カラフルな異形達が舞い踊る! 岐阜・中津川の「杵振り花馬祭り」を目撃/奇祭レポート

文・写真=影市マオ

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    岐阜の山里に600年前から伝わる、歴史ある祭り。しかしその行列はまるで現代アートパレードのような衝撃的なビジュアルだった…!

    ド派手な衣装で杵を振り、春を彩る

     岐阜県が誇る奇祭といえば、最近は「つちのこフェスタ」の名が筆頭に上がるだろう。毎年5月3日に、東白川村の野山に大勢のハンター(参加者)が分け入り、額に汗して賞金付きのツチノコを捜索するという、夢とロマンのビッグイベントである。筆者も開催30周年の2019年に参戦。炎天下の中、ムー公式のUMA捕獲マニュアル片手に、必死にツチノコを探したのだった。残念ながら発見にまで至らなかったが、一仕事終えた後に飲んだビールは格別の美味さで、個人的に令和の幕開けを迎えた思い出深い土地となった。

     ところで、その会場から10数キロ離れ、東白川村に隣接する中津川市に、蛭川地区(ひるかわ、旧・蛭川村)という場所がある。南方に県立自然公園の恵那峡、東西北の三方は山々に囲まれた美しい山里だ。国内有数の鉱物産地で、古くから石材業が盛んなため、周辺各所には石切り場や石造りのオブジェが点在。花崗岩のピラミッドなどが建つ、石の博物館もあることで知られている。そんな同地区では、毎年4月16日に一番近い日曜日に、「杵(きね)振り花馬祭り」なる伝統行事が行われる。

     蛭川地区の鎮守たる安弘見(あびろみ)神社の例大祭で、単に「杵振り祭り」や「杵振り踊り」とも呼ばれている。また近隣(東白川村含む)に派生した同様の祭りと区別して、「蛭川の杵振り祭り」とも。その内容は五穀豊穣を願い、ド派手な衣装の青年達が軽妙に杵を振って踊りながら、天狗や鬼などと集落を練り歩くというもの。踊りの起源は数百年前ともいわれるが、明治時代の廃仏毀釈でそれ以前の記録が失われたため、ほとんどのことが不明だという。

     謎に包まれた美しさに加え、「つちのこフェスタ」と時期や場所が近いこともあり、筆者は以前よりこの祭りが気になっていた。“槌の子”は捕らえ損ねたが、どうにか“杵振り”は捉えたい――(ちなみにツチノコには「キネノコ=杵の子」なる異名もある)。そう思いながら、今年4月14日の午前9時過ぎ、蛭川地区の最寄駅にあたる恵那駅(JR中央本線)に降り立った。
     最寄といっても、ここは隣の恵那市で、まだ祭り会場まで10キロ程の距離がある。しかも、乗るつもりだったバス路線の廃止が判明したため、仕方なくシェアサイクルを利用することに。起伏に富んだ道のりに軽く後悔しつつ、ひたすら自転車を漕ぎ進み……午前11時頃、ようやく蛭川地区の中心部にたどり着いた。

    杵と臼の呪力で五穀豊穣を願う

     祭りの起点となる公民館前の広場に行くと、既に大勢の関係者がいて準備を進めている。広場正面に生える桜の木の下には、横長の大きな石碑があり、パネル状の表面に何やら絵が彫られていた。杵振り3人と獅子舞1体を象ったレリーフだ。獅子舞は一般的なタイプだが、杵振りの姿は実に摩訶不思議。

     格子線入りの大きな笠を被って顔は隠れ、着物から出た逞しい腕に杵を持っている。まるで太古の地球へ飛来し、文明をもたらした宇宙人のような雰囲気だ。ふと視線を公民館の入口付近に向けると、その笠の実物が複数、地面の片隅に並べて置いてある。赤青黄の市松模様に塗られた“臼型”の和紙張り笠だ。すぐそばには、黒と紅に塗られた杵(竪杵)も添えてある。

     どうやら、杵とともに臼を用いることで、五穀豊穣を願う趣旨のようだ。というのも、古くから杵と臼は諸民族の間で神聖視され、数々の儀礼や俗信に伴うものであった。日本では、穀霊と関係が深い道具であることから、一種の“呪力”を秘めていると考えられ、かつては各家庭で大切に扱われた。また杵は男根、臼は女陰に見立てられ、性交を暗喩する餅つきで子孫繁栄などが願われたのである。

     興味深いことに、天岩戸神話におけるアメノウズメ(天鈿女命)の踊りにも、杵と臼を見出す説がある。『古事記』には、アメノウズメが桶を伏せ、その上で足を踏み轟かせたと記されているが、これは一説に、杵で臼をつく動作の変形――すなわち、「魂を蘇らせる呪術」であるという。従って、天岩戸に隠れたアマテラス(天照大神)は、古代の喪屋(遺体を安置する小屋)の死者に相当し、天岩戸前で踊ったアメノウズメは、葬送者の「臼女」が原義と解釈できる。
     一方『日本書紀』には、アメノウズメが「茅巻の矛」を持って踊ったと記されているが、その矛が杵に当たると同時に、男根の象徴であるともいわれている。いずれにせよ、杵で臼をつく動作が、生気を得るための性的呪術と見られる点は共通的だ。こうした内容からも、「杵振り踊り」の杵と笠(臼)は、“豊年増産”のアイテムであることが伺える。祭りには、穀物の実りのみならず、子孫繁栄などの願いも込められているのだろう。

    ド派手な杵振り行列が集落を踊り歩く!

     午後12時半頃、役者達の準備が整うと、「杵振り踊り」の行列が公民館前を出発。総勢約150人の大所帯で、踊りを奉納しつつ、約2キロ先の安弘見神社を目指すのである。

     杵振り達は約40人で構成され、原則10代から数え年25(厄年)までの若い男性が務める。彼らは皆、先述の笠を目深に被り、豆絞りの鉢巻き、赤い袖無し法被に白襷と黒帯、水玉模様の軽衫(かるさん)に黄色の脛巾(はばき)、黒足袋に草鞋を着用。もちろん、手には先述の杵を持つ。改めて目の当たりにすると、その姿は実にカラフルで、前衛的な虚無僧のようでもある。

     笠の3色には意味があり、赤が太陽、青が雨、黄色が穀物を表しているという。この派手な模様ばかりに気を取られがちになるが、頭頂部をよく見ると花飾りが付いていることから、これは基本的に花笠であるようだ。笠は古来、雨や日除けの道具であると同時に、神霊の降りる依り代とも考えられた。そして、蓑笠や仮面をつけた異形なる者が、異界から来訪する神とされたように、笠を被って顔を隠す踊り子も、神の化身と見做されたのである。

     そんな神性を帯びた杵振り達は、2列でズラッと並び、ゆっくりと前進。祭囃子に合わせて、「ソーイ」の掛け声とともに、杵を前後左右に振ってクルクル回しながら、弧を描くような軽やかな足取りを繰り返す。バトントワリングを彷彿とさせる、面白い動きの踊りである。冬が長い山里において、待望の春を迎えた喜びが表出しているかのようだ。
     彼らが行く街道沿いは、紙垂と斎竹、提灯が張り巡らされ、家や店から出てきた地元住民などで賑わいを見せる。

     色鮮やかな笠が道一杯に連なる光景は、エキゾチックな感じでSNS映えするが、「杵振り踊り」はもともと、あくまで獅子舞に付随するものだったという。杵振りも2人だけだったものの、大正8年~9年(1919~1920)頃に現在のような多人数になったとされる。この杵振りが増えた約100年前は、ちょうど世界的にスペイン風邪が流行し、日本でも猛威を振るっていた時期である。ただ昨今のコロナ禍とは違い、当時の宗教行事は特に自粛もなく、例年通り(あるいは例年以上に)催行されたようだ。そのため、あくまで推測だが、人々の疫病退散の願いが膨らんだ結果、花笠の数が急増した可能性も考えられる。

     花笠の役割は本来、疫病を流行らせる疫神(悪霊)を依り憑かせることであった。そして、その花笠を最終的に破壊することで、疫神を追い払えると信じられたのである。つまり臼型の花笠は、単に奇抜で美しい衣装ではなく、集落を守るために“独自進化した呪具”といえそうなのだ。

    祭りを盛り上げる個性豊かな役者達

     メインは杵振り達だが、他にも様々な役者達が行列を彩る。彼らは「役もの」と総称され、厄年の若者が務める。列の先頭は、露払いを使命とする赤鬼2体と青鬼1体。背中に生えた妖精のような羽根が特徴的だが、これは「トンボ」と呼ばれる縁起物らしい。鬼達はそれぞれ、青竹を割ったササラを両手に持ち、バシバシと打ち鳴らしながら歩く。

    トンボを背負った赤鬼、青鬼。

     その後方には、同様の羽根が生えた天狗2体が続く。こちらは手に柄杓を持ち、「ハクショーイ」の掛け声で人々の頭に水をかける仕草をする。この柄杓やササラを頭に乗せてもらうと、病気をしないといわれている。次に続くのは、ひょっとことおかめ。子孫繁栄や夫婦和合を象徴し、杵と臼をも想起させる存在だ。ひょっとこは時折、持っている袋から飴を取り出し、沿道の人々に配る。また、アメノウズメの化身ともされるおかめは鈴を持ち、愛嬌を振りまく。

    おかめとひょっとこは、祭祀の定番キャストといえるだろう。

     次に稚児1人が榊(さかき)を持ち、道を清めながら進む。稚児といっても実際は大人で、天冠を被り、高下駄を履く。顔には白塗りの化粧が施され、太い眉と八の字髭が描かれている。少し滑稽な雰囲気だが、本人は決して笑ってはいけないらしく、終始険しい表情を浮かべている。

     稚児の後ろは杵振り達で、次いで笛や太鼓の囃子手10数人、そして大獅子が続く。今ではむしろ「杵振り踊り」に付随する形となった獅子舞だが、それでも行列の最後尾で迫力満点の動きを見せる。約20人の男達が胴幕の内外で、巨大な百足獅子を荒々しく演じるのだ。彼らは酔っ払っていて、半ば千鳥足で道路をジグザグに進んだり、通り過ぎたかと思えば戻ってきたりするので、見物客も傍観してばかりいられず、祭りの渦に巻き込まれていく。

    大獅子と、その手綱を取る蠅追い。

     この大獅子の手綱を取るのは、蠅追い(ハイボイ)2人。衣装は杵振りと似ているが、薄緑色の笠を被り、手に笹の葉を持つ。笹の殺菌作用で、蠅とともに病原菌を追い払う意味があるという。役者達の紹介は概ね以上となる。ただ祭り当日は行列以外にも、子供神輿や厄年神輿の巡行、小学生達による「子供杵振り踊り」などが行なわれ、普段静かな集落が大いに活気づくのである。

    除疫の神に踊りを捧げて大暴れ!

     午後2時半頃、遠くからでもよく目立つ“異形の行列”が、実に2時間以上を要して安弘見神社に到着。筆者が先回りして待っていた境内は、既に大勢の人々で埋め尽くされ、迂闊に身動きが取れない状態だ。この神社の創建年代は不詳だが、京都の祇園社(現・八坂神社)から神霊を勧請したことが始まりとされる。社名は昔の郷名が由来なれど、明治維新までは「牛頭天王社(祇園社)」と称し、一般には「天王様」と呼ばれていたという。神仏習合により、祭神のスサノオ(素戔嗚尊)を牛頭天王と呼んで祀っていたのだ。
     牛頭天王はインドの祇園精舎の守護天で、日本ではスサノオと同一視され、薬師如来の化身とも考えられてきた。また御霊信仰の影響により、平安時代から疫病を防ぐ神として、八坂神社などで祀られている。日本三大祭りで有名な祇園祭も、この神を祀って疫病を鎮める八坂神社の年中行事である。やはり山鉾とともに花笠(傘)が街中を巡行し、「棒振り踊り」という厄払いの芸能も披露される。

     勧請元に習ったのだろう、祇園祭と称する行事は牛頭天王社でも行われたようだ。その流れを直接汲んだのか定かではないが、「杵振り踊り」と獅子舞は元々、秋祭りで境内の薬師堂(瑠璃光堂)、すなわち薬師如来に奉納されていたという。残念ながら、この薬師堂は廃仏毀釈で焼かれて現存しない。
     ――だが、杵振り達は今も毎年、踊りながら参道の長い石段を上り、頂上に鎮座する社殿を目指す。この頃になると、若い彼らもさすがに疲弊の色が濃くなり、周囲から「頑張れー!」といった声援が飛ぶ。思いのほか、青春の1ページ的な爽やかな熱気である。

    人数と密度に圧倒される。

     やがて社殿に着いた一行は、参拝・休憩を経て、午後3時半頃、今度は石段を下って麓の広場へ移動。ここで数周した後、太鼓の乱れ打ちとともに大獅子が倒れた。踊り疲れた仕草で、「洞入り」と呼ばれる見せ場である。すると、杵振り達が一斉に入り乱れて走り出し、互いの笠を杵でバシバシと叩き合い始めた。華やかな笠は見るも無残に破れ、穴だらけになってしまった。笠の破壊は成人儀礼を表すそうだが、疫神を退ける意味合いにも思える。また、昔はこれがある種、男女の出会いの機会でもあったとか。笠に隠れていた青年達の顔が露出するので、娘達が品定めをするという訳である。確かに、劇的な初対面にはなりそうだ。
     杵振り達が暴れる中、天狗が柄杓で水をかけると、大獅子は復活。踊りが再開し、一行はまた石段を上っていく。もはや杵振り達は満身創痍といった感じだが、尚も「ソーイ」の掛け声は勇ましく響き渡る。毎年行われる祭りとはいえ、年齢制限がある上に当番区は持ち回りのため、この場で踊りを披露出来るのは、基本的に一生に一度きりだという。彼らにとっては、まさにハレの舞台なのだ。そして午後4時過ぎ、一行は改めて社殿に到着。見事に踊りの奉納を果たしたのである。

    神馬・花馬が駆けるクライマックス

     しかし祭りはまだ続く。この後はクライマックスとして、神馬と花馬が石段を駆け上がるのだ。大獅子が社殿に着くと、力強い花馬唄とともに、待機していた2頭の馬が参道に登場。神馬は金の幣束を、花馬は「シナイ花」を背負い、杵振り同様、ド派手にも程がある姿をしている。シナイ花とは、大量の花串(造花や色紙が巻かれた長い竹)が放射状に伸び、その中心にトンボやチョウなどの飾りが付けられたもの。
     花馬は大勢の馬方に取り囲まれ、遠くからだと蠢く花串だけが見えるため、まるでサイケデリックな巨大蜘蛛のようである。この花馬の奉納も起源がはっきりしないそうだが、周辺地域では同様の儀式が伝わっており、戦勝祝いから五穀豊穣を願う祭りに発展したともいわれている。

    ド派手な花飾りをまとう花馬!

    「ハイヨー」の掛け声で、まずは神馬が石段を駆け上がり、その後に続いて花馬も鳥居の前へ。すると次の瞬間、合図と同時に一斉に人々が花馬に群がり、シナイ花を争奪し始めたではないか。「花取り」と呼ばれるもので、これらの花飾りを得られると、1年間無病息災になるとされているのだ(畑に刺すと作物が病気にならないとも)。そのためバーゲンセールの如く、あっという間にほとんどの花飾りが取られてしまった。筆者も一応取るには取ったが、かさばると帰りが大変なので、色紙の欠片のみに留めておいた。
     程なくして、身軽になった花馬は、一気に石段を駆け上がったかと思うと、すぐに姿が見えなくなった。大きな拍手と歓声に包まれる境内。その人々の興奮が冷めやらぬうちに、続いて広場では締めの餅投げが始まった。櫓の上にいる老人達が、「もちー!」と叫びながら、餅を多数ばら撒いていく。
    「杵振り踊り」を餅つきと捉えるならば、杵で臼を長時間つき続けて、ようやく餅が完成したかのような流れだ。こうして午後4時半頃、陰陽和合を体現し、山里に春を告げる祭りは大盛況で幕を閉じた。神社からの帰路、地元の人が「今日はいい日だった……」と満足気に話していたのが印象的だった。

    争奪戦となる「花取り」の後。

    踊りの起源は南朝伝説の落武者達か?

     諸説あるが、一説に「杵振り踊り」は、蛭川地区に伝わる南朝伝説に由来するものだという。伝説によれば、南北朝時代、後醍醐天皇(南朝)の孫である尹良(ゆきよし、まさなが)親王が、足利方(北朝)に追われてこの地に逃れ、笠置山麓に隠れ住んだとされる。

     尹良親王は、農耕をしながら南朝の再起を図るも、しかし20年余りで足利方に追い詰められ、無念の崩御を遂げてしまう。その後、残された従臣ら落武者達は、昔を偲びつつ疫病退散を祈願し、剣の舞を奉納するようになった。それが子孫代々受け継がれ、いつしか剣は杵に、笠は臼の形に変わり、「杵振り踊り」に転化していったのだとか――。
     はつらつとした印象とは裏腹に、どうも悲劇的な歴史と縁のある踊りのようだ。確かに、笠で顔を隠す踊り子の姿は、潜伏中の落武者と何処か重なる気がする。尹良親王の実在性を疑う声もあるが、少なくとも蛭川周辺には、南朝の“痕跡”が色濃く残されている。例えば安弘見神社では、親王に仕えた従臣一族の御霊が合祀されているし、付近の南朝神社(白山神社内)では、親王や従臣が祭神として祀られている。また、親王の墓所と伝わる「親王塚」などの関連史跡が点在し、大正時代には村を上げての調査も行なわれている。

    南朝にゆかりの深い安弘見神社。

     そうした中でも注目したいのが、親王が居を構えたとされる笠置山だ。笠置山は、恵那市と中津川市の境に位置し、蛭川地区を見下ろす標高1128メートルの独立峰。その名の通り、菅笠を置いたような山容を持つ。平安時代、この地に訪れた花山天皇が、京都の笠置山に似ているとして和歌を詠んだことから、同じ名が付けられたという。
     山頂には、花山天皇による建立の笠置神社が鎮座し、雨乞いの神・笠木大権現が祀られている。かつて南朝の落武者達も、ここで朝敵退散を祈願したといわれる。もしかしたら、その時に奉納された剣の舞が、後に疫病退散を祈るものとなり、「杵振り踊り」へと繋がったのかもしれない。

    遠方に見えるのが笠置山。手前の観覧車は恵那峡ワンダーランドのもの。

    霊山に見え隠れする超古代との繋がり

     南朝伝説を抜きにしても、笠置山は実に神秘的な山である。というのも、この山中には巨石群が林立し、謎の「ペトログラフ(古代岩刻文字)」が刻まれた岩々が点在するのだ。岩の中には、三角錐状の通称「ピラミッド・ストーン」があり、雨乞いを意味する線刻文字も見受けられる。
     過去に調査を行なった研究家らによれば、これらは縄文時代の磐座(いわくら)であり、なんとシュメール文字(楔形文字)などが刻まれているという。本当ならば数千年前の日本列島に、古代メソポタミアのシュメール人が来ていたことになる。にわかには信じ難いが、日本人(縄文人)とシュメール人の共通点は多く、民族の同一起源説さえ唱えられているのだ。

     笠置山が古代の祭祀場であったことは、ピラミッド・ストーンの配置も示唆している。これら複数の列石を一直線に山頂まで結ぶと、夏至の日の入り及び冬至の日の出線に一致するのだ。それだけではない。点在する主要な石の配置は、“オリオン座の星々”を模しているともいわれている。さながら、地上に描かれた天体図だ。知っての通り、オリオン座は三つ星が中心のくびれた四角形だが、これは奇しくも“巨大な杵”を思わせる。実際、オリオン座を方言で「杵星」と呼ぶ地域もあるようだ。
     また、星座となったギリシャ神話の巨人オリオンは、木の棍棒を振りかざす狩人の姿で描写されるが、この棍棒とて杵に見えなくもない。しかも彼は乱暴な性格で、神々から追放されてしまう点など、日本神話におけるスサノオと似通う。これを裏付けるかのように、『古事記』『日本書紀』でスサノオの剣から生まれたとされる宗像三女神は、オリオン座の三つ星を表すともいわれる。オリオン座=スサノオの剣だとすれば、やはり笠置山と安弘見神社(祭神スサノオ)が結び付く。矛や杵などと同様、剣は男根の象徴ともいわれるので、五穀豊穣・子孫繁栄を祈る祭りにも合致する。
     そもそもオリオン座は、シュメール人が「アヌの真の羊飼い」と呼んだ星座が原型とされる。「アヌ」とは、メソポタミア神話における天空の神。そして、その子孫たる神々の集団が「アヌンナキ」と呼ばれる。アヌンナキといえば、太古の地球に飛来し、人類(=シュメール人)を創造した宇宙人として、オカルト界隈では有名な存在だ。しばしば日本神話の神々との共通点が指摘され、スサノオ(牛頭天王)もまた、アヌの息子と同一視(または関連視)されるなど、シュメールに起源を持つという説がある。筆者が公民館前のレリーフを見て、このアヌンナキを連想したのも、あながち偶然ではないのかもしれない。

     実は笠置山周辺では、以前よりUFOの目撃情報が多いという。そのため、一部地元の人は、山中にUFOの基地があると考えているそうだ。なお、江戸時代の文献記録には、謎の飛行物体について「笠」と形容する事例も見られるので、笠置山はまさに、名前からしてUFO飛来を暗喩しているといえる。
     あるいは南朝の落武者達も、天空から飛来した“巨大な笠”と遭遇し、畏敬の念を剣の舞に込めたのだろうか。ともあれ、笠と杵を想起させ、雨乞い信仰が残る霊山麓に、笠を被り杵を振る祭りがあることは、単なる偶然と思えず興味深い。
     古代の日本では桜が散る頃に、その花びらとともに疫神が飛散し、疫病を流行らせると信じられていた。しかしながら、キラキラ光る桜吹雪の中、幻想的に舞い踊る異形達の姿は、誰もが魅了される呪力を宿すかのようだった――。

    笠の集団がUFO編隊に見えてくる、かもしれない。
    これにて、疫病退散である。

    影市マオ

    B級冒険オカルトサイト「超魔界帝国の逆襲」管理人。別名・大魔王。超常現象や心霊・珍スポット、奇祭などを現場リサーチしている。

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