怪談で涼をとりましょうーー無気味で不吉な犬の怪異集/妖怪補遺々々

文・絵=黒史郎

    暑い日が続きます。そこで今回は、黒史郎から暑気払いの怪談をお届け。それも、妖怪や幽霊譚ではなく、むしろそれらよりも強そうな〝犬〟にまつわる怪異な話を補遺々々しました。ホラー小説家にして屈指の妖怪研究家・黒史郎が、記録には残されながらも人々から“忘れ去られた妖怪”を発掘する、それが「妖怪補遺々々」だ!

    噛まれた話

     夏なので、ちょっとした涼をひとつ。数年前に筆者が聞いた話です。

     静岡県熱海市にある温泉旅館で1泊した時のことでした。
     宿付きのマッサージ師をされている、仮にAさんとしましょう。この温泉地でマッサージ一筋60年の女性です。自分は物書きで怪談を集めていると伝えますと、Aさんは大変興味を持ってくださり、ご自身が初めて金縛りに遭った時の体験を話してくれました。
     これまでたくさんの金縛り体験を聞いてきましたが、それは極めて異質な内容でした。
     ある晩、Aさんは布団に入ってからまもなく、体が動かなくなった。
     手も足も上がらず、指一本曲げられない。身をよじることもできず、まるで石になったように全身が固くなった。叫ぼうとしても声を出すこともできない。
     Aさんは息をのんだ。
     部屋の暗がりから、白い何かが現れたからだ。
     ——犬だった。
     真っ白くて、きれいで、かわいらしい犬だ。しかも、2匹いる。
     かろうじて目は動かせたので、いったい何をするつもりだろうかと視線で追うと、2匹の白い犬はAさんの両手に?みつき、すーっと消えてしまった。 
     そんなことが2晩続けて起こったという。

     あまりにあっけらかんと話されるので、当初は怖さを感じませんでした。むしろ、ちょっとほっこりする光景を想像したのですが、Aさんは犬を飼ったことは一度もなく、まったく心あたりがないといいます。
     縁もゆかりもない犬の幽霊たちに、2夜連続で両手を噛まれる。
     何かの意味がありそうで、とても気味が悪いです。

    3本足

     昭和のころのお話です。体験者を仮にBさんとしておきましょう。女学校の宿舎に入っていた時の体験です。

     月の出ている晩のことだった。
     ふと目覚めたBさんは、寝床から明かり取り用の窓の外を見ていた。
     その日は風のない夜で、窓から見える木立の葉もまったく揺れていなかったが、しばらく見ていると、まるで風が当たっているように窓の桟(さん)がカタコトと鳴りだした。
     その時、Bさんの部屋の入口の前を、なにかが通った。
     赤犬だった。
     しかも、脚が3本しかない。
     赤犬は脚を引きずりながらBさんの部屋の入口の前まで来ると、くるりと来た方へ引き返していった。
     宿舎は1階建てで、複数の部屋を挟んで長い廊下が通っている。その突き当たりにBさんの部屋はあった。3本足の赤犬は玄関から入って廊下をまっすぐ歩いてきたのだろうが、宿舎の入口は閉まっているはずだ。それ以前に、Bさんは部屋のドアを閉めていたので、廊下の様子が見えるはずがないのだ。それでも、3本足の赤犬が足を引きずって歩くのが、はっきりとわかったのである。
     こんなことが1週間も続いたので、Bさんは両親に相談すると宿舎を出て、汽車で通学することにしたという。

     この宿舎では他にも不思議なことが起きていました。

     ある晩、叫び声がしたので何事かと生徒たちがみんな廊下に出ると、小さなボールほどの真っ赤な火の玉がスーッと流れているのを目撃しました。火の玉が目撃された時間、チフスで入院していた寮生が隔離病棟で息を引き取っていたのだそうです。

    不吉な犬の怪

     犬が気味の悪い鳴き方をするのを、【犬の立ち鳴き】【犬の長吠え】【犬の群吠(ぶれなき)】【犬のヤナチチ】といって、悪いことの起こる兆しと考えられました。
     犬がこんなふうに鳴くのを聞いた2、3日後に死者が出るとか、鳴き声が聞こえている時は人の魂が外を歩き回っている時だとか、不吉な俗信が各地にたくさんあります。

     犬の怪異の記録は、南島の民俗資料に多く見られます。沖縄では「犬も老いると化けて幽霊になり、女にも化ける」といわれており、夜に出会った犬を決して叩いてはならないそうです。そんな犬の幽霊に自宅までついてこられて、精気を吸い取られて死んだ人もいたといいます。また、犬が妖怪に化けるのではなく、人の死霊が犬に取り憑くケースもあり、そうなった犬は牛のような声をあげて2本脚で歩きつづけたそうです。無気味な光景ですね。

    『南島研究』には、犬の化け物と出遭った人の話が載っています。
     沖縄市の桃原(とうばる)の人が、備瀬の内海で夜釣りをして帰る途中のことでした。
     突然、大きな犬が現れ、釣り竿にかけていた魚籠に噛みついてきました。いくら追い払ってもつきまとうので、魚籠を下ろし、飛びかかってくる犬を釣り竿で滅多打ちにしました。犬は一声の悲鳴を上げて転がった瞬間、大きく無気味なものに化け、暗雲のように天を覆います。腰を抜かしたその人は必死に逃げ帰りましたが、それから高熱を出し、魂の抜け殻のようになって数日後に死んでしまいました。
     その後も同じ場所で化け物は目撃され、【イングワーマブイ】と呼ばれて村の人たちから恐れられていましたが、戦後は目撃されることもなかったそうです。

    白い犬には気をつけて

     奄美大島の油井では昭和27年ごろに【犬のムン】が目撃されています。
     ある人が大島郡の久根津から手安という所へ向かっていました。山の頂上付近に差し掛かった時、見たこともないくらい大きくて真っ白な犬が前を横切って、山中に隠れてしまいました。こんなところに犬がいるのはおかしいと思い、急いで頂上へ上ってあたりを見回したのですが、白い大きな犬の姿は消えていたといいます。
     同じく奄美の篠川という所の田んぼ付近では、【エンマホー】という妖怪が伝わっています。これも白い犬の姿をしており、同地区では「白い犬に出遭ったら運が切れる」といって大変忌んだそうです。もし白い犬に追いかけられたら、そのまま自宅には帰らず、よその家の門前に立って「自分の家はここだ」と犬に思わせてから帰ったそうです。……この対処法はちょっとひどいですね……。
     加計呂麻島の嘉入(かにゅう)では【インマオ】と呼び、後生(あの世)からの使いとされていました。長い耳が垂れ下がった大きな犬のような姿で、死期の近づいている人の家の縁側に黄昏時になるとやってきて、家の中を覗き込んで、その人の死期を知らせます。
     また夏の夜には、浜辺で寝ている若者の身体を長い舌で盛んに舐めまわします。
     舐められた若者は死んでしまったそうです。

    【参考資料】
    登山修「奄美大島瀬戸内町の民間信仰」『南島研究』第22号(1981年)
    「妖怪特集」『南島研究』第29号(1988年)
    「奄美大島瀬戸内町の妖怪資料」『南島研究』第30号(1989年)

    黒史郎

    作家、怪異蒐集家。1974年、神奈川県生まれ。2007年「夜は一緒に散歩 しよ」で第1回「幽」怪談文学賞長編部門大賞を受賞してデビュー。実話怪談、怪奇文学などの著書多数。

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