数を刻んだ縄文土器「どばんくん」は「魔笛」だった!/MUTube&特集紹介 2024年9月号
大湯ストーンサークルから出土した謎の板状土偶。そこに刻まれた穴の配列には、じつは重要な意味があった。三上編集長がMUTubeで解説。
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「月の裏側を念写した」人物として、大正から昭和にかけてその名を馳せた霊能力者・三田光一。だが、三田の能力者としての真髄は「念写」だけにとどまらなかった――。本稿では、三田の軌跡を振り返り、不世出の霊媒の真実に迫る。
目次
三田光一の霊能といえば、だれもが真っ先に挙げるのは驚異的な念写能力だが、これは福来友吉とのコンビによる念写実験の業績のみが広く知られてきたためで、彼の能力は念写にかぎったものではない。念写以上に凄まじいのは、時間・空間を超えて働かすことのできた透視能力で、この力があるからこそ、三田の驚異的な念写も成立しているのだ。
三田の人となりや人生は後述するとして、まずはその透視の実例を、新聞記事をもとに見ていくことにしよう。
三田の名を世間に知らしめた最初の透視は、刑事事件に関わるものだ。
大正3年、阪神と四国を結ぶ汽船に積んだ郵便物が盗まれるという事件が相次ぎ、前科10犯の森鉄丸が逮捕された。郵便行李(こうり)中の現金や為替証券などは抜き取り、残りは4個の行李に押し込んで捨てたと森は自白したが、隠匿場所や遺棄場所については頑として口を割らず、係官を手こずらせた。
その後、ようやく行李は神戸市内の蟹川尻と旧居留地海岸の京橋付近の海中に投棄したと自白したが、これだけではまだ漠然としすぎており、証拠の物証を揚げることはできない。そこで相生橋署の小林署長が、千里眼で知られる三田に、郵便行李の透視を依頼した。以後は新聞から引こう。
「(三田が)『元居留地京橋の海岸より14歩沖合の海底に、1個沈没しあり。それより約1間半を隔てたる右手にペンキの空罐あり。その横手に1個。また東川崎町蟹川尻桟橋の板の3枚目と4枚目の下に1個ずつ沈没せり』と断言したるより、14日、同署長は藤本刑事外数名を随え水上署の汽艇に乗り、前記の場所に錨を入れたるに、寸分違わず4個の行嚢(こうのう)を引き上げたるのみか、(透視通りの)空罐まで引掛りたる有様に、何れも今更ながら驚嘆」(「神戸新聞」大正3年6月16日)
この贓物透視は、センセーショナルな出来事として世人の耳目を集め、「神戸新聞」のほか、「大阪朝日新聞」、「国民新聞」、「日本貿易新聞」など多数の新聞が報じている。
こうした透視は、千里眼の興行や実験会においても毎回行われたが、2種類の別があった。ひとつは御船千鶴子ら「千里眼」能力者がやったような、容器等に封じ入れられた物をいい当てる物体透視。もうひとつは、遠隔地の情景などを脱魂して見てきた上で、舞台上で披露する遠隔透視だ。
前者の透視には手品やイカサマといった批判が必ずつきまとうが、後者はそうはいかない。そのためか、三田は積極的に遠隔透視を行ったが、透視ぶりは凄まじかった。その場で出題された特定人物の商売、店頭陳列品、電話番号、家人や商家・会社などの現在の様子、現時点での客数、特定の場所の銅像や記念碑の具体的な描写などを、舞台に立ったままで透視した。
たとえば、大正4年11月の沖縄の実験会では、①那覇警察署長・和田竹四郎の自宅床の間の掛軸は何か。②宮城医院の3号室では今何をしているか。③久米町の聖廟内部の状況はどうなっているか、などの問題が出された。
三田は、「一括して巡ってきます。これには空間も時間もありません」と観衆に語ってから、統一・脱魂状態に入った。「一括して」というのは、一度の脱魂でお題の場所を全部回るという意味だ。一括ではなく、お題ごとに統一・脱魂を繰り返すこともある。
脱魂している時間は多くの場合2分内外。ときには1分以内で終えることもあり、非常に短い。その短時間でお題の問題にかかわる場所に行き、リアルとしかいいようのない正確さで情報を持ち帰るのだ。
このときの三田の透視の様子を、「沖縄朝日新聞」はこう記している。
「『宮城医院の(3号室の)入院患者は慥(たし)かに外科手術を施したる者にて、2ヶ所切開したり』と明言し、廊下を歩く看護婦の姿まで歴々と透視し、(院長の)宮城(普喜)氏をアッと云わせ、『和田氏の掛軸は鮮やかならねど2つの物体を並べて画いた絵軸なり』と迄は中りしが、成功の域に達せざりしも、久米の聖廟は『泉崎の橋際に至り、車夫に聞いて分かりしが、門も閉じ人も在ず。門の色は赤い屋根瓦の色に似たり。更に透視中の透視を行うて中に入りしに、正面の檀上紙障あり、左右に行燈の如きものありて、至聖先師孔子神位の8文字を縦記せる標札あり』とて自ら筆を執りて大書したるには破るるが如き喝采なりき」(「沖縄朝日新聞」大正4年11月23日)
三田の透視が正しいかどうかを、警察関係者や新聞記者などが電話で確認しているケースもある。その一例として、岐阜新聞社主催の心霊現象実験会を挙げよう。この実験会を見るために岐阜市公会堂に押し寄せた入場者は44000人余。定員は3500人だったが、なお入口に数百名が殺到したため、岐阜警察の早野署長の斡旋で、あと500名を入場させたとある。
この日の遠隔透視も冴えに冴えた。新聞を引く。
「『金津海月楼二階の応接間の植木は何か』との質問に、(三田は)『カフェー式になっているが、あれが青楼(遊女屋)とはおかしい。店に客が二人いる。応接間は上がった直ぐのところにあり、盆栽は松であり、その傍らに裸体の額がある。今、弥生と名づくる丸ぽちゃの背の低い娼妓さんが上ったところだ』と答えた。記者がすぐ電話で問い合わせると、果たしてその如くで、少しの間違いもない」(「岐阜新聞」昭和8年11月14日)
脱魂して現場を見て帰った三田は、この調子で次々とリアルな情景を語っていく。この日、観客から出された15題のうち、14題を見事に透視したと新聞は報じ、「只不思議、霊妙というより他に評しようがない」と結んでいる。かの有名な月裏の念写は、この日の実験会で撮られたのである。
興行以外でも、三田は気軽に透視の依頼を受け、人助けには積極的に協力した。たとえば大正9年12月26日午前10時20分、神戸市須磨の自宅で、三田は長崎県南松浦郡玉の浦村の入口光右衛門青年から、以下の電報を受けとった(電報のカナ文はすべて漢字かな文に改めた)。
「昨夜九時 浦校長 小船に乗り 湾内にてイカ引き中に 波にさらわれて生死不明 御透視の上 御指示あおぎたし」
急報してきた入口青年や、遭難したという浦健一郎校長は、三田とは前年来の付き合いだ。三田はただちに遠隔透視を行い、返電を打った。
「津多羅島の南側 砂浜の岩に挟まれておる 現場に行けばすぐ知れる」
津多羅島というのは、浦校長や入口青年らが暮らす大宝郷から東南約3海里の小さな無人島だ。三田の知らせを受けた入口ら青年組は、ただちに津多羅島に向かったらしい。そしてその日の16時50分、三田は入口から以下の返電を受け取った。「お指図の場所にて死体発見した 謝す」──三田の透視により、その日のうちに校長の遺体が収容されたのである。
遠隔透視に出た三田の魂は、はるか海外にも瞬時に飛んだし、宇宙空間にも、また過去や未来にも飛んだ。三田の記録を見ていくと、彼に透視できないものはなかったのではないかという思いすらわいてくる。
それら透視の中でも興味深いものに、人体内部の透視がある。
大正6年、澤柳久子という少女が原因不明の腫れ物を患った。手を尽くして探ったが、医者にも何の病気か摑めなかった。そこで、経緯は不明だが、ひとつ千里眼の三田に透視させてみようという流れになった。
三田は了承し、同年夏に透視結果を公表した。その記事を読んだ者の中に、甲府病院外科部長や飯田病院外科部長などを歴任した著名な外科医の石井虎秋がいた。
三田の透視内容が自分の所見と大差なかったため、石井は「窃(ひそ)かに吃驚(びっくり)」し、三田の所見内容を記録した。そうして翌年、南信州の新聞に、自分の感想を加えて三田の一件を紹介したのである。
三田の透視は以下の5点だ。
①腫れ物は先天性である。
②腫れ物は背骨の右側から発生している。即ち腎臓である。
③腫れ物が腸を圧迫・転移せしめており、さまざまな妨碍を為している。
④かつて大阪で自分が透視したことのある肉腫なるものとは全然別のものである。腫れ物の内容は、葡萄の実の中のようである。
⑤手術をすれば一時的に軽快して、若干の寿を得る。
三田の透視もあって、世間の好奇の目が少女に集まったが、その後少女は肺炎を併発し、6年の秋に亡くなった。父親および主治医の希望により解剖が行われた。結果、少女の病気は「先天性腎臓腺肉腫」であることが判明し、その後の調査で、日本では明治36年から大正6年までの間にわずか10例のみの稀少な難病だということも明らかになった。石井はこう書いている。
「解剖の結果は……大体に於いて三田氏のいう所に符合したり。即ち腫瘍は胎生的腎臓肉腫というべくして、右側に発し、腸管との関係及び内容(肉腫の中身)の髄様なるが如きは三田氏のいえるが如し。……かかる稀有なる病症、専門家も容易に断ずるに躊躇するものに向いて、苦もなく即座に(病因や病態を)言明する所は決して医学的考察の結果にあらざるは明らかなり。即ち直感的のものなるべし」(「南信」大正7年1月16日)
科学サイドに立つ石井は、透視という現象そのものについては判断を留保している。けれども、三田の透視の実例を見ていけばいくほど、否定するのは困難だという思いが募ってくる。
三田光一とは何者なのか。その人生を追っていくことにしよう。
三田光一は本名を才二という。父・三田半造は天保13年生まれの旧南部藩士、半造より15歳年下の母とりゑは旧姓斉藤といい、明治14年に半造と結婚した。半造はもとは花巻に住んでいたが、西南戦争後の明治12年から14年の間に一旗揚げるために気仙沼に移住した。才二が生まれたのは明治18年8月17日で、上に友一という長男がいる。
半造の商売については、大工、機織業、興行師など諸説があるが明らかでない。福来は「気仙沼で百五十台ばかりを持っている機屋」の経営者だと記者に語っているが、当時の状況等からとうてい事実とは考えられず、三田の粉飾をそのまま信じての発言の可能性が高い。
三田家の生活は苦しかった。友一は自転車に小間物を積んで売り歩き、才二も尋常小学校2年で中退して気仙沼の中井浅吉糸店で2年間の丁稚奉公をした後、独立して駄菓子や甘酒を売り歩く浜売人となっている。
三田の霊能は生まれつきだったらしい。5歳のころから特異現象が発現しだし、見ず知らずの相手の心を読んでしまうとか、試験問題を予知して教師を困惑させるなどのことがあり、周囲を無気味がらせた。
長年の交友歴がある飯坂温泉主人の佐藤権右衛門は、「せんだっての火事は誰さんがやった、あの人のものを盗んだのは誰さんだということを……悪気もなく、ただ単純に感じたままに云う。すると、それが近所の評判になり、狭い街中のことでもあり、すぐに警察の耳にはいってしまう。警察は半信半疑ながらも、調べてみると、事実そのとおりだったことが数回あった」(「三田氏の念写実験記録と私の体験」)と回想している。
これが狐憑きと見なされ、明治26年、才二は小学2年の秋に登校停止処分を受けた。気仙沼北方山麓の法華寺で、狐落としだとして尻の二か所に真っ赤な焼火箸を当てられたこともある。火傷痕は後年まで残っており、知人との入浴時、その痕を見せて「あのジワジワと熱かった思いは決して忘れられず、当時の恨みは骨髄まで達した」と漏らしている。
その後も狐憑きは治まらず、警察監視のもと明治28年には座敷牢押し込めとなった。翌年10歳でようやく座敷牢から解放され、最終学歴が尋常小学校2年のままで、先に記した糸屋の丁稚となったのである。
独立して浜売人となったのは、明治31年12歳のときで、その後各地を興行して回る魔術団の座員となった。三田自身が知人や記者たちに語っていた経歴では、「英人魔術師ギャクラー」の弟子となり、「ギャクラー光一」の芸名をもらったという。また、気仙沼の郷土史家で、実家が三田の父・半造の最初の家やとりゑの実家に近かったという佐藤秀一も、「英国の魔術師ギャクラー一座に入り、朝日光一の芸名で旅芸人として全国を回るが、十八歳のときに肺結核になって退団」したと書いている(『鼎ケ浦物語』)。
けれども、ギャクラーという名の英人魔術師は、筆者が調べたかぎりでは見当たらない。これはおそらく日本人マジシャンのジャグラー操一のことだろう。操一は松旭斎天一と並び称された「我国奇術界の泰斗」(「読売新聞」明治39年12月25日)で、「朝日光一」という名の弟子もいた。後に才二が光一と名乗るようになったのは、この魔術団時代の芸名に由来するものと思われる。『気仙沼町誌』も、三田光一を名乗る以前、才二は「朝日光一」の芸名で奇術等を行って各地を興行していた旨を記している。
ところで三田は、なぜ日本人ではなく、英国人魔術師の弟子などと経歴を詐称したのか。そのわけは“黒歴史”の隠蔽にあったと思われる。
明治34年16歳で一座に入り、36年暮れ、18歳のときに結核を患って退団後、明治40年まで治療に専念したというのが三田の表向きの経歴だ。著書『霊観』でも、「吾人は明治三十六年の師走より肺結核に犯され、同四十年の立春まで四十ヶ月の間を病床に暮らした」と書いている。
しかしこの経歴は信じられない。一座退団の翌37年から39年3月(19歳~21歳)までの間、三田は3件の連続犯罪で刑事被告人となり、逮捕・収監を繰り返しているからだ。三田の地元紙「気仙沼新報」(大正7年2月10日)によると、明治38年1月14日に窃盗罪で重禁錮2月15日監視6か月(於東京地方裁判所)、出所から間もなくの同年4月11日に再び窃盗罪で重禁錮4か月監視6か月(於東京区裁判所)、さらに同年8月17日には詐欺罪で重禁錮8月罰金8円監視6月(於東京控訴院)の刑を受けている。
判決通りに収監されたとすれば、最後の出所は明治39年3月中旬。その後、40年4月29日に徴兵令違反で罰金5円の判決(於気仙沼区裁判所)も受けているので、この時点で三田は前科4犯ということになる。
三田が犯した窃盗や詐欺の具体的な中身は不明だが、最初の事件が一座退団後の36年末、もしくは37年と考えられるので、これが退団の原因だった可能性もないではない。いずれにせよ、明治36、37年から40年までの間、三田は逮捕・裁判・収監をくりかえしていたわけで、その期間が「肺結核」の期間と完璧に重なり合う。当時は死病と恐れられ、隔離状態での病床暮らしが当然だった肺結核患者が、繰り返し窃盗や詐欺で逮捕・収監されたなどということはありえる話ではない。この刑務所と娑婆の往還の時期を隠すため、肺結核という病歴を創作した可能性が高い。
師事したマジシャンを英人としたことも、経歴隠しと関連している。明治時代から数多くの欧米マジシャンが実際に日本に出稼ぎに訪れていたので、設定そのものに不自然さはない。また、外国人の一座なら世界を巡ることになるので、黒歴史も隠蔽できる。三田は、ギャクラーの弟子以外の偽経歴もつくって吹聴し、数多くの新聞がそれをそのまま記事にしていた。
その経歴とは、少年時代に台湾に行って米国心理学の大家ショーマン氏(ジョンマーとも)に師事し、心理学や奇術などの技芸を学び、米国、スペイン、ポルトガル、デンマークなどを巡業して帰国したというものだ。渡米して8年間、欧米で心理学の研究に熱中したという新聞記事も見える。こうして三田の前半生の経歴は隠蔽されたのである。
三田が活動を再開したのは、明治40年22歳のときだ。自らこれで結核を治したと称する大気療法の指導がメインだが、奇術の余興も演じた。このときから三田光一の芸名を使っていたと、前出の佐藤秀一は書いている。
翌41年、大気療法の普及を目的とする一種の霊術団体「洗心会」を設立したが、その翌年、霊術業界を揺るがす大事件が勃発した。東京帝国大学助教授の福来友吉が「千里眼」御船千鶴子を発掘し、学界・マスコミを巻き込む千里眼ブームが起こったのである。
三田もこのブームにただならぬ関心を抱いた。千里眼能力は三田にもあり、彼はそれを自覚術と呼んでいた。福来の霊媒たちと比べても何ら遜色がないどころか、はるかに凌駕する潜在力を秘めていた。
すでに10代で人生の辛酸をなめつくしてきた三田は、千里眼に対する世間の異様なまでの興奮や関心の高さを見て、商売になると直感した。やるならまずは舞台興行だ。学術研究のためとして引っぱり出された御船千鶴子や長尾郁子は、学者や新聞の袋だたきにあって無惨な末路を迎えている(千鶴子は明治43年自殺、郁子は44年病死)。あんな使われ方では、とても商売にはならない。
三田は得意の手品と透視を組み合わせた興行を組み立て、明治44年8月1日、東京明治座で「千里眼自覚術・三田光一」としてデビューした。ここから超能力者・三田光一の破天荒な人生の第二幕が開くのである。
明治44年8月、東京・明治座における初舞台の演目が伝わっている。皿を空中に舞わせる手品、箱の中身の透視、物品引き寄せ、大道芸の一種である身体石割術などだ。
この公演には、国内はもとより満州・朝鮮の新聞記者まで招待したほか、松竹創業者の大谷竹次郎も招いた。ステージを見た大谷は、さっそく自覚術の興行を買った。そこで三田は、東京に次いで大谷の興行圏である京都・大阪でも公演を行い、さらに朝鮮の京城に足を伸ばして同地の寿座で公演。朝鮮王宮の昌徳宮に召されて透視などで王族を驚愕させ、その後、平壌、大連、上海などの公演を経て帰国している。三田は、興行師としても一流の感性を備えていたのである。
こうして三田は、手品や大道芸も一流の「千里眼自覚術者」として国内外の舞台に立ちつづける一方で、軍人や中国内の革命派のために、透視を請け負った。軍関係では、気仙沼出身の朝鮮師団参謀長・広野太吉大佐の依頼で水源透視を行って井戸を掘り当てているし、明治45年には上海で孫文による中華民国南京臨時政府のために北京の袁世凱の動向を透視し、それを逐一、臨時政府側に報告するという危険な仕事にも従事している。
これは宮崎滔天(とうてん)・頭山満の仲介による仕事で、宮崎と三田には親密な付き合いがあったらしい。上海における三田のアジトは、宮崎らの口利きで黄興(こうこう)宅が充てられた。黄興は革命派の秘密結社・華興会のリーダーで、孫文とともに「民国革命の双璧」と称えられた男だ。この黄興と孫文を引き合わせたのが宮崎滔天であり、三田はその縁で黄興宅に落ち着いたのである。
袁がいつ軍を南京に進発させるかを、透視によって探る──これが三田の仕事だった。ところが袁は心が揺れて定まらず、朝令暮改の連続だった。それをそのまま報告していたため、革命政府側が三田の透視に疑問を抱き、結局契約が解かれた。三田は黄興のアジトを出て上海・米租界のホテル東和洋行に一室を借りた。ところがそのホテルで中国人宝石商が殺される事件が45年6月にあり、しかもその絞殺死体が三田の部屋の洋服戸棚から出てきたため、三田は容疑者として逮捕され、日本領事館に引き渡された。
監禁された領事館の一室で、三田は必至に犯人像の透視を行った。その結果、犯行時から今に至るまでの経緯が、明瞭なビジョンとなって見えてきた。そのあらましを、三田は後日、「大阪朝日新聞」の記者に語っている。
「……犯人は支那商人を絞殺してから、その犯跡を暫し晦ますために、其所にあった鍵を以て第22号の部屋(三田が借りていた部屋)の錠を卸した。そして盗み取った宝石の全部と共に洋ポケット嚢に納めて立出でた。(犯人は)ひとまず我が旅館に帰った後、宝石中の1個は下女に与えた。後を隠す拍子に内2個を火鉢に取り落とした。これで2、3千円の現品は減っているが、残りは大切に懐中して汽車で走った。途中、鍵は列車の窓から捨てている。目下、上海と南京の間にある『上関』の駅に潜伏しているのは確かで、名は守山新太郎という日本人である」
当初警察は、三田の透視をでまかせと見なし、相手にしなかった。けれども刑事のひとりが透視に沿って捜査したところ、驚くべきことに「上関」で守山を捕まえることができた。守山は犯行を自供し、盗品も所持していたので、彼の犯行と確定したが、署長はなおも三田も共犯だと主張した。透視で犯人の名や行方までわかるはずはないというのがその理由だった。
三田の身柄は守山とともに日本に移送され、長崎裁判所で審理された。その結果、大正元年10月に無罪が明らかとなって三田は放免、守山には死刑判決が下ったのである。
上海における驚異的な透視も、三田の名を大いに高めた。透視により犯人や逃亡者、隠匿物などを突き止めたケースはほかにもある。先に紹介した郵便行李の透視もそのひとつだ。
また大正の初めごろ、宮崎県油津市に滞在中に都城・蛭子樓主人の中山与一から「娼妓2名が逃げた。逃走先を透視してほしい」との依頼を受け、「娼妓2名は熊本県八代の停車場で男2名と合流し、4人連れでいま鹿児島に向かっている。彼らの列車は2時間後に人吉駅を通過するから、人吉警察署に連絡して確保してもらうとよい」と指示し、透視どおり人吉駅で捕まったケースもある(『愛媛新報』)。
それゆえ当時の新聞の三田の紹介記事には、「司法犯人の透視や三陸海嘯の予言、海底の透視を行って当局者を驚倒せしめた事も一再でない事は、既に社会が知悉している事実だ」(『福井新聞』大正4年)と書くことに躊躇しなかったのである。
他方、三田の名を大いに広めたもうひとつの霊能である念写は、大正2年ころから始められた。福来が三田の透視能力に注目して念写実験の数々に着手したのは大正6年以降だ。この念写については、すでに多くの著作があり、筆者もかつて「ムー」その他で書いているので省略するが、三田イコール念写能力者という偏ったイメージは、明確に否定しておきたい。三田の能力はそんな限定的なものではない。大半の物理的心霊現象を、三田は起こした。念写能力は、三田の能力の一部でしかないのである。
福来とともに念写実験に取り組む一方、三田は興行も引きつづき行ったが、傑出した能力者だと世間に認知されて以降は、キワモノ観のある奇術などはやめ、専ら講演・透視・念写などに注力した。催しも、多くは新聞社などの主催による「実験会」という形式に替わっていった。
その中で、三田は数々の予言も行っている。三田の予言は、透視の一種にほかならない。実験会に集まった観客の要望に応えて、現在のみならず過去や未来の透視まで行ったのである。
たとえば大正3年。この年7月28日に第1次世界大戦が勃発し、連合国陣営の日本も8月23日にはドイツに宣戦布告しているが、その1か月前、三田は日本の参戦を透視して神戸の識者階級に警告を与えている。
また大正3年11月3日の岡山市における実験会では、聴衆の中学教師から「ただ今ワルデック将軍負傷の号外が出たが、負傷の程度および青島(チンタオ)の陥落期を問う」という題を出され、未来を含む遠隔透視を行っている。質問にあるワルデック将軍は、正しくは「ヴァルデック海軍大佐」で、ドイツの青島要塞の総督の地位にあった。当時は日本による青島要塞攻略の真っ最中だったから、敵将の動向や攻略の時期は、多くの国民の最大の関心事だった。
この質問に対する三田の答えはこうだ。
「別に大した負傷じゃありません。通行中、屋根の瓦が落ちて軍服の上から腰部に一寸打撲傷を受けたばかりで、ワルデック本人は平気で活動しております。……(陥落の日取りについては)只今敵軍の最高幹部連中が密議を開いておりましたので聞いておりますと、只今から開城準備に着手して、来る(11月)7日の午前中に開城する事に一決しましたから、今晩から4日目、即ちこの7日の朝、青島が我が軍の手に帰します」(「愛媛新報」大正5年2月16日)
透視は的中した。ドイツ軍はまさに11月7日に降伏の白旗を掲げたが、時間は三田が「午前中」と明言したとおりの午前6時30分。その後、午前9時20分にドイツ軍の使者が、日本側軍使の香椎浩平少佐に降伏状を届けた。この近未来を、三田は青島要塞内に入って、その目で見たのである。
こうした透視を、三田は昭和に入って以降も観客の求めに応じて行っている。たとえば昭和4年7月21日、「摂陽新報」「新播磨」「播丹日日新聞」3社連合主催による「千里眼念写大実験会」で、観客から「金解禁の時期」を問われた三田は、数分の統一瞑想の後、こう答えている。
「金解禁は来たる11月。内閣の解散は明年(昭和5)2月断行。時日も判っているが公衆の前では云わぬ」(「新播磨」昭和4年7月24日)
金解禁は賛否入り乱れて混沌としていたが、三田の未来透視通り、11月21日に政府から金解禁の決定が発表された。解禁に踏み切ったのは浜口雄幸内閣だが、同内閣の解散総選挙の投票日は昭和5年2月20日。これまた三田の透視通りに進行したのである。
三田が熱意をもって取り組んできた透視に、地中や海中の透視がある。デビュー年である明治44年時点で、すでに地下水脈の透視を行って井戸を掘り当てているが、大正元年には滞在中の宮崎で「青島村字折生迫に温泉と鉄鋼があるはずだ」と透視し、9か所の温泉湧出地を発見している。これが後の観光名所・青島温泉だ。
大正8年には、洪水でさびれていた岐阜県の下呂温泉復興にも尽力している。洪水の憂いのない新たな土地の温泉脈の位置を三田が透視し、掘削の指導をしているのだ。「岐阜日日新聞」は、こう報じている。
「径4インチのボーリング坑を試掘中、地盤以下40尺に達し、85度の温度を示せるより、更に三田氏の透視を乞いたるに、『地下40尺余にして100度以上の温度を有する』旨を断言したるが、果たして地下40尺余にして105度の温泉を示し、尚掘下ぐるに従って温度を増し来るにぞ、工夫等は大いに勇み立ち、118度以上の温度となるまで掘下げんとて、目下工程を急ぎ居れりという。右事業にして完成せんか、下呂温泉の復活となり、一時に昔時の繁盛を盛返すに至る云々」(大正6年4月3日)
三田には、透視や念写などの超常能力を神仏にからめ、教団化して儲けようといった気持ちはなく、興味を示すこともなかったが、地下水や温泉、埋蔵宝物、宝物を積んだ沈没船などの透視には強く執着した。自身が会長を務める洗心会を発展させた「帝国自覚会」に透視部と作業部を置き、井戸や鉱山、海中の遺宝探査などに乗り出したのもそのためだ。
この傾向が顕著になってきたのは大正9年以降で、長崎県五島列島の大宝沖に沈没した唐船の探索や、韓国仁川沖のロシア・ウラジオ艦隊沈没船の引揚、佐世保沖や福井沖の沈没船引揚などの事業に次々と着手し、大宝沖の探索では「銅7万斤、その他金銀器具」や「慶長小判24、5枚」を引き揚げた(「長崎日日新聞」大正10年2月19日)。これらの事業のために、三田は長崎の造船所で長さ2間(約3.6メートル)、15馬力のモーターボートを造らせており、自ら操縦する予定と新聞には報じられている。
ところがこの引揚事業は思わぬ失敗で頓挫する。大正15年9月3日、滞在中の東京ステーションホテル23号室で、三田が逮捕されたのである。
話は慶応3年に遡る。この年、薩摩に向かっていた琉球船松保丸が、台風に遭って沈没。船には琉球王から薩摩の島津に献じられるはずだった金銀陶磁器が積まれていた。三田は透視によって沈没船の在処を特定し、7月16日に潜水夫45人を雇い入れて、首尾よく積み荷の引揚げに成功した。
ここまでは透視通りに事が進んだ。当時の新聞は、「金の延べ棒250本の引揚に成功」と報じている。ところが実際に出たのはガラクタで、金の延べ棒などの財宝は出なかった。そのため潜水夫らが賃金未払いで三田を訴え、鹿児島警察署が捜査に乗り出した。その結果、金の延べ棒は偽物と判明し、詐欺罪で立件されて、翌年まで服役したのである。
この事件で三田は前科5犯となったわけだが、こうした見立て違いは過去にもあった。この「琉球王の金塊引揚事件」は、欲が絡んで透視の目が曇った典型例といえるだろう。ちなみに川端康成はこの金塊引揚事件に興味をもち、関連資料を集めて短編「金塊」を書いている。
この事件により、三田は一時、社会から姿を隠した。そのことは、三田の唯一の遺品である3冊の新聞切抜帳に表れている。
明治44年から昭和9年までの間、三田は自分に関わる記事を丹念にスクラップしており、ひとり息子の三田健一氏がそれを受け継いだ。心霊科学上の至宝といってよいこの切抜帳は、その後、健一氏の遺志を受けた神戸の心霊研究家・巽直道が200部の限定で昭和55年に刊行した。この貴重な資料を見ると、「琉球王金塊引揚」の準備から実行、逮捕、服役に至る期間に相当すると思われる大正13年から昭和元年までのスクラップが、もののみごとに欠落しているのだ。
出所後、三田はすぐに朝鮮に渡ったらしい。昭和に入って1枚目のスクラップが、朝鮮・開城劇場における公開実験を報じた昭和2年8月14日付「朝鮮商工新聞」だからだ。実験会では、来会者からの出題により、開城市の名勝として知られる朴淵の滝と、14世紀の高名な儒学者・鄭夢周を「僅か11秒」で念写している。三田の能力は、出所後もまったく衰えていない。
いわばほとぼりがさめるのを待つために訪れた朝鮮で、三田は帝国自覚会の支部をつくり、昭和3年ないし4年の初めごろに帰国した。以後も散発的に実験会を行ったが、メインで注力したのは水脈や鉱脈の透視だった。
この方面における三田の能力が最も遺憾なく発揮されたケースに、昭和9年の宇部市の工業用水がある。深刻な水不足に悩む宇部市にとって、工業用水の確保は市の存亡を左右する最大の課題だが、確保のメドはまったく立っていなかった。そんなさなか、三田が宇部市を訪れた。そこで市の有力者が、ワラにもすがる思いで地下水透視を依頼した。
以後、まったく嘘のような実話が展開されるのだが、正確を期すために「大阪朝日新聞附録山口朝日」の記事から経緯を見ていく。
「三田氏は(5月)22日、市の長老・渡辺祐策氏、高良(宗七)市会議長、西村(宇吉)市会議員と工業倶楽部において会見、地下水に関し透視した結果、宇部市内某地点約10坪の土地(特に秘す)深さ320尺のところ、および450尺のところの二ヶ所に素晴らしい地下水があり、15インチのパイプにて揚水する時は、優に1日12、3万立方米(約7万石)、即ち市上水道全能力約9万立方米(5万石)に比し、一倍四分の水量を得ることができるというので、前記三氏は三田氏とともに自動車でその地点に至り、土地を点検するとともに、三田氏の言を信じてボーリングなどの試錐を一切廃し、直に揚水工事に着手することに即決(した)」
この三氏は三田とは一面識もない。にもかかわらず、三田の言、しかも透視による言を信じて、試掘もせずにいきなり揚水工事に着手すると決めたというのだから驚く以外にない。
ここで三田の透視を受け入れ、ただちに揚水工事に入る決断を下した渡辺祐策について書いておく必要がある。渡辺は沖ノ山炭鉱、宇部鉄工所、宇部紡績、宇部セメント製造、宇部窒素工業などを興した大事業家であり(これらの企業から後の宇部興産ができる)、明治45年からは衆議院議員として政界でも重きをなした政財界の重鎮だ。その渡辺が、自分の生きている間にどうしても解決しておきたかったのが宇部市の工業用水問題だ。
三田の透視の前、宇部市は30万円を投じて2か年計画で上水道の拡張工事を行うことを決めており、渡辺の沖ノ山炭鉱も50万円を投じて工業用水用の水道を敷設していた。さらに宇部市では、地下水調査も行っていた。
新聞記事から引用しよう。
「最近広島市の某会社が宇部市の依頼を受け、地下水の調査を行ったところ、望みなしといって帰った矢先にも拘わらず、渡辺氏らが一面識もない三田氏の透視を信じて大胆にも直に着手を決するに至ったもので、数ヶ月後にはその結果が判然とするが、はたして宇部市を救うべき水がでるか、世の物笑いとなるか、市民の興味はこの一点につながれている」
すでに専門家から「望みなし」と否定されてはいたが、三田の自信は揺らがなかった。着手前のこの時点で、三田は記者にこう答えている。
「きっと出ますよ。現に兵庫県揖保村の伊藤忠兵衛氏の事業会社である富山の呉羽紡績でも、専門家が駄目だといったのが私の透視で出ている」
伊藤忠兵衛とは、後の大商社・伊藤忠の初代だ。この大実業家もまた三田の透視能力に注目し、自らの事業に活用した。後年、三田は伊藤忠商事の顧問についており、ほかにも日本鑿井株式会社社長、江南実業公司(上海)取締役、その他7、8社の社長・重役を兼務している。
話を宇部に戻そう。水はどうなったのか。同年10月25日の「大阪朝日新聞」から引用しよう。
「(10月)24日午後1時、地下170尺のところで12吋のパイプより滾々たる清水の揚水を見るに至った。……桃田課長の推計日算2万石……意外の豊量で地下水揚水研究所では大いに力を得たので、更に付近に2本、揚水工事を起こすことに決定、日算少なくとも10万石を揚水する計画で、この凱歌は実に宇部市の工業を大盤石の上に置くものとして祝福されている」
当初の水量が日算2万石にとどまったのは、三田が指示した深さ320尺の半分の深さだからだ。この結果を受けて、工事の主体である宇部地下水揚水研究所は、三田が指示した深さまで掘り下げることをただちに決定した。専門家に「望みなし」と見棄てられながらも、三田の透視を信じて一世一代の大博打にゴーサインを出した渡辺祐策は、成功を見る前の7月20日に逝去したが、彼の遺志はみごとに貫徹されたのである。
このころから晩年に至るまでの間の三田は、鉱物資源や水資源を透視発掘して、戦時体制まっただなかの国家に奉仕するという仕事に没頭した。
プライベートでは、昭和12年に二度目の妻であるスエノが急逝している。「美人でおとなしく、子どものころから熱心なキリスト教信者」(佐藤秀一)だったという女性で、このスエノとの間のひとり息子が健一氏だが、氏もすでに故人となっている。
健一氏は、福来友吉の後継者らによって発刊された『福心会報』のもとめに応え、晴康の筆名で「父三田光一の思い出」を寄せている。
「亡父の唯一の贅沢と道楽はといえば、身につけるものは殆んど気に入りの職人さんに依頼して、入念に別誂えしたもののみを用いていた事ぐらいでした。……家庭人としての生活の安定を一応得られ始めたのは……呉羽紡績の客員として正式に迎えられた頃からで、突然その生を了るに至りました昭和18年5月迄、年数にして10年足らずの間でありました」
逝去は右にもあるとおりの昭和18年5月7日。呉羽紡績・大阪本社内の日本鑿井で執務中、電話で話していて何かに激高し、脳溢血を起こしての突然死だったという。
戒名は靖徳院心応坊力居士。大正時代から日米開戦を予言・公表し、巨大爆撃機による日本本土空襲まで透視していたが、最後には日本が大逆転勝利を掴むとも信じていた。その結果を見る前に、不世出の霊媒は唐突に地上から去ったのである。
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