「将門塚の祟り」は1976年起源だ! 怨霊を復活させた大河ドラマの衝撃/吉田悠軌・オカルト探偵
江戸の総鎮守、東京の地霊、あるいは日本最大の「祟る神」。さまざまな呼び方で畏怖される古代の武将、平将門。東京大手町の将門塚はその首を供養した聖地、霊域として名高いが、「塚の祟り」が取り沙汰されるように
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非命にたおれた猛将・平将門。その首は京都に運ばれて晒されるも、故郷を目指して飛んでいった──と伝えられている。この伝説を裏づけるかのように、京都と関東の間には将門伝説を伴う首塚が点在している。 怪異と謎にまみれた怨霊の足跡をたどってみた。
目次
菅原道真、崇徳天皇とならび、日本三大怨霊のひとつとして恐れられ、そしてまた崇められてもきた平将門。
古来、この異形の英雄への信仰と彼にまつわる伝説の震源となってきたのが、いわずと知れた、東京・大手町のオフィス街の一角に残る将門の首塚、「将門塚」だ。
関東に盤踞した将門が独立王国樹立の野望を抱いて「新皇」を称し、朝廷に対して反乱を起こすも、朝敵として追討されてあえなく命を落としたのは、10世紀なかばのことだ。今から1000年以上の昔のことである。
ところが伝説によると、将門の首はいったん京都へ運ばれて晒されるも、ほどなくして故郷を目指して宙へ飛び立った。そしてはるか東方の武蔵国・豊島郡柴崎村、すなわち現在の東京都千代田区大手町にあたる場所に落下。村人たちは将門の怨念を慰めるべくその首を埋めて首塚を築いた。
これが東京・大手町の将門塚の起こりだと伝えられている。
当時そこは海辺ともいってよい場所だったが、塚の近くにはすでに神社が鎮座していた。この神社こそが、将門を祭神とする神田明神の前身にあたるものだった。その社地は江戸時代には将門塚から離れて現在地(千代田区外神田)に遷ることになるが、神田明神が将門霊鎮魂の役を担ってきたことのルーツは、ここにある。つまり、将門の首塚とは神田明神の旧社地でもあったのだ。
だがじつは、将門の首塚と伝承されるものは東京の大手町だけでなく日本列島各所に散在していて、数々の怪異譚を伝えている。もちろんそうした塚のなかには明らかに後世の付会とわか
るものも含まれているのだが、将門の祟りを恐れる地元の人々によって今なお手厚く祀られているものも少なくない。
今やユニークなパワースポットともなっている、そんな将門の首塚を選りすぐって紹介してみよう。
将門に関する根本史料となっている『将門記(しょうもんき)』(平安時代中期ごろ成立)に
よると、反乱を起こした将門が朝廷方の藤原秀郷の軍によって討たれたのは、天慶3年(940)2月14日のことで、その場所は下総国猿島郡の北山と呼ばれる地だった。
そこは将門の本拠地に近いところで、平安時代末期編纂の史書『扶桑略記』によれば、将門は平貞盛(将門のいとこだが、藤原秀郷に与していた)が放った矢に当たって落馬し、そこへ馳せつけた秀郷によって首を斬られたという。
後世の伝説では、身の丈七尺余り(2メートル10センチ以上)もある将門は鋼の如き肉体をもち、加えて常に6人もの影武者を従えていて、いずれが本人か見分けのつく者はいなかったが、唯一の弱点であるこめかみを矢に射られたがために落命してしまった、ということになっている。将門の生年は不詳だが、一説に、享年38であったという。
そして首は秀郷によって持ち去られるのだが、胴体は戦死地の近くに埋められ、胴塚が築かれた。茨城県坂東市神田山に建つ真言宗寺院・延命院の境内の一隅にそびえるカヤの大木の下には、将門の胴塚と伝えられるささやかな塚があり、「将門山」とか「神田山(かどやま)」などと呼ばれている。
地名にもなっている「神田山」は「(将門の)からだ(の)やま」の転訛ともいわれているが、じつは東京の神田明神の「神田」という社名については「下総の胴塚=神田山から胴体が移
し葬られたことに由来している」とする説もあって興味深い。
この延命院の胴塚については、「胴塚ではなく首塚である」とする異説も古くからあるらしい。もしそうだとすれば、将門戦死地に由来するこの塚こそが、将門の首塚伝説のスタート地点といえるだろう。
将門の首は、敗死からおよそ2か月後の天慶3年4月25日、ついに京都に届けられ、左京七条二坊に
あった東市に朝敵として晒されて、諸人へ見せしめにされた。
これは『扶桑略記』や当時の貴族の日記などからも確認することができる、歴史的事実である。東市
は官設の市場だが、人が多く集まることから罪人の梟首場としても利用されていたのだろう。
京都市街の下京区新釜座町の狭い路地の片隅に「京都神田明神」と呼ばれる小社があるが、将門の梟首場はここであったと伝えられている。そこもまた将門の首塚のひとつといえよう。
江戸時代の『拾遺都名所図会』によると、将門の首が晒された場所と伝えられるこの地にかつて家を建てようとしたところ、祟りがあったため、将門を神として祀ることになったとのことで、御神体は高さ三尺ほどの瓜のごとき石であるという。
「京都神田明神」という呼び名は、東京(江戸)の神田明神にちなんだものなのだろう。
とはいえ、この伝承には明白な矛盾がある。将門の首が晒されたという左京七条二坊の東市の場所は、現在では西本願寺や龍谷大学が所在するエリアにあたり、京都神田明神はそこから北に1キロ以上も離れているからである。
しかも京都神田明神の鎮座地は平安時代には貴族の屋敷が建ち並んでいるような地区であり、そんなところに朝敵の首を晒すというのは、現実的にはありえない話だ。
ただし興味深いのは、『拾遺都名所図会』が「平安時代のなかば、京都神田明神の近くに念仏信仰の先駆者である空也上人が寺を建てて将門の亡霊を供養し、その印として石を建てたという伝承がある」ということも付記していることだ。
その空也創建の寺院が実在したことは残念ながら確認されていないが、空也は将門とちょうど同時代人であり、将門の首が晒された天慶3年ごろには京都市中をめぐって念仏布教に励んでいた。したがって、彼が将門の供養を行ったことは充分にありえることだし、後年、空也を先達と仰ぐ時宗の念仏聖たちがこれにならった可能性もある。
京都神田明神は、将門供養に従事した念仏聖たちが市中に営んだ道場の、遺跡なのではないだろうか。
京都で晒された将門の首をめぐっては、まるで生けるがごとくで色が変わらなかったとか、不敵な笑みを浮かべていた、目をつぶることなく歯噛みして復讐を誓った、などといった怪異譚が伝えられている。敗者の首は怨念の塊と化したのだろう。
そしてさらには、冒頭にも記したように、東国に残された自身の胴体を懐かしむあまり首は獄門を飛び立って天空を翔けたが、下総まで至らずに武蔵国柴崎村に落下し、首塚(将門塚)が築かれた、と伝えられているのだ。
ただし、こうした神田明神系のものとは相違する内容をもつ伝承もみられる。
東京都千代田区九段北にある築土神社は将門を祭神としているが、この神社は古くは柴崎村に隣接する上平川村津久土に所在していた。そこは現在の皇居東御苑のあたりと推測されているが、要するに大手町の将門塚の近傍である。
創祀については不明の点も多く、もとは観音堂だったともいわれているが、「首桶に納められて京都から密かに持ち運ばれた将門の首は、この地(上平川村津久土)の近くにあった池で洗われた。このとき祠が建てられて将門の霊が祀られ、それが神社のはじまりとなった」という伝承がある。
首は祠近くに築かれた塚に葬られたそうだが、その塚とはどうやら大手町の将門塚のことらしい。
こうなると、神田明神と築土神社はどういう関係にあるのかという疑問が生じるが、ともかく築土神社が将門の首と関連づけられてかなり早い時期から将門を祀っていたのはほぼ確実で、「築土」については、「塚」の意だとか、「(将門の) 血首」」の転訛だ、などといった話もある。武蔵国に落下した将門の首は、複数の神社から鎮魂されなければならないほどに、強力な祟りを発
したということなのだろうか。
築土神社には「将門の首桶」と呼ばれるものが神宝として長く伝えられていたらしいが、残念ながら大正時代の関東大震災で焼失してしまったという。
京都から東国を目指した将門の首は、早くも美濃国の上空で射落とされてしまった、という伝承もある。
それは岐阜県大垣市荒尾町に鎮座する御首神社の縁起説話で、これによると、首が京都の獄門を抜けて飛んだとき、このことを知った美濃国一宮の南宮大社(岐阜県不破郡垂井町宮代)では、首が関東に戻って乱が再発しないようにと、祈願が行われた。すると大社に坐ます隼人との神が矢を放ち、首は射止められて荒尾の地に落ちた。そこで、その地に将門霊を祀って鎮魂した。これが御首神社のルーツなのだという。
この由来にもとづき、この神社に祈願すると、とくに首のあたりの諸病の治癒に効験があるといわれている。
首は、そもそも京都へ運ばれる途中で──つまり、復路ではなく往路で──埋葬されてしまった、という伝承もある。
静岡県掛川市の旧東海道沿いに「十九首(じゅうくしゅ)」という地名があり、「十九首(じゅうくしょ)塚」という史跡が残されているが、ここには次のような話が伝わっている。
「将門を討った藤原秀郷は、将門と彼の家臣18人の首を持って京都へ向かった。だが掛川まで来ると、京都からやってきた検死の勅使が『賊人を禁裏に近づけてはならない』と命じ、19の首はこの地で検死を受けたうえ、無残にも路傍に打ち捨てられてしまった。
しかし秀郷は『屍に鞭を打つのはあまりに非道』と嘆じ、現地の人々とともに19の首を個別に埋葬し、懇ろに供養した」
つまり掛川に、将門とその武将たちを鎮魂すべく、19基もの首塚が築かれたわけで、それが「十九
首」という地名の由来になったのだという。近くを流れる小川は「血洗い川」と呼ばれているが、この呼び名は将門たちの首がこの川で洗われたことに由来すると伝えられている。
点在していた塚はその後、荒廃してしまい、将門のものとされる五輪塔が残るのみとなってしまったそうだが、平成に入って史跡公園として整備され、将門の五輪塔を囲むようにして18基の塚が新しく造り直された。
ところで、大正から昭和にかけての時代、東京・大手町の将門塚は幾度か取り壊しの危機にさらされたが、その度に関係者に災厄が降りかかって「将門の祟り」が噂され、祀り直されてきた──というのは今や有名な話である。
じつは十九首塚にもこれと似たような話が伝えられていて、近年整備されて祀り直されたのも、どうやらその手の祟り話がきっかけになっているらしい。毎年、春秋の彼岸とお盆には供養祭が執り行われ、将門一派の亡霊は丁重に供養を受けている。
このように、将門の首塚伝説にはバリエーションがみられるのだが、その背景にあるのは「斬られた首は祟りをなす」という日本人に普遍的で強固な観念であろう。
大手町の将門塚は近年、全面的な改修工事が行われ、一昨年(令和3年)の4月にリニューアルされたが、これにあわせて茨城・延命院の胴塚の土が東京まで運ばれ、密かに将門塚に納められた、という話がもれ伝わっている。これは、胴体から切断されたままとなっている将門の首の祟りを恐れて行わ
れた、一種の鎮魂呪術なのだろう。
将門の首にまつわる怪異と鎮魂のストーリーはこれからも息づき、増殖しつづけてゆくにちがいない。
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