見てはいけない神々をいかに描くか? 江戸・明治の神話絵巻に見る「日本の神さま」/鹿角崇彦
「神々の描き方」は昔から不変ではなく、時代によってさまざまに変化してきた。江戸、明治から現在にいたる神々の姿を縦覧することで、その豊かなイマジネーションの世界を追体験してみよう。
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居住に適さない急峻な山肌に並ぶ巨石群はいつ誰が建造したのか? 薩摩に残る「古代日本神話」の現場を調査する。
九州の南西端、鹿児島県南さつま市に、野間岬という、東シナ海に突き出た岬がある。海を南に渡れば南西諸島、西に渡れば中国という立地で、市内の坊津(ぼうのつ)は、遣唐使船の寄港地となり、鑑真やフランシスコ・ザビエルが上陸し、薩摩藩の密貿易の拠点となった、「文明の十字路」と言うべき土地だ。
そんな野間岬近くの山中に、宮ノ山遺跡がある。
野間岬の周辺は、切り立った崖が海に落ち込むような険しい地形なのだが、その深い森に覆われた海を望む山の中の急斜面に、膨大な数の巨石が存在するのだ。
昭和初期、この遺跡を鳥居龍蔵が調査している。鳥居龍蔵は、日本の人類学を確立したと言われる坪井正五郎に師事し、一時期東京帝国大学に勤めた人類学・考古学・民俗学などに幅広い業績を残した研究者である。フランス学士院から勲章を受けハーバード大学からも招聘されたほどで、日本国内はもちろんのこと、中国、台湾、朝鮮、モンゴル、シベリアまで、広範な地域でフィールドワークを行い、遼東半島や朝鮮半島では巨石遺構の一種であるドルメンを発見している。
その鳥居は、この宮ノ山遺跡も調査していた。
宮ノ山遺跡は一般開放されていてだれでも見学可能ではあるが、実質登山となる。
登山道をしばらく進んで行くと、最初に現れるのが、「住居跡」だ。日本の古代遺跡としてはまったく異様なもので、石を円形に積み上げた囲いが、二段、三段と、斜面に階段状に配置されている。このような住居跡は国内の旧石器、縄文、弥生、いずれの時代の遺跡においても見たことがない。
斜面という立地上の問題もあるが、住居としてもやけに狭い。ただ、円形で掘り下げられたような半地下状という点では、竪穴住居と共通している。また、石で円を描くという点では、主に東日本、北日本で縄文時代に作られた、ストーンサークルの一種と言えなくもない。
そのすぐ向かいには、第1のドルメンがある。ドルメンとは、柱となるいくつかの石の上に、屋根のように石を乗せた、テーブル状の構造物で、支石墓とも呼ばれる。
そこから進んで行くと、特に案内はないが、どう見ても人が積み上げた石垣にしか見えないような壁が現れる。
九州に多い「神籠石(こうごいし)」を思わせるような石積みだ。神籠石とは、瀬戸内から北部九州にかけて分布し、飛鳥時代、白村江の戦いに敗れた朝廷が、唐や新羅の侵攻を想定して築いた「朝鮮式山城」のうち、文献上の記録がないものである。ただし、邪馬台国九州説の核心地域と言うべき、福岡県の「山門(やまと)」にある女山(ぞやま)神籠石のように、2~3世紀の遺物が出土するなど、卑弥呼の時代との関連が疑われるものもある。いずれにせよ、神籠石の分布地域とは遠く隔たっている。
そこからしばらく登って行くと、第2のドルメンが現れる。第2のドルメンは、巨大古墳の石室ような、土に埋もれた大きな天井石と、開口部がある。その周囲にも数多くの石積み住居跡があり、鳥居龍蔵の説によると、一帯は地形上安全な場所であり、先住民族が群集生活をして、村落を築いていたという。また、遺跡は山の上にあるので、そのような場所に住むことを好む民族が住んでいたとされている。
確かに、敵襲のようなものを考えるならば、難攻不落の山城として機能するだろうが、先の飛鳥時代の朝鮮式山城より前に、これほど急峻な地に石で砦を築くなど、日本の古代遺跡では例がない。敵からの防衛を強く意識した弥生時代の環濠集落は平地に、木と土を使って造られている。ストーンサークルなどの巨石構造物を、時に山深い場所に築いた縄文人は、防衛を意識した造りの遺跡を残していない。そもそも、比較的山間を好んだ縄文人ですら、これほど急峻な地に住居を営んだ例はないと思われる。
ドルメンなどというものがあることから、宮ノ山遺跡は有史以前のものであろう。鳥居龍蔵の説にある「山上に住むのを好む民族」という言葉も、有史以前を念頭に置いた表現と思われる。
宮ノ山遺跡は、日本の他の古代遺跡と比べると、実に不思議で奇妙な遺跡なのだ。
遺跡の最奥に進むと、第3ドルメンと積石塚が見えてくる。
第3ドルメンはテーブル状で、西洋のドルメンを思わせるところもある、見事なものだ。膨大な数の岩が転がっている積石塚の方は、地震で石垣が崩れたかのような光景だが、かつては墳墓を小石で覆った上に立石が立てられていたという。
現地の案内にはケルンとも呼ぶとあるが、立石ということでは、ドルメンやストーンサークルと並ぶ巨石構造物の一種、メンヒルに近いのではなかろうか。いずれにしても、そこに転がっている岩の数からすると、百を超すような膨大な数の塚があったものと思われる。
ところで、宮ノ山遺跡の見学路は、第1ドルメンと第2ドルメンの間で分かれ、第3ドルメンの手前でまたつながる、もう一本の道がある。その道の途中には、切り立った崖が海に落ち込む景色の見える、眺望の良い場所があるのだが、そこには「神代聖蹟 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)御駐ヒツ(馬へんに畢)之地」と刻まれた石碑が建てられている。
「駐ヒツ」とは、皇帝や天皇が行幸する際、一時的に滞在することを意味する。そして瓊瓊杵尊とはもちろん、高天原より降臨した天照大神の孫で、天皇の祖先となった天孫瓊瓊杵尊のことである。「神代聖蹟」とある通り、ここは古代遺跡であるだけでなく、高千穂のような神話伝承地なのだ。
瓊瓊杵尊は、日向の高千穂峰に降臨した。そこから初めて宮殿を築いたのが野間岬のあたりだとされている。これは、古事記や日本書紀に書かれている神話である。神話では、この地は笠沙(かささ)と呼ばれているため、そこに築かれた「笠沙宮」の跡こそが、ここ宮ノ山だというのだ。
瓊瓊杵尊は、ここで木之花開耶姫(このはなさくやひめ)と出会って結婚もしている、神話上重大な聖地なのである。つまり、地上で最初に皇居が営まれたその遺跡が、宮ノ山ということになる。
日本の古代遺跡としては、特異過ぎる点の多い、不思議な遺跡だが、それが「地上最初の皇居の跡」だというなら、その謎を解くカギは、神話にあるはずだ。
後編では、その神話を紐解きながら、南の果てにある巨石遺構の謎に迫る。
高橋御山人
在野の神話伝説研究家。日本の「邪神」考察と伝承地探訪サイト「邪神大神宮」大宮司。
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