日とある。キエンホア省(現ビンロン省)の裕福な家庭に育ち、18歳となった1928年から8年間はフランスに留学。高校と科学の専門学校で過ごすも、フランス人名家の女性との恋愛に破れると、学費として送られてきたお金はパーティとカジノに費やされた。若いころは、美男子で聡明、親しみのある話しっぷりだったという。
1935年に帰国して、石鹸工場を立ち上げるも事業に失敗し、当時のサイゴンにあったカジノ「大世界」で賭博にふけった。
1943年ごろには、アンザン省の寺にこもり、仏教ダウダー派の厳しい修行を試みる。この頃から食事としてはココナッツと果物だけをとるようになり、ココナッツ坊主の異名を得るようになる。当時は水よりもココナッツ水を口にする方が衛生的に安全だったから、努めてココナッツ水をとった、と当人は語っていたそうだ。果物の洗浄にもココナッツ水を使用したとも伝えられている。
第二次世界大戦後も修行を続け、年に1回、ブッダの誕生日とされる4月8日にしか身体を洗わなかった。修行の場所もメコンデルタのティエンザン省にうつし、その後にベンチェ省(現ビンロン省)のコンフン島に宗教施設を建て、信者20名と暮らすようになったのは先に述べた通りだ。
北ベトナムによる南部の「解放」によって1975年、戦争は終結する。翌年には南北ベトナムが統一し、ベトナム社会主義共和国が成立する。ベトナム共産党による政権が樹立されると、一時期南ベトナムに存在していた宗教団体の多くは迫害を受けるようになる。
ココナッツ教団も例外ではなかった。
「ホーチミン市公安新聞」の記事には、1975年以降、ココナッツ教団は「迷信を広め、不健康な生活を推奨したとして活動が禁止」されたとある。ココナッツ坊主自身は逮捕、再教育キャンプに収容されたが、彼の親族たちは、彼が精神病を患っていて、家族が保証人となることで釈放されたという。
だがその後、フーアンホア村で暮らしているうちに、再びココナッツ教の信者が増加して活動を再開、船を購入して修行の場所をつくり、ラジオ局まで設けたとされている。対してベンチェ省(現ビンロン省)当局はラジオ放送の停止、設備の没収を進めた。1990年に迷信宣伝停止を求め、ココナッツ坊主の逮捕、連行を試みたが、一部の弟子が公務を妨害するうち、高齢のナム師(ココナッツ坊主)が地面に倒れ、頭部をうち、それがもとでミト市第5区にて81歳にして逝去した……とその最後を同新聞は伝えている。
ベトナムではその後、キリスト教に関してはバチカン市国・カトリック教会とも関係回復が進み、教会の新改築も許可されるようになった。仏教においては巨大な寺院が新築され、民間信仰である「聖母道」なども隆盛をみせている。
今もベンチェ省(現ビンロン省)のコンフン島に残った宗教施設の遺跡は観光地として公開されている。ユニークな宗教であったが、教祖はその突飛な反戦運動のおかげで、異常者の扱いを受け、戦後は不幸な結末を迎えてしまった。しかし、彼が望んだようにベトナムに平和が訪れ、半世紀が過ぎた。その行動は奇矯であったとしても、ココナッツ坊主の平和への渇望はホンモノであったのではなかろうか。
新妻東一
ベトナム在住でメディアコーディネート、ライター、通訳・翻訳などに従事。ベトナムと日本の近現代史、特に仏領インドシナ、仏印進駐時代の美術・文化交流史、鉄道史に通じる。配偶者はベトナム人。
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