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凶悪、邪悪なものを見るのはこわい。 でも時には、美しいものを見ることが恐怖になることもある。
「幽霊を見た」——それだけならば、深く考えることはなかったというYさん。彼女は今でもたまに当時の体験を思い出し、「どうして?」「なぜ?」と考えることがあるという。
「ひとつ上の兄がいるんです。妹の私がいうのも変ですけど、すごくきれいな顔をしてるんで、小さい頃からよく女の子と間違われていました」
それは今も変わらないらしい。一緒に歩いていると、よほど男っぽい服装をしていなければ姉妹だと思われることも多いそうだ。そんな兄とYさんはとても仲がよく、兄妹喧嘩は一度もしたことがない。休日にはふたりで買い物に出かけ、ドライブにもよくいっている。
ある年の秋ごろ。家族で何度かいったことのあるT県の旅館Rが廃墟になっていたことを知った。そこまで有名ではないが一応、心霊スポットにもなっているらしい。その一帯は有名な温泉地で、かつては宿泊施設がたくさんあったが現在は廃れてしまっている。一時のブームが過ぎて次々と廃業に追われていった宿泊施設が廃墟化し、そのまま残っているのである。すべてを取り壊すのには何億という費用がかかるようで問題となっているそうだ。
Yさんが最後にいったのは中学生のころ。20年以上前である。ふたりとも懐かしい半分、怖いもの見たさ半分で、廃墟となった旅館Rを見にいってみることにした。
「ふたりともビビりなんで、明るいうちにいって、パッと見て雰囲気がヤバそうならすぐに帰ろうって決めていたんです」
休日に兄の運転でいった。有名なのは高層ホテル群の廃墟だが、そこから少し離れたところにポツンとある日本家屋風の建物が目的の旅館Rだった。4台分の駐車スペースに赤っぽいものが散らばっていて、Yさんは慌てて兄にとまるようにいう。錆びた針金をぶつ切りにしたようなものがたくさん落ちている。「忍者のまきびしみたいだ」と兄は笑うが、こんなものを踏んだらタイヤにダメージを食うのでYさんが降りて、1台分が停められるだけ片づけた。前にきた人たちのイタズラだろうか。
そこまで古い廃墟ではないのだが、玄関周りはあちこちが傷んでいる。兄は一服したいというので、先にYさんが見にいった。旅館内に入るつもりはなかった。ガラガラと引き戸を開け、なかを覗き込む。懐かしい。入ってすぐの応接スペース兼受付の光景は昔のままだ。ここのソファに座って会計している親の背中を見ながら、旅館の人からもらったガムをくちゃくちゃと噛んでいた記憶が甘い匂いつきで蘇る。
奥は左右に通路がわかれて、それぞれ客室へと繋がっている。その左側から、ひょこっと人が現れた。Yさんは大声をあげて引き戸を閉めると車に戻った。
「なにか見たの?」
慌てた様子で乗り込んできたYさんに兄が半笑いで訊いてきた。見た。長い髪を後ろでくくった浴衣姿の女性が、左側の通路から現れると、そのまま右側の通路に入っていった。宿泊客が風呂にでも向かっているような自然な光景だったからか、不思議と怖いという感覚はなかった。その顔を見るまでは。
右側の通路に入る瞬間、その女性はYさんに顔を向けた。その顔は兄と、うりふたつだった。
黒史郎
作家、怪異蒐集家。1974年、神奈川県生まれ。2007年「夜は一緒に散歩 しよ」で第1回「幽」怪談文学賞長編部門大賞を受賞してデビュー。実話怪談、怪奇文学などの著書多数。
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