インカ帝国を築いたのは日本人!? 元駐日大使が語る創始者マンコ・カパックの正体/権藤正勝

文=権藤正勝

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    アステカ文明、マヤ文明と並び、古代アメリカ文明を代表するインカ帝国。 世界遺産のマチュピチュはその遺跡として知られるが、このインカ帝国を築いたのはなんと日本人だったという説がある。 ペルーの元駐日大使も「インカ帝国の創始者は日本人だった」という 内容の書物を著している。はたして、その根拠とは何なのだろう?

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    インカ帝国の最大領域(太線内)。ペルーのクスコを中心に、最盛期にはチリ、アルゼンチンまで広がっていた(© Google Inc.)。

    嘘ではなかったインカ帝国日本起源説

     インカ帝国は日本人が作った? 荒唐無稽な話のようだが、南米のペルーでは、この仮説を信じる人も多いという。ネット上でも多数のサイトが、似たような情報を発信している。いったいどういうことなのだろうか。
     インカとは、南米のペルーを中心にエクアドルとボリビアにまで広がっていた大帝国で、1533年にスペイン人のコンキスタドールにより滅ぼされるまで、繁栄を誇っていた文明である。
     インカ帝国の前身は、1200年ごろに始まったクスコ王国で、一般的にはこのクスコ王国も含めて広義のインカ帝国と捉えられている。インカ帝国は、文字を持たなかったため、文献上の記録はスペイン人が残したものが多少ある程度で、多くの謎に包まれた文明である。
     新大陸に初めて到達した日本人の公式な記録は、慶長遣欧使節団と思われる。使節団は、出港から3か月後の1614年1月28日に現メキシコのアカプルコ港に入港した。彼らは、南米に向かうことはなくヨーロッパに向け、メキシコシティを出港している。
     だが、同じ年にペルーのリマ市の人口調査では、20人の日本人が住んでいたことが記録されているという。さらに、1608年の日付がついた日本人の公証遺言状もペルーに存在している。
     どうやら17世紀初頭に、漂流またはヨーロッパ人の船で南米に渡った日本人が少なからずいたようだ。また、16世紀後半には、日本人奴隷が南米にいた記録もある。しかし、いずれにしろ日本人の記録が現れるのは、インカ帝国の滅亡後、かなりたってからのことである。

     ところが不思議なことに、インカの王族の末裔の間では、インカ帝国を築いたのは日本人だという伝承があるようなのだ。
     第9代皇帝パチャクテクの子孫、ミゲル・アンヘル・トレス・チャベス氏は、「世界遺産"三大迷宮"ミステリー・ペルー編:インカ帝国を作ったのは日本人だった!? 」というテレビ東京の番組の中で、自分の一族にはインカ帝国の創始者が日本人であるとする伝承があることを明言している。
     どうやら、ネット上に見られる「インカ帝国日本起源説」の情報の出どころの多くは、この一本のテレビ番組のようであるが、皇帝パチャクテクとは何者だろうか?

    太平洋の彼方から現れたナイラップ神

     皇帝パチャクテクを調べてみるとおもしろいことが判明した。パチャクテクこそが、それまでの小規模のクスコ王国を束ね大帝国を築いた人物だったのだ。
     しかも、インカ帝国の伝承では、パチャクテクは第9代目の皇帝とされているが、考古学上は、彼以前の皇帝は実在性が疑われ、パチャクテクからが歴史上実在した皇帝だとされている。つまり、狭義でのインカ帝国初代の皇帝ともいえる。
     その皇帝の子孫自らが、日本人の末裔だという伝承を伝えているのだ。検討してみる価値はあるだろう。また、彼によるとインカ帝国では、王族の間でのみ通用する言葉が話されていたらしい。それが日本語だった可能性があるとも伝え聞いているという。

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    皇帝パチャクテク。事実上のインカ帝国の初代皇帝だ。

     さらに、前出のテレビ番組ではインカの村の長老の話として、太平洋の彼方からやってきた神が王国を築いたという伝説を伝えている。その神は「いつか必ず戻ってくる」といい残して再び太平洋の彼方に去っていったという。
     同番組で長老が語った伝説は、ナイラップ( ナイムラップ:Naylamp, Naymlap)神伝説と呼ばれるもので、インカを征服したスペイン人により調査され記録に残されている。
     それによると、ナイラップ信仰は、インカ以前のプレ・インカ時代からある伝説だという。そうすると、この話はインカの創世神話のひとつ、ビラコチャ伝説のもとになったとも考えられるだろう。
     ビラコチャは、正式名アプ・コン・ティキ・ウイラ・コチャというインカの創造神であり、人々に農業や灌漑、牧畜などの技術を伝えた。
     インカの創造神話にはいくつかのパターンがあるが、ビラコチャ伝説ではクスコを建造したマンコ・カパックとママ・オクリョは、ビラコチャ、または、その息子インティの子供とされている。
     ビラコチャは、顎ひげを蓄えた色白の男神で、チチカカ湖に現れ、人々に知識を授けた後、太平洋の彼方へと去っていったという。インカ人がスペイン人に簡単に征服されたのは、色の白いスペイン人をビラコチャと思ったからだともいわれている。
     つまり、創造神が現れた場所が太平洋の彼方かチチカカ湖かという違いがあるものの、人々に文明を授けて太平洋に去っていったという文脈は同じである。だが、ビラコチャ伝説は、神話的要素が強いのに対し、ナイラップ伝説は、もっと具体的で信憑性が高いようだ。

     ナイラップは、トトラ船で南のほうからランバイェケの海岸に到着し、現在のサン・ホセの海岸のファキスランガと呼ばれる川(ランバイェケ川)の河口に上陸した。ナイラップはひとりではなく、妻のチェテルニと数人の側室を伴っていたという。さらに、美術工芸などに通じた職人の集団も随行していた。
     ナイラップ一行は、海岸から2キロほど遡った場所にチョット(Chot)と呼ばれる神殿を建設し、ヤンパレックと呼ばれる緑色に輝くヒスイの像を安置した。このヤンパレック(Yampallec)がもとになり、ランバイェケという地名が生まれたという。

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    標高2400メートルの地に築かれ、謎の空中都市と呼ばれるマチュピチュ。
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    インカ帝国の創造神であるビラコチャ。
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    ビラコチャ伝説のもとになったナイラップ神。太平洋の彼方からやってきた日本人だという説がある。

    チチカカ湖の語源は日本語だった!

     ナイラップが建てたとされるチョット神殿は、現在ワカ・チョツナ(Huaca Chotuna)と呼ばれるピラミッド複合遺跡だと考えられている。つまりナイラップ神は、9世紀ごろにランバイェケ地方に興ったシカン王国またはランバイェケ王国の伝説上の創始者となる。
     このように、ナイラップ伝説は非常に具体的で、伝説というより実際に船でやってきて、王国を築いた人々の記憶が反映されている可能性が高い。だが、それが日本人であったという証拠はない。
     前出のテレビ番組では、日本人がインカ帝国を作ったとする仮説の証拠として、元駐日ペルー大使のフランシスコ・ロワイサ氏が出版した本のことも紹介している。
     現在、この本はペルーの国立図書館に保管されているが、一般には非公開となっている。この本によると、クスコを築いたインカ帝国の伝説上の創始者マンコ・カパックが降臨したチチカカ湖は、日本語が語源だという。

     この本の題名は『マンコ・カパック(眼:マナコ・河童:カッパ)』で、サブタイトルは「インカ帝国の創始者は日本人だった」となっている。フランシスコ・ロワイサは、言語人類学者でもあり、インカ帝国の末裔ケチュア族の言語や記号の多くが、日本語や日本の文字と類似していることから、日本起源説を展開している。
     ロワイサによると、インカ帝国のケチュア人全体が日本人の末裔なのではなく、支配者階級である王族だけが、日本人の子孫だという。インカの王族は特別な言語を持っており、それが日本語だったという。これは、インカの王族の末裔もテレビで語っていたことである。
     ロワイサは、自著の中でインカの大衆が話したであろうケチュア語やアイマラ語で意味が通じない重要な単語を捜しだし、それが日本語起源であることを示し、インカの王族が日本語を話したことを証明しようと試みている。

     まず、本の題名ともなっているインカの創始者マンコ・カパックであるが、マンコは眼(マナコ)が転訛したものであるとする。そして、カパックは河童とも取れるが、より即した言葉として関白(カンパク)であるとする。関白とは天皇を補佐する官職で、事実上の公家の最高位である。つまり「関白の眼」が、「マンコ・カパック」だという。皇帝らしい名前といえばそういえるだろう。どちらの単語もケチュア語やアイマラ語では、まったく意味をなさないという。
     クスコの町を建設したのは、マンコ・カパックとその姉であり妻でもあるママ・オクリョであるが、このふたりが降臨した場所がチチカカ湖である。インカ帝国の生みの親であるふたりが降臨した湖だから、父母湖、つまりチチカカ湖となったという。母は、今では「はは」と発音するが、古い時代では「かか」と発音していたことを考えると、矛盾はないだろう。

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    ペルー北部のランバイェケにあるワカ・チョツナ。ナイラップが建てたチョット神殿と思われる(© Edson FuentesMera)。
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    元駐日ペルー大使のフランシスコ・ロワイサ氏が著した『マンコ・カパック』。日本語の文字が入っている。
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    チチカカ湖に降臨し、クスコの町を築いたというマンコ・カパック。

    国生み神話と似ているインカの創世神話

     そして、ロワイサは、さらに重要な単語として「インカ」を挙げている。
     インカは、皇帝を意味すると同時に権力者・支配者の血統・権威を意味するが、やはり、ケチュア語にもアイマラ語にも存在しない。

     インカとは、日本語の「允可(いんか)」だという。允可とは聞きなれない言葉だが、昔はよく使われていた言葉で、許可または許可することを意味し、権威の象徴である。つまり、人々に許可を与える権威者の血筋がインカを名乗れるという。
     また、この本ではインカと日本の創世神話の類似性も指摘されている。インカの創始者はマンコ・カパックとされているが、マンコ・カパックの降臨の地には、ふたつのパターンが存在する。
     ひとつは、チチカカ湖の深みからマンコ・カパックとママ・オクリョが現れるというパターンである。チチカカ湖に降臨したマンコ・カパックに、太陽神インティは、タパク・ヤウリと呼ばれる金の杖を与え、その杖が地面に沈む場所に神殿を作るように命じた。その地がクスコである。
     この神話は、日本のイザナギ、イザナミによる国生み神話に対応するという。国生み神話では、イザナギとイザナミの男女の神が、高天原(たかまがはら)の神々から与えられた天あめの沼ぬ鉾ぼこで、混沌とした滄海をかき混ぜ、大地を完成させるよう命じられている。
     杖と矛の違いはあるが、インカと日本の創世神話は、男女の神が水上に現れ、神から授けられた棒状のもので、大地を作るという、共通したモチーフを持っているのだ。
     創世神話のもうひとつのパターンでは、マンコ・カパックは、クスコのパカリタンボという洞窟から地上に現れたとされている。これは、アマテラスを天岩屋から引きだす、天岩戸神話と類似しているという。

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    ペルーのブリューニング考古学博物館にあるナイラップ神の上陸場面が描かれた壁画(©Miguel Vera)。
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    インカ帝国の末裔のケチ (©Miguel Vera)。チュア族の女性。
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    マンコ・カパックと妻のママ・オクリョが降臨したというチチカカ湖。「チチカカ」とは日本語の「父母」だった。

    日本語はどうやって伝わったのか?

     筆者は、このインカ帝国日本起源説を調べていて初めて知ったが、この仮説はずいぶん昔からある説だった。すでに明治期のペルー移民の間で、日本人とケチュア族の類似性が指摘されていたという。ロワイサの本が出版されたのも、戦前の1926年である。そして、戦後の1958年から69年にかけて、再びこの仮説が脚光を帯び一大インカブームを巻き起こしたという。
     しかし、海外での捉え方は冷ややかで、日本帝国主義の人種差別的内容を含んだ一種の汎日本主義と考えられた。ロワイサの本が非公開とされているのも、このような理由からだと考えられる。
     だが、当事者であるインカ帝国の末裔ケチュア族の間では、今でもこの仮説が広く支持されているという。

     もし、日本人がインカ帝国を作ったとすれば、それは鎌倉時代のことになるだろう。インカの王族の先祖が、ナイラップ神だとすると、さらに時代を遡り、平安時代になる。
     何らかの理由で、当時の人々が太平洋を渡り、インカ帝国を築いたとすれば、それはロマンがあるが、なぜ文字が伝わらなかったのだろうか。
     もし、漂流の末、南米までたどり着いたとすれば、筆記用具は持っていなかっただろうし、生き抜くことに必死で、文字を書く暇もなく忘れてしまった可能性もあるだろう。もちろん、当時の識字率はかなり低かったはずなので、そもそも文字を書ける人が乗っていなかった可能性もある。
     だが、インカ帝国の情報伝達手段としておもしろいものが存在した。それが結縄文字のキープである。インカ帝国では、確かにわれわれの想像する紙その他の平面に描かれる文字はなかった。しかし、このキープを使い情報を伝達することが可能だったのだ。
     キープでは、紐の結び目の形や間隔、紐の色などに情報が含まれている。キープは長い間、数と物品の種類を記録する程度だと考えられていた。ところが、近年の研究では言語情報も記録できることがわかり、完全に文字としての機能を果たしていたことがわかっている。

    日本にもインカの結縄文字があった!

     そして、このキープと同じものが、日本にも存在した。中国の歴史書『随書倭国伝』中に、「文字はなく、ただ木を刻み縄を結ぶだけ」との記述が見られる。なぜ「文字はなく」の後に「木を刻み縄を結ぶ」とあるのか?
     これはわれわれがインカには文字がなかったとしているのと同じ理由である。通常の文字はないが、木を刻んだり、縄を結んだりすることにより情報を伝達していたと捉えられる。
     この結縄文字、実は驚くことに最近まで沖縄で実際に使用されていたのだ。沖縄の結縄文字は、藁算(ワラザン、バラサン、ワラザイ)と呼ばれ、読んで字のごとく、ワラで編んだ縄、またはワラそのものに結び目をつけて情報を記録したものである。沖縄の藁算には、キープのようにループ状の紐から数多くの紐がぶら下がるタイプも存在する。
     主な使用目的は、物品の種類や数を記録することで、納税などにも利用されたようである。明治時代までは普通に用いられ、戦前までには完全に使われなくなったという。今では沖縄でしか見ることができないが、かつては日本中で使用されていたようだ。
     もし結縄文字の使い手が南米へ向かった船に乗っていたとすれば、情報を記録するのに紐さえあれば事足りる。どこでも簡単に情報を記録する媒体が手に入るわけだ。キープという形で、文字が伝えられていたのかもしれない。

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    紐の結び目や形、色などで情報を伝えるキープ。
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    ワラを使った沖縄の藁算。

     前出のテレビ番組では、後半は、はるか昔に縄文人が太平洋を渡り、南米にやってきたとする説に費やされている。この仮説には、筆者も異論はない。むしろ筆者は、海を渡った縄文人をテーマにした記事を「ムー」誌上でも何度も書いている。

     最近、従来から指摘されていた証拠に加え、これまで北米最古と考えられていたクロービス層よりも古いアイダホ州のクーパーズ・フェリー遺跡から見つかった石器類が、同時代の日本の石器とそっくりだということがわかっている。
     遺伝子の研究からも、ペルー沿岸部の人々が、日本人と共通する遺伝子を持っていることもわかっている。しかし、縄文時代とインカ帝国では、時代が違いすぎる。たとえ縄文人が、南米まで到達していたとしても、それをインカ帝国と結びつけることには無理がある。
     現在のように船にエンジンが搭載される以前、日本から流され、南北アメリカ大陸に漂着する船は、かなりあったようだ。1873年、サンフランシスコの新聞「オーバーランド・モンシー」は、過去90年間に50件の漂着があったと報じている。

     筆者自身、アラスカのシトカを訪れたとき、1805年に日本から漂着した漁民の記念碑を見たことがある。シトカの空港があるその島はロシア語で日本人を意味するヤポンスキーアイランドと呼ばれている。このように日本付近からは強い黒潮があるため、意外と多くの日本人が流れ着いているのだ。
     その中の子孫が、インカの王族になったと考えるのも決して不可能ではない。さらなる証拠が見つかることに期待したい。

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    マンコ・カパック。
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    日本のイザナギとイザナミ。

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