ギリシア神話のクライマックスを飾る戦いの真実!「トロイア戦争」の基礎知識

文=羽仁 礼

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    毎回、「ムー」的な視点から、世界中にあふれる不可思議な事象や謎めいた事件を振り返っていくムーペディア。 今回は、考古学者シュリーマンの発掘で知られるトロイア戦争と、その伝説の背後にある歴史的真相を取りあげる。

    女神たちのいさかいが引き起こした大戦

     9月11日より、クリストファー・ノーラン監督のアメリカ映画『オデュッセイア』が、日本でも公開される。タイトルからわかるとおり、同名の古代ギリシアの叙事詩が語る、主人公オデュッセウスの冒険物語を映画化したものである。

     古代ギリシアの都市国家イタケーの王オデュッセウスは、他の都市国家の諸王たちとともにトロイア戦争に従軍し、最後に木馬の詭計(きけい)を発案してトロイアを滅ぼした張本人である。ところが、戦争から帰国する途中さまざまな災厄に見舞われ、各地を放浪することになった。その顚末を描いた物語がホメロス作の『オデュッセイア』なのだ。

     そのホメロスのもうひとつの代表的な叙事詩『イリアス』は、オデュッセウスも従軍したトロイア戦争について語っているが、ほかにも『キュプリア』『アイティオピス』『イーリオスの陥落』など、トロイア戦争についての叙事詩はいくつもある。古代ギリシア人にとっては、それだけ重要な主題だったということだろう。

    『イリアス』や『オデュッセイア』の作者とされる古代ギリシアの詩人ホメロス。

     トロイアは現在のトルコにあった都市国家で、戦争当時はプリアモスが王として支配していた。戦争のそもそもの発端は、人間の子ペレウスと女神テティスの結婚式にさかのぼる。

     式に招かれなかった不和の女神エリスが、「最も美しい女神へ」と書かれた黄金の林檎を式場に投げ込んだ。そこで、この林檎を巡って3人の女神ヘラ、アテナ、そしてアフロディテが争い、結局トロイアの王子パリスに審判を仰ぐことになった。

     パリスは、自分に林檎をくれれば世界で最も美しい女性を与えると約束した美の女神アフロディテを選んだ。そしてアフロディテがパリスに与えた女性というのが、ギリシアの都市国家であるスパルタの王メネラオスの妃ヘレネであった。

     パリスは、アフロディテの協力でヘレネをさらい、トロイアに連れ帰った。そこでメネラオスは、兄でミュケナイ王のアガメムノンに事件を告げた。その結果、ギリシア諸都市の王たちが結集してトロイアに遠征し、ヘレネを取り戻すことになったのだ。

     というのは、ヘレネに対してはギリシアの他の王たちも求婚しており、その際だれが夫になろうとも、その者が困難に陥ったならば全員で助けるという男の約束があったからだ。

    スパルタ王妃ヘレネをさらうトロイアの王子パリス。これがトロイア戦争のきっかけとなった。

     しかし、トロイア側は堅固な城壁の中に閉じこもり、戦争は10年たっても決着がつかなかった。そこで、ギリシア軍は巨大な木馬を海岸に残し、撤退したとみせかけた。

    戦闘は苛烈を極め、ギリシア軍では英雄アキレウスらが活躍した。

     ギリシア軍を撃退したと信じたトロイアは、木馬を城内に引き入れて祝杯を上げた。しかし、木馬の中には、オデュッセウスをはじめとするえり抜きの戦士たちが潜んでいたのだ。

     夜になってトロイア人たちが眠りこけている間に、彼らは木馬から出て内側から城門を開き、沖合のギリシア軍に合図を送った。完全に油断していたトロイア側は、ほとんど反撃することもできずギリシア軍に敗れ、トロイアは滅ぼされた。

    10年にわたって続いた戦争は、オデュッセウスが考案した木馬の奇策によって決着した(写真=iStock.com/clu)。
    トロイア戦争後、故郷を目指すオデュッセウスは数々の苦難に見舞われた。画像は美しい歌声で船乗りを死へと誘うセイレーンに立ち向かう場面。

    伝説を信じた男が掘り当てたトロイア遺跡

     パリスの選択やアキレスの踵(かかと)、トロイアの木馬など、現代にも伝わるさまざまな逸話に溢れたトロイア戦争であるが、それが歴史的事実であったかどうかは議論の的になっていた。

     しかし、トロイアの遺跡を発掘し、トロイア戦争の舞台となった都市の実在を証明した人物が現れた。ドイツ生まれの実業家にして考古学者のハインリッヒ・シュリーマン(1822~1890)である。

    ドイツの考古学者ハインリッヒ・シュリーマン。トロイア遺跡を発掘し、考古学史に名を残した。

     シュリーマンは1822年、ドイツ東北部メクレンブルク=シュヴェリーン大公国(現ドイツ連邦共和国メクレンブルク=フォアポンメルン州)のノイブコーの村に生まれた。

     父エルンストはプロテスタントの牧師であったが、母ルイーゼはシュリーマンが9歳のときに死去したため、叔父の家に預けられた。13歳でギムナジウムに入学するが、貧しかったため1836年に退学して食品会社の徒弟になった。

     だが、低賃金の重労働に耐えかねて、1841年にベネズエラに移住しようと考えた。ところが、船がオランダ沖で難破したため、そのままオランダの貿易商社に入社した。この会社で働きぶりを認められ、1846年にはこの会社の代理人としてロシア帝国の首都サンクトペテルブルクに赴いた。

     1851年には、ゴールドラッシュにわくアメリカ・カリフォルニア州に赴き、砂金を買い取る銀行を設立、その後も1854年のクリミア戦争や南北戦争において、武器や綿花などを扱い巨万の富を得た。1864年になると商売の一線を退いて世界旅行に出発し、1865年には日本も訪問している。

     この世界旅行の過程で、シュリーマンは考古学に強く惹かれるようになったようだ。

     彼の自叙伝では1829年、7歳のクリスマスに贈り物としてもらった本で「トロイア戦争は本当にあった」と信じ、大人になったらトロイアを発掘すると父親に告げたとある。だが、これはトロイア発掘後に書かれたもので、実業家時代のシュリーマンの書簡には、この話はいっさい出てこない。

     ともあれ1868年には考古学的発掘にかなり強い関心を持っていたようで、その年トルコ北西部、ダーダネルス海峡から6キロほど内陸にある、「ヒッサリクの丘」と呼ばれる場所を訪れた際、この場所こそ古代のトロイアであると確信し、オスマン帝国に発掘許可を求めた。

     まだ許可の出ていない1870年に、無断で発掘を行ったこともあるようだが、翌1871年に許可を得て本格的に発掘を始めると、この場所から5層に重なった都市遺跡を発見した。

     そして、下から2番目の都市遺跡から、城塞の跡やシュリーマンが「プリアモスの財宝」と呼ぶ多数の黄金製品を掘りだしたことから、シュリーマンはこれがトロイアの遺跡と判断した。

    シュリーマンが発掘調査をもとに作成したトロイア遺跡の平面図。

     トロイア発見後も、シュリーマンは発掘調査をやめなかった。アガメムノンの宮殿跡発見を目指して、1874年にギリシアのミュケナイでの発掘を始め、1876年には「アガメムノンのマスク」などの財宝を発見、これにより、古代ギリシア文明に先立つミュケナイ文明の存在が明らかになった。

    シュリーマンが発掘した黄金の仮面。「アガメムノンのマスク」と呼ばれるが、現在ではトロイア戦争以前のものと考えられている。

     他方、シュリーマンの発掘手法については、やり方が粗雑であったとか、発掘の記録や説明もずさんであるなど、いろいろな批判が寄せられている。

    シュリーマンによるトロイア遺跡の発掘風景。ダイナマイトを使う大胆な発掘は、のちに批判も招いた。

     実際その後の調査により、トロイアには計9層の都市遺跡があることが判明しており、シュリーマンがトロイアと判断した第2層は、じつはトロイアより1000年も前のものと判明している。

     現在、トロイアはそのずっと上層にあたる第7層という説が有力だが、あろうことかシュリーマンは誤ってこの本物のトロイアの遺跡の一部を破壊して掘り進めていたのだ。

     また、シュリーマンがミュケナイで発見した「アガメムノンのマスク」も、実際はトロイア戦争の時代より400年以上も前のものとされている。

     しかしトロイアの実在を証明し、ミュケナイ文明の存在を明らかにしたことはまぎれもなくシュリーマンの功績である。

    都市トロイアを破壊したのは何者か?

     はたして、トロイア戦争、あるいはそのモデルとなった戦争の実態はどのようなものだったのだろう。

     トロイアの遺跡とされる第7層には火災と虐殺の痕跡が残り、何らかの騒乱が起き、都市が崩壊したことは確からしい。破壊されたのは、紀元前1230~1180年の間と推定されており、時代的には青銅器時代末期にあたる。

     当時トルコ内陸部にはヒッタイト帝国があり、エーゲ海側にはミュケナイ文明が勢力を伸ばしていた。つまりトロイアは、このふたつの政治勢力の境界に位置していたことになる。ただ、トロイアを破壊したのが何者だったのかは明らかではない。

    不思議なことに、トロイアの破壊とほぼ同時期にヒッタイト帝国も崩壊しており、ヒッタイトの多くの都市も焼かれているのだ。通説では、「海の民」と呼ばれる謎の民族の侵入によって滅びたとされているが、現在に至るもこの海の民の正体については議論が続いている。もしかしたらトロイアも、この海の民の犠牲になったのかもしれない。

    トルコ北西部、ヒッサリクの丘に残るトロイア遺跡。約3500年にわたる都市の遺構が幾層にも重なっている(写真=Nejdet Duzen/Shutterstock.com)。
    遺跡内には城壁(上)や劇場跡(下)など、古代都市の面影を伝える遺構が点在している(写真=Nejdet Duzen/Shutterstock.com)。
    遺跡の入り口に復元されたトロイアの木馬。伝説の奇策を今に伝えるシンボルとなっている(写真=Nejdet Duzen/Shutterstock.com)。

    シュリーマンが遺したアトランティスの謎

     ところで、シュリーマンとトロイアを巡っては、シュリーマンの発掘物の中に、伝説の大陸アトランティスの存在を証明する遺物があったという報道がなされたこともある。

     それは、1912年10月20日付「ニューヨーク・アメリカン」紙に掲載された、「私は、いかにして失われたアトランティス、全文明の源を発見したか」という記事で、シュリーマンの孫を自称するポール・シュリーマンが署名入りで書いたものだった。

     記事によると、死の床にあったハインリッヒ・シュリーマンは、封印された包みを友人に残したという。包みには「自分の家族で、中の文書に記された内容の調査に生涯を捧げると誓った人物によってのみ開封される」と書かれていた。

     1906年、ポールは指示されたとおりの誓いを立て、その包みを開封したという。

     中には何枚かの文書があり、「私がヒッサリクの丘で発掘した物品や青銅の壺に、『アトランティス王クロノスより』とフェニキア文字で刻まれたものがあった」という内容や、パリの秘密の場所に隠されたフクロウの頭をした青銅壺の存在、謎の金属片などについて記されていたようだ。

     ポールはこうした文書の指示に従って、パリで問題の青銅製の壺を見つけ、それを壊したところ、中からは四角い、銀のような金属が出てきた。また、エジプトでも同じような金属を手に入れ、パリの博物館でも似たような展示物を見つけたという。

     さらに彼はメキシコやペルーも訪れて調査を続け、『トロアノ古写本』などの記述もアトランティス実在の根拠として記事で紹介している。

     記事中、ポールはこうした調査の結果をまとめていると述べていたが、その後いっさい続報はなかった。じつはポール・シュリーマンなる人物は実在せず、すべては新聞記者のでっちあげだったのだ。

     そのことはさておいても、トロイアの発掘は現在も継続中である。トロイア戦争や都市の崩壊の原因については、将来何らかの新発見がなされることを期待しよう。

    ●参考資料=『トロイアの真実』(大村幸弘/山川出版社)

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