ミネソタ・アイスマンはベトナムの獣人UMA「グオイ・ズン」だった!! 学術論文が示す正体と生態/新妻東一

文=新妻東一

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    ベトナムには「森の人」と呼ばれる獣人グオイ・ズンの伝説、伝承がある。その存在との遭遇譚は数知れず、実際、政府による調査も行われている。そして、この事実は── かの氷漬け獣人ミネソタ・アイスマンが本物であることをも示唆するのだ!(月刊『ムー』2023年8月号より)

    ベトナム獣人「森の人」グオイ・ズン

     全身が毛に覆われ、二本足で歩く獣人の目撃証言は世界中にある。ヒマラヤ山脈のイエティ、北米のビッグフット、サスカッチ、中国のイエレン(野人)など、数えあげたらキリがない。

     ベトナムには「グオイ・ズン」、ベトナム語で「森の人」という獣人がいる。伝説だ、いい伝えだというものがあれば、その実在を今も信じて疑わない人たちもいる。

    グオイ・ズンの想像図(ミネソタ・アイスマンの復元を参考にしたもの) 画像は「Idaho State University」より引用

     ベトナム戦争当時は米兵による目撃談や遭遇事件が多発したため、ベトナムの獣人は世界に広く知れわたるようになった。

     ベトナム中部高原、コントゥム省モーライ村レー集落。この集落にはベトナムに53ある少数民族のうち、2019年の調査で639人しか確認できていないローマム族が住む集落だ。彼らの言葉はモン・クメー
    ル語族に属し、特にクメール語からの影響が強いといわれている。

    コントゥム省モーライ村レー部落の位置(★印)。ベトナムとラオス、カンボジアの3か国の国境が交わる場所に近接する(©Google Inc.)。

     この村の位置をグーグルマップで確認するとベトナムとラオス、カンボジアの3か国の国境が交わる場所に近接している。50年前のベトナム戦争中にはこの村にほど近いチャーリー・デルタ高地で米軍・傀儡軍と解放軍との間で壮絶な戦いが繰り広げられた。

     この村には獣人「グオイ・ズン」の伝説が伝わっている。伝説だけではない。実際に「グオイ・ズン」に遭遇したという老人たちの証言が近年、ベトナム各紙で報道された。

    「今から20年ほど前だが、森の中でこれまで聞いたことのない獣の声を聞いたんだ。村の若いもんで獣の正体を見極めようと剣を手に数人で森の中に入った。うなり声に近づいていくと、突如5頭ほどの不思議な生き物の群れに出くわした。よく見ると頭はヒトの顔によく似ているが、身体は灰色の毛に覆われていて尻尾はない。身の丈は1メートルほどだった。2本の足で立ち、森の木を割いて、その芯を食べているところだった」

     そう語るのはレー集落のアー・ムオンだ。彼によればよりはっきり見ようと近づくと、その生き物は自分たちに気がついて歯をむいて威嚇してきたのだという。若者たちは慌ててその場から逃げだしたそうだ。

     ほどなくしてふたりの男が森に入ったまま戻らなかった。森に捜しにはいったが遺体も見つからない。おそらくは「森の人」、グオイ・ズンに捕まり、食べられてしまったのではないかと噂された。集落の人々は「森の人」を恐れて、再び森の中に入ることを忌避したという。

     この村では自らは目撃したことはないが、父親から聞いた話として「森の人」の話を語る古老もある。

     アー・ムオンは不思議な生物の遭遇談の続きとして、こんな話も伝えている。

     遭遇事件の直後、集落のある独身女性が森の中で一匹の生き物を捕まえて連れ帰ってきた。大きさはバナナの花ほどの大きさしかなく、人間のような姿をしていて尻尾はない。

     彼女はこの生き物を育てようとしたが、ただ泣くばかりで、じっとしていない。おかゆもタケノコも食べようとしない。あるとき、その女性が生き物を連れて小川で身体を洗ってやると、カエルやタニシをとって食べる。すぐに大きく育ったものの、大家のニワトリを食べ尽くし、夜中に恐ろしい声で吠えるので、村人は恐れをなし、その女性を諭して「生き物」を森へ戻させたというのだ。

     いずれも真実味のある証言だ。ただ今から20年前の山奥の村のこと、証拠となる写真などは残っていない。

    外国人による獣人目撃の証言

     実はベトナム戦争の時代にも、ベトナム中部から中部高原にかけてのジャングルで「獣人」との遭遇、目撃証言が数多くある。米兵のみならず、ベトナム戦争に参戦した韓国兵やベトナム兵の証言すら残されている。

     1966年、クアンナム省868高地といわれる場所で事件は起きた。

     海兵隊のある部隊がベトコンによると思われる動きを茂みで発見したと大尉に報告してきた。大尉は無電を通じ、部隊に対して発砲しないようにと伝えた。ほどなくして部隊から返答があり、ベトコンではなく、毛むくじゃらで二足歩行の、ヒトの姿の生き物に囲まれていると伝えてきた。

     元海兵隊員のクレイグ・ロバーツは海兵隊の戦友会のウェブサイトで「獣人」の目撃証言を綴っている。

     海兵隊員はその生き物には発砲せず、代わりに石つぶてを投げつけた。しかし「生き物」はその石を投げ返してきた。その数、100頭はくだらない。やむなく銃剣で敵と戦った。海兵隊員に負傷者がでた。その戦場にはその生き物の屍体もいくつかあったとクレイグは記している。

     このベトナム獣人との遭遇はベトナム中部の街、ダナンから西へ今なら車で40分ほど離れた山中での出来事だ。

     米兵は上記の事件からこの獣人のことを「ロックエイプ」と呼んだ。この事件以外にも多数の獣人目撃談が存在する。「ロックエイプ」目撃談で共通するのは、身長5、6フィート(150〜180センチ)、二足歩行で、力強く、赤または赤茶の毛で覆われているという点だという。

     ベトナム戦争からさらに時代をさかのぼり、19世紀から20世紀半ばまでのフランス植民地時代にもこのベトナムで「ヒトでもなくサルでもない」獣人の目撃談が数多く記録されている。ベトナム南部に宣教に訪れたフランス人のミッショナリーや神父、探検家や人類学者が「獣人」の目撃談を直接的あるいは間接的に記録している。

     第1次インドシナ戦争中の1947年、兵士のジュレ・アロワはコントゥム省を山岳少数民族のジャライ族、セダン族、バナ族の兵士とともに進軍中、森の中でヒトでもサルでもない「野人」に出くわしたと、フランス連合兵士協会の機関紙に報告している。

     ジャライ族の軍曹によれば、この種の生き物は高地民族によく知られた存在で、部族の間ではサルのように食用とすることは忌避されていると告げたという。アロワはまた「この遭遇の事実によって隊列の兵士たちはみな喜んだ」とつけ加えている。

     およそこの200年間にも繰り返し、ベトナムのある地域において「森の人」グオイ・ズンの遭遇、目撃談が記録されていることになる。

    ベトナム獣人と猩猩の記録との一致

     中国の想像上の動物に「猩猩(しょうじょう)」という生き物がある。現代中国語ではスマトラ島、ボルネオ島に生息するオランウータン(マレー語で「森の人」の意)を意味するそうだ。中国の古典書物である『山海経(せんがいきょう)』『礼記(らいき)』にも「猩猩」の名が記されている。

    『山海経』に描かれた猩猩。その正体はオランウータンなのか猿人なのか?

     16世紀末、明の時代に李時珍があらわした『本草綱目』という薬草や動植物の博物誌があるが、その
    51巻下・獣部に「猩猩」の項目には次のようにある。

    「時珍曰く、猩猩については、爾雅、逸周書以下数十説あるが、大体を総括していえば、哀牢夷、および交趾、封渓県の山中に生じ、形状は狗(イヌ)、および禰猴(サル)のごとく、毛は黄にして猨(類人猿)のごとく、耳は白くして豕(ブタ)のごとく、顔は人のごとく、髪長く、頭、顔は端正で、声は小児のなき声のようでもあり、犬の吠えるようでもあり、群れをなして伏していくものということになる」

     哀牢夷とは現在の中国雲南省あたりを、交趾、封渓県とは現在のベトナム首都ハノイのドンアイン県あたりを示す。つまり、明代の書物には、それ以前の書物に現れる「猩猩」は北部ベトナム山中に生息しているとしているのだ。

     この200年にわたって遭遇、目撃されている「森の人」グオイ・ズンの姿と明代の書物にある北部ベトナムに棲むという「猩猩」の記述はあまりにも似通っている。これは偶然の一致なのだろうか。

    ミネソタ・アイスマンはグオイ・ズンなのか?

     これだけ「森の人」グオイ・ズンを目撃、遭遇したとの証言のみならず、ヒトと戦ったとする証言まであるのに、物証となるものはほとんどない。当然、獣人はあくまでも伝説にすぎないか、夢幻の類いではないかと多くの人はいぶかる。

     ベトナムの森に棲むカニクイザル、テナガザルといったサルを見間違えたのではないか、あるいはベトナム戦争中の証言が多く見られたため、米兵らが使用していた薬物による幻覚説、またはベトコンによる陽動作戦説など、諸説入り乱れたが、どれも決め手に欠ける。

     本誌「ムー」でも、1960年代から70年代にかけてキワモノ的な見世物として、カーニバルやショッピングセンターで公開された「ミネソタ・アイスマン」のことを何度か取り上げている。

    見世物にされた氷漬けの獣人ミネソタ・アイスマン。ベトナムから密かに運ばれたという噂もある。

    「ミネソタ・アイスマン」とはフランク・ハンセンという男が「氷河期人類の生き残り」と題して、けむくじゃらの猿人を氷漬けにしたものを全米各地で見世物にしていた、その「生き物」のことだ。

    ミネソタ・アイスマンの前に立つ、見世物の興行主フランク・ハンセン。

     日本でも祭りの見世物小屋といえばうさんくさいものと相場が決まっている。科学者はだれも相手にしなかった。そこへふたりの研究者がこの「毛むくじゃらの生き物」を精査した。結果をふたりは論文と雑誌に発表した。サルから人間へと進化する途中のミッシングリンク、ネアンデルタール人ではな
    いかとの仮説を発表したのだ。

    「毛むくじゃらの生き物」を精査しネアンデルタール人の生き残りと仮説を立てた動物学者、ユーベルマン(左)とサンダーソン。

     氷漬けの猿人には頭部に受傷した後があり、すわ殺人事件かとFBIが動きだす、スミソニアン博物館が科学調査に乗りだすなど、全米で話題となった。

     その騒動の中で、興行主であるフランク・ハンセンは元ベトナム戦争に従軍した兵士で、ダナンの基地に勤務したことがあり、氷漬け猿人は彼が興行のためにベトナムから秘密裏に持ち去ったではないかとの疑いがかけられた。前述したようにベトナムのジャングルで「ロックエイプ」を目撃、遭遇した米兵も数多くいたから、真実味を帯びたのだ。

     その後氷漬け猿人はハンセンのもとから突如姿を消す。彼は元の持ち主に「猿人」を返還したと説明し、行方知れずとなった。

     フランク・ハンセンがベトナムから持ち帰った猿人が、ベトナムの「森の人」グオイ・ズンだったら、まさにそれがその存在の動かぬ物証となったのだが、残念なことにその「氷漬けの猿人」ミネソタ・アイスマンの現物は失われ、写真が残されているのみだ。

    政府公式調査が行われたベトナムの獣人

     ベトナムの獣人「グオイ・ズン」の研究者、ヴィエト博士を2023年1月末、そのご自宅にたずねた。年齢88歳、いまだ明晰な頭脳をもっているが、身体に故障が多いと嘆く。娘さんが寄り添うようにしてヴィエト博士は客間に現れた。

    ベトナム政府の2度にわたるグオイ・ズン調査を行った研究者ヴィエト博士(右)への聞き取りの様子。

     彼によれば、ベトナムでは2度、政府が公式に「森の人」を探索するミッションを行っている。1回目は1974年、まだ南北ベトナムが統一する以前のことだ。

     ベトナムでは数百年にわたって「森の人」グオイ・ズンの伝説が伝わっていたが、その実態を調査するため、ベトナム政府は考古学研究所のホアン・スアン・チン、ハノイ総合大学のヴォー・クイ、レー・ヴー・コイらの調査隊を編成し、すでに解放区となっていたジャライ・コントゥム、ダクラク省
    でグオイ・ズンを探索し、情報や証拠の収集を行った。

     2度目は環境に関する重要な国家プログラム・コード「5202」の一部として「ジャライ・コントゥム省サタイ県における貴重・希少動物の研究と保護対策」と銘打ったプロジェクトを、ベトナム中部高原における「グオイ・ズン」の研究を主目的として公式に実施した。

    コントゥム省サタイ県モムレイ山の山道の様子。×印のポイントでグオイ・ズンらしき足跡を採ることができた。

    「コントゥム省サタイ県」とは、前に見たモーライ村を含むエリアで、10のフィールド調査が行われ、のべ432日間にわたり、ジャライ、コントゥム、ダクラクおよびラムドン省の21か所で実施された。

    「グオイ・ズン」の目撃証言などから、次のようなことがわかっている。

     ひとつはグオイ・ズンの生息域だ。クアンアム省から旧フーカイン省(現フーイエン、カインホア省)にかけての中部東南海岸、およびチュオンソン山脈西部の5省に棲んでいるものとしている。ただ長引く戦争によって生息域は狭まっている。

     もうひとつは、おなじ「グオイ・ズン」といっても身の丈が1.8〜2メートルある大型のものと、1.2~1.5メートルほどの小型なものが存在し、それがダクラク省あたりで生息域がオーバーラップしているとしている。

    見えてきた獣人の姿とその後の調査の現状

    左から、グオイ・ズンが残したと考えられる足跡、その石膏型、詳細に測定した図、比較用のアメリカの獣人ビッグフットの足跡からの石膏型。

     数多くの証言をまとめた調査報告書は、大型のグオイ・ズンの姿を次のように記述している。

     身体全体は赤茶またはこげ茶の獣毛に覆われ、顔には毛がなく赤みがかった灰色で、頭の髪の毛は長く肩までたれ下がっているか、背の半ばほどの長さがある。直立して、2本の足でゆっくりと歩くが、危険に直面すると飛びはねたり、早く走ることもできる。日中も夜も活動的で、単独で行動する。植物の葉や芽、バナナ、鳥の卵や小動物、カエル、サカナ、エビ・カニ、タニシや昆虫を生で食べる。長短のある単調な鳴き声をあげるが、話し言葉を使用することはない、と。

     小型のグオイ・ズンは、尾がなく、灰色がかかった茶色または灰色がかった黒色をした毛に覆われ、頭の毛はメスの場合、腰まで長く、オスはそれより短い。顔には毛がなく、皮膚は明るい黄色がかかった灰色か、黒色をしている。屈むことなく2本の足で直立歩行し、飛び跳ねたり、早く走ることもできる。水辺の洞穴に棲み、泉や小川でカニ、タニシ、魚などを捜す。火を使う形跡はない。

     大型のグオイ・ズンより大きな群れをつくり、3〜5頭でいることが多い。言葉を喋る証拠はないが、単純な叫び声をあげ、ジェスチャーや音でコミュニケーションをとることもある、などと報告されている。

     この調査の過程で調査団はコントゥム省のモムライ山で二足歩行する生き物の足跡を発見した。

     現場はぬかるみで草も生えていた場所なので、はっきりとした足跡をひとつだけ見つけた。深さ1.5センチ、大きさは29×12センチで、現代ベトナム人の標準的な足跡より大きいものだ。幸い、その足跡の石膏型もとることができた。

     月刊「ムー」2018年7月号掲載の「ミネソタ・アイスマン」の記事で、日本の動物学者・今泉忠明氏が1995年ベトナムを訪れた際に「ハノイ大学に獣人の足跡の写真を持つ研究者」からその写真を見せてもらったが、残念なことにそれは「クマのものだった」ので落胆した、とある。おそらくは1982年の調査団が発見した足跡のことだと思われるが、クマの足跡ではないかという疑念に対しても報告書は、アジアクロクマ・エキスパート・チームの2名の研究者に「獣人の足跡」を見せたところ、彼らが知るクマの足跡とは形状または大きさからしてまったく異なるものだと断言したと付け加えている。

    グオイ・ズンの足跡の前足部の詳細。母趾の痕跡が深いという特徴が見られた。

     ベトナム政府はその後、「グオイ・ズン」の調査には興味を失ったのか、資金もなく、ただヴィエト博士が個人のお金で研究を続けているのみだ。その研究者も高齢となり容易に立ち行って研究することもできなくなっている。

     ヴィエト博士はいう。

    「調査の過程でコントゥム省に住む住民から、1964、65年ごろ米兵がヤーリー(現在ヤーリー水力発電所のある場所)で米軍が『森の人』を殺害して、その遺体をヘリコプター基地のあったフンホアン基地に移動させ、その後コントゥム市内の公園で人々に観せるべく展示を行ったという証言を得ている。

     その後、米軍がそれを持ち去って、行方知れずになったそうだ。フランク・ハンセンが米国で展示した『ミネソタ・アイスマン』の正体はあるいはベトナムのグオイ・ズンだったのかもしれない」

     私たちは「グオイ・ズン」の正体をあと一歩のところで見失ってしまっているのかもしれない。

    (月刊『ムー』2023年8月号より)

    新妻東一

    ベトナム在住でメディアコーディネート、ライター、通訳・翻訳などに従事。ベトナムと日本の近現代史、特に仏領インドシナ、仏印進駐時代の美術・文化交流史、鉄道史に通じる。配偶者はベトナム人。

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