奇書「契丹古伝」が語る日本人のルーツ「辰国」の謎/古銀剛

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    「日本語の起源は中国東北部にあった!」 昨秋、イギリスの科学雑誌「ネイチャー」に日本語のルーツに関する新説が発表された。ところが、今から100年近く前にこれと同じ説が、日本のある研究者によってすでに唱えられていた。

    大正15年(1926)に出版された奇書『日韓正宗溯源《にっかんしょうしゅうそげん》』。謎の古史古伝 『契丹古伝きったんこでん』が収録されている。著書は元陸軍将校の浜名寛祐はまなひろすけ
    イギリスの科学誌「ネイチャー」のサイト。 昨年11月に「トランスユーラシア語族の諸言 語は中国東北部にルーツをもつ」と結論づけ る論文が発表され、注目を集めた。

    「ネイチャー」に発表された日本語のルーツ

     昨年の11月10日、イギリスの名門科学誌「ネイチャー」に「トランスユーラシア語族の諸言語は中国東北部にルーツをもつ」と結論づける新説が発表されて、ひとしきり話題を呼んだ(論文の原題はTriangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages)。
     発表者はドイツのマックス・プランク人類史科学研究所を中心とした研究チーム。このチームには、ドイツの他に日本・中国・韓国・ロシア・アメリカなどの言語学者・考古学者・人類学者ら、総勢30人以上が名を連ねている。
     この論文には、じつは日本人には聞き捨てならないことが書かれている。
    「日本語のオリジンは中国の東北地方、いわゆる満州まんしゅうで発生した」と指摘されているからだ。

     論文の要旨を説明してみよう。
     トランスユーラシア語族(アルタイ諸語)は日本語・韓国語・ツングース語・モンゴル語・チュルク語など98言語から構成され、東は日本、韓国、シベリアから、西はトルコにいたるまで、ユーラシア大陸全域に分布している。

    新説を記した「ネイチャー」論文に掲載された図。3のエリアがトランスユーラシア語族の起源とされる中国の遼河流域で、ここから民族の移動とともに東西に言語が拡散されていったのだという。

     その最大の特徴は、英語や漢語などとは違って、「目的語の次に述語がくる」という点だが、従来、この語族については、中央アジア大草原の遊牧民が起源であり、彼らが東へ西へと移動したことで各地に広まったとするのが、通説であった。

     ところが、言語学・考古学・遺伝学の3分野のデータをもとに学際的に検証・分析したところ、初期新石器時代にあたる約9000年前の中国・遼河りょうが(中国東北部の南部を流れる川)の流域で雑穀のキビやアワを栽培していた農耕民の言語がトランスユーラシア語族の起源であることが、明らかになった。そしてその後、この農耕民が東と西に移動したことで、トランスユーラシア語族の拡大がはじまった。
     東への伝播でんぱに注目すると、彼らの一部は数千年かけて朝鮮半島に移住し、農耕の普及とともに言語も拡散させ、韓国語の原形が形成された。朝鮮半島では農作物にイネやネギも加わり、今から約3000年前には海を渡った移住者によって日本列島へ水田稲作が伝えられ、言語としては「日琉にちりゅう語族」が形成された。日本列島にはこの新たな言語が先住者である縄文人じょうもんじんの言語に置き換わって広まってゆき、これを機に弥生やよい時代へと移っていった。

    『契丹古伝』を世に出した浜名寛祐。生家は旗本であったという。
    昭和戦前の奉天(現在の瀋陽しんよう)。日本の満州侵略の拠点であった。日露戦争時、浜名は奉天郊外で『契丹古伝』 を披見する機会を得、全文を書写した。

    日露戦争時に発見された奇書『契丹古伝』

     つまり、「日本語の起源が中国東北部にあることが学術的に証明された」というわけである。しかも、同地に住んでいた農耕民が徐々に移住することによって言語と農耕文化が伝播していったというのだから、日本人自体のルーツのひとつもまた中国東北部にまでたどれるはず、ということにもなろう。
     日本語の起源をめぐってはこれまでさまざまな説が唱えられていて、もちろん北方アジアに求める説もあった。だがしかし、今回発表された新説は、起源地を北方アジアの中でも遼河流域一帯に特定したことに、大きな意義がある。
     しかしじつをいうと、この「日本語遼河流域発祥説」は、本当の意味では「新説」ではない。今からおよそ100年前に、その先触れとなるような説をある古文献を典拠として熱心に論じた、ひとりの日本人がいたからだ。だが、この事実を知る人は、おそらく今回の研究チームにはひとりもいなかっただろう。

     その人物の名を、浜名寛祐はまなひろすけという。
     浜名は元治げんじ元年(1864)の生まれ。陸軍経理学校を卒業し、日露戦争(1904〜1905年)のときには鴨緑江軍おうりょくこうぐん(日露戦争のために編成された日本陸軍のひとつ)の兵站へいたん経理部長の任にあった。
     そして中国東北部の奉天ほうてん(現・瀋陽しんよう)の城外にあったあるラマ教寺院に宿営していたところ、現地の僧侶が一巻の古書を持って訪れ、こういった。
    「この古書はどうやっても解読できないのですが、もしや日本や朝鮮の古語でもまじっているのでしょうか」
     聞けば、その古書はもとはどこかの古墳に秘匿されていたものだったが、兵禍へいかにかかることを恐れて寺院に預けられたのだという。古書の文章は当時の浜名には皆目解読できなかったが、後日、その全文を書写することがかない、日本に持ち帰ることもできた。それは漢字で2980字からなるもので、それほど長いものではない。しかし文章はすこぶる難解で、何年たっても浜名には歯が立たなかった。ところが、あるとき一部の単語が日本の古語として読み解けることに気づき、それからは解読がはかどって全文を読了することができた。

     浜名の解読によれば、この古書はかつて中国東北部にあった遼という王朝が編纂へんさんした史書であった。彼は題名すら不明なこの書を仮に「神頌叙伝しんしょうじょでん」と名づけたが、後世この奇書は「契丹古伝きったんこでん」が通称となったので、以下、本記事ではこの呼び名を用いたい。

    「契丹」とはモンゴル系民族のひとつの称で、彼ら契丹族は古くから遼河流域を本拠としていた。そして10世紀には新王朝として遼(大遼、大契丹ともいう)を興し、盛時には満州全体とモンゴリア(蒙古もうこ)の大部分を支配して、中国本土の王朝をもおびやかした。しかし、12世紀はじめには女真じょしん族のきん(のちの清朝のルーツ)に攻められて滅亡している。

     要するに、浜名が奉天で入手した謎の古文献『契丹古伝』の正体とは、遼河流域を本拠とした契丹族の神話と古伝承をまとめたものであった。ちなみに、浜名がこの書と出会った地である奉天は、遼河支流の流域にあった都市である。

     浜名は大正3年(1914)には陸軍を退役しているが、『契丹古伝』の解読・研究は地道にすすめ、大正15年(1926)にはそれを集大成した著作『日韓正宗溯源にっかんしょうそげん』をついに上梓した。同書には『契丹古伝』の原文が47章に整理されて収録されていて、それぞれに訳文と詳しい解説が付されている。「日韓正宗溯源」と名づけられた所以ゆえんは、本記事を最後まで読んでいただければ、おのずとおわかりいただけるだろう。

    西暦1000年ごろの中国。契丹きったん族が興した王朝・りょう(契丹)は、 遼河流域を本拠として領土を広げ、一時はモンゴリアの大部分を支配して、栄華を極めた。
    契丹族が描かれた胡瓌「出猟図しゅつりょうず 」(鷹狩たかがりの図)。10世紀ごろの作品。

    奇書が記す「日祖→日孫→シウカラ→契丹族」の秘史

     まず『契丹古伝』が編纂されたいきさつだが、それは第41章〜47章に記されている。それによると、会同元年(938)、遼に丹鶏たんけい(一種の瑞鳥ずいちょう)があらわれ、近くの山中で石碑が出土した。その石碑には古頌詞こしょうしが記されていた。遼の太祖たいそはこれを契丹族が漢民族に代わって中国大陸を統一する兆してみて喜び、びょうを建ててこの霊石を納めた。のちに遼建国期の功臣・耶律羽之やりつうしが古頌詞を記録し、これを記念して史伝の編纂を行い、会同5年(942)に完成させた。
     次に『契丹古伝』の本文だが、そのあらましを記すと次のようになる。
     原初神である日祖アメウシフウカルメ(阿乃沄翅報云戞霊明)は、東海の清悠せいゆうの気が満ちたところで日孫アメミシウクシフスサナミコ(阿珉美辰沄繾翅報順瑳檀弥固)を生んだ。シウクシフ(辰沄繾翅報)とは、「東大国皇」の意だという。

     日孫が成長すると、日祖は神使の鶏に命じて日孫を地上に天降らせた。
     日孫を神祖と奉じる民族シウカラ(辰沄固朗/東大神族)は四方に移住していった。そのうちの二大族が朝鮮半島のシウ氏と中国東北部のシウ氏で、それとは別に支族のアシウス氏が東海に現れ、その後裔がニギシである。

     日本や朝鮮、満州、蒙古の諸民族はみなこのシウカラから分かれ出たものである(浜名の解読によれば、アシウスとは「産霊むすひ」と同義で、日本人のことをさし、ニギシとは天孫瓊瓊杵尊ににぎのみことのことであるという)。
     シウカラはかつて中国全土を支配していたが、海が砂漠と化し、ノコロ(オノコロ島?)が海没するなどの天変地異が起こると、牛首蛇身の鬼神を奉じる西族が侵入してきて勢力を振るい、やがて戦乱が生じた。そしてついには西族のしゅう中原ちゅうげんを支配下に置き、シウカラ(東族)系のいん王朝は滅んでしまう。しかし、その残党は東方(中国東北部・朝鮮)で生き延び、その後も西族(漢民族)をおびやかした。

     耶律羽之にいわせれば、このシウカラの末裔が契丹族であり、契丹族の遼王朝がめざす中国統一は太古に浴した栄光の奪還にほかならないということになるのだろう。

    『日韓正宗溯源』より、『契丹古伝』の本文と訳文、解説文が書かれているところ。原文の解読が容易ではないことがわかる。

    瞠目すべき契丹神話と日本神話の類似

     ここで注目すべきは、日本人はシウカラの一支族であり、契丹族や朝鮮民族などと同族とされているところだ。これが浜名が自著を「日韓正宗溯源」、すなわち「日本と韓国(朝鮮)の真の先祖の根源」と名づけた所以である。
     シウカラにおいて神祖とも仰がれる日孫が地上のどこに降臨したかは『契丹古伝』の記述からははっきりしないが、文脈からすれば中国東北部付近とみて大過はなさそうである。そうすると、日本人の祖先もまたそこに淵源するということになろう。

     このことを裏づけようとするのが、『契丹古伝』の神話と日本神話の類似だ。
     太陽神である日祖がみそぎをして日孫を生むというのは、イザナギが禊をすると両目と鼻から三貴神さんきしん(アマテラス・ツクヨミ・スサノオ)が成り出でたという記紀神話の場面を彷彿ほうふつさせるものがある。また、日祖の名アメウシフウカルメはアマテラスの異名であるオオヒルメを、日孫の名アメミシウクシフスサナミコはスサノオを連想させる。実際、浜名は日孫とはスサノオのことにほかならないとしている。

    日本神話の代表的な男神であるスサノオ(やよい文庫蔵)。浜名によれば、『契丹古伝』 神話に登場する日孫アメミシウクシフスサナミコが原像であるという。

     また、『契丹古伝』には、日孫が朝鮮半島のヤオロチ族を伐ってその元兇げんきょうらしめたというくだりがあるが(第9章)、浜名によれば、スサノオが出雲でヤマタノオロチを斬ったというオロチ神話のモデルが、この古伝承なのだという。
     また、『契丹古伝』の冒頭第1章は、「神は光り輝くもので、鏡はこの神の姿をかたどったものである。ゆえに鏡は日神体という文字が宛てられ、これはカカミ(戞珂旻)と読まれる」と説いている。つまり、鏡(カカミ)とは日神=太陽神の形代かたしろのことだ、というのだ。

     ここには日本語のカガミ(鏡)の原義・語源が示唆されているともとれるわけだが、それだけでなく、日本の神社でしばしば鏡がご神体とされ鏡と神とが同一視されるのも、契丹の古伝承を反映したものとみることもできる。加えて浜名は、契丹族や蒙古族では君主のことを「可汗(カカミ)」と称するが、これは「日神かか」が原義であり、神に対する崇敬の言葉が首長・君主の意に転じたのだとしている。

    しばしば神社のご神体として祀られる鏡。『契丹古伝』によれば、契丹では「鏡」は「カカミ」と読まれ、それは太陽神の形かた代しろのことを意味するという。それは、日本の「鏡」の原義でもあるのだろう。

     浜名の解釈にはやや牽強付会けんきょうふかいの面もみられないわけではないが、日本人が中国東北部を本拠としたシウカラの支族であるなら、神話や言語の面で類似や共通性がみられても不思議ではないし、契丹の古伝承に日本の神々や日本の古語が登場するのはある意味では当然、ということにもなろう。

    完全に日本語として読める契丹王への美称

     ところで、『契丹古伝』によれば、古伝編纂のきっかけとなった例の古頌詞のひとつは、次のようなものであった。

    「辰沄繾翅報案斜踧岐賁申釐倪叔斿厲珂洛秦弁支廉勃刺差笏那蒙緬」

     浜名はこれを「シウクシフ・アヤシキヒシリニシフル・カラスベシラ・ムラシコナモメ」と音読し、さらに日本の古語もあてはめてこれを「東大国君霊しうくしふあやしきひじりにしふる、神族統治からすべしらす、群醜猶召むらしこなもめす」と解釈した。東大国君霊とは日孫スサナミコもしくはその神裔しんえいたるシウカラ族の王をさす。するとこの謎めいた一文は「神族を統治し、群醜=異族をもしろしめす、神聖なる東大国君霊」というような意味にとれる。
     要するにこの謎めいた一文は、日孫もしくはシウカラ王への讃美であった。しかもそれが、そのまま日本語(古日本語)として読解できるというのである。

     さらに興味深いことがある。3世紀ごろ、朝鮮半島南東部にあった辰韓しんかんの王の称号のひとつに、これとよく似たものがあるのだ。それは『三国志』「魏志韓伝ぎしかんでん」にみえるもので、「臣雲遣支報安邪踧支濆臣離児不例狗邪秦支廉」と書かれている。浜名はこれを「シウクシフ・アヤシキヒシリニフル・カラスシラス」と読み解き、例の契丹の古頌詞をもとにしたものとみた。
     これは決して荒唐無稽な論ではない。辰韓のルーツは古代朝鮮南部を支配した伝説的王国である「辰国」とされていて、その国名の「辰0 」には、契丹古族であるシウカラ( 辰0 沄固朗)とのつながりが示唆されているからだ。「魏志韓伝」に記された辰韓王の称号は、かつて繁栄を誇ったシウカラの栄光の残滓ざんしといえようか。

    3世紀ごろの朝鮮半島。南東部にあった辰韓の王の称号には、契丹古族のシウカラ(辰沄固朗)王への頌詞と重なるものがある。辰韓は契丹の末裔なのか。

    『契丹古伝』は最新の学術的研究を先取りしていた

     結局、浜名の解読によれば、『契丹古伝』は日本人と日本語のルーツが中国東北部にあることを実証するものであった。

     ここまでくれば、この浜名の論が、今回、最新の学術的研究によって提唱された「日本語遼河流域発祥説」と完全に合致するものであることがおわかりいただけるだろう。
     いや、『契丹古伝』の記述と浜名の読解が正しかったことが、2021年になってようやく実証されたともいえようか。

     ここで付言しておくと、陸軍退役後の浜名は、『契丹古伝』研究を続けるかたわら、実業家としても活躍しており、とくに満州・朝鮮の開拓に取り組んだ。曹洞禅そうとうぜんの修行を積んで僧籍ももっていたらしく、満州の間島かんとうに曹洞宗別院を設立したのは彼だという。太平洋戦争開戦前の昭和13年(1938)に没している。
     長く埋もれていた奇書『契丹古伝』と孤高の研究者・浜名寛祐への再評価が待たれよう。

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