「虚舟」新資料発見!! 漂着現場・常陸国の鹿島神宮ゆかりの鮮明な「兎園小説」/鹿角崇彦
近年、新発見の続く「虚舟」関連史料。〝ご当地〟茨城県で開催された展示がきっかけで、また新たな図版の存在が知られることとなった!
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近年新発見が続く「虚舟」図にまた新たな一枚が加わった。埼玉県久喜市の郷土資料から現れたそれは、虚舟漂着伝説の論争を次のステージに進める、重要な意味を持つものだった!
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今から200年ほど前、享和3年(1803)の2月のこと。常陸国(現在の茨城県)の海岸に、一艘の「船」が流れ着いた。
それは船と呼ぶにはあまりに奇妙な形状をしており、しかも内部には二十歳ほどのひとりの女が乗っている。女はどこのものとも知れない不思議な服を着、両腕に抱えた箱を決して離さない。日本語も通じず、厄介ごとを恐れた浜人たちは船と女を再び沖に流してしまう。
その船は「虚舟(うつろぶね)」と呼ばれたが、詳細は何もわからぬまま、ただ事件の顛末だけが記録に残されたーー。
江戸時代の一大ミステリーとして知られる、常陸国虚舟(うつろぶね)漂着事件。
この事件は江戸後期の人気戯作者・滝沢馬琴(たきざわばきん)の随筆『兎園小説(とえんしょうせつ)』などに記録が残されたことで今日まで伝えられているのだが、顛末としては割と簡素なこの事件が大きく注目され続けているのは、虚舟とそこに乗っていた女のあまりに奇妙なビジュアルによるところが大きい。
当時描かれた虚舟の姿は、巨大なお椀を上下にふたつくっつけたような形状。どうみても、円盤状のUFOそのものなのである。

もちろん江戸時代にUFOという概念はないが、当時の人々にとってもその形状はあまりに謎すぎたのだろう。そしてさらに謎を深めるのが、UFOのような虚舟のなかに記されていたという判読不明の4つの文字だ。虚舟事件は、事件の顛末と、虚舟、女の図、そして謎の4文字がともにかき写され、拡散されていった。
これまで、この虚舟の図を記した資料は『兎園小説』を含めて14点の存在が知られていた。コピー機のない時代の手写しなので14点それぞれには少なからぬ差異があるのだが、円盤状の虚舟、箱を抱えた「蛮女」、そして謎の4文字がセットになっている点はほぼ共通。船、女、謎文字の3点セットは虚舟図の最大の特徴、認証キーともいえるわけだ。
2025年、そんな3点セットを備えた、15点目となる新たな虚舟資料が発見された。発見場所は埼玉県久喜市。市立の郷土資料館に寄贈された古文書のなかに、その図は眠っていたのである。
新たな虚舟図は、久喜市が管理する「岡田家文書」から発見された。この古文書群は江戸時代に中里村(現在の久喜市中里。栗橋近辺)の名主を務めた岡田家が代々伝えたもので、いわば当時の行政文書である。
令和7年に市に寄贈され整理が進められていたのだが、その過程で資料館館長の小林純氏、学芸員の松村憲治氏らが奇妙な図があることに気づき、調査の結果虚舟図であることが判明したのだ。

発見された図は、冊子などには綴じられていない手書きの一枚もの。その首題には「小笠原越中守知行流来候空舩之図」と書かれている。小笠原越中守の領地に流れてきた「空舩」、つまり虚舟ということだ。既知の図版とは絵のテイストにかなり差があるのだが、しかし船・女・文字の3点セットからしても、これが虚舟事件を記したものであることは間違いない。
本文に書かれた内容もこれまでに知られる資料とほぼ同一で、「享和三亥年二月廿二日昼時常陸国源舎と申所之濱」に、図のような虚舟が漂着したことなどがまとめられている。
15点目の新資料から、事件の新たな情報は得られるだろうか。細部を見ていこう。
やはり、注目したいのは3点の絵。まず「蛮女」の図をみると、女は長い黒髪をうしろに垂らしたような髪型にみえる。これまでに知られている他の図でも、女の頭部は黒髪だけのものと、ヴェール状のものを被った2パターンが知られるので、新発見の図は黒髪タイプに分類できるだろうか。
続いて気になるのは、女の胸あたりにある、拘束具のようななにかだ。位置的に帯のようにもみえるのだが、おそらくこれは女が抱えていたという箱を表しているのだろう。そして最も特徴的なのは、腹部にある前垂れ。絵の左には、
「着類白ク地不知 コハゼやうのものニ而有之」
衣類は白く生地は不明、コハゼ(足袋のかかと部分にある留め金具)のようなものがついている、との添え書きがされている。

この点について、虚舟研究の第一人者である岐阜大学名誉教授・田中嘉津夫氏は、興味深い指摘をしている。蛮女の服装に前垂れのような部分があるのは、14点の図版のなかでも埼玉県立文書館が保管する「稲生家文書」の図のみであり、そこから推測すると岡田家文書は「稲生家文書」となんらかの関連があるのではないか、というのだ。
では、実際に岡田家文書と稲生家文書、ふたつを見比べてみよう。
埼玉県立文書館に申請し、現物を撮影してきたのが以下の図だ。
この稲生家文書をみると、確かにそこに描かれた女の服には岡田家文書とおなじく特徴的な前垂れがついてる。そして、こちらでも前垂れについて
「此コハセねり物にて青し」
と注釈がつけられていて、はっきり「コハゼ」というワードが確認できる。

「練り物」とは、おがくずとのりをなど練って形成する加工品のこと。足袋のコハゼは基本的に金属製だが、前垂れにある「コハゼ」は金属ではかったことを強調しているのだろう。具体的に何製だったとまでは書かれていないが、しいて想像するならば、木でも石でも金属でもない、プラスチック製ボタンのようなものだったのではないか。
両文書にはかなり一致する点がみられる反面、女の全体のフォルムや、特に頭部のパターンには違いも大きい。髪型は岡田家図が黒髪パターンだったのに対して、稲生家図はもう一方のヴェール着用パターンになっている。
さらによく見ると、この稲生家図にも岡田家図にあったのとまったく同じ「白ク地不知」との文言が記されているのだが、稲生家図ではそれがヴェールに対する注記なのに対して、岡田家図では女が身につける衣全体への添え書きになってしまっている。この微妙な差異は何を意味するのか?

さらに重ねて、虚舟図にも興味深い点がある。『兎園小説』の図では硝子障子(がらすしょうじ)と表現される船の窓状の部分が、岡田家、稲生家のふたつの文書では「マトシヤウジ(窓障子)」と書かれているのだ。こうした表現がされているものはこの両文書だけ。
さらになお不可解なのが、「宇宙文字ではないか」などともいわれる、最も謎めいたあの4文字の部分だ。
この4文字は『兎園小説』に書かれたパターンが最も多数派なのだが、みっつを拡大して比較してみると、岡田家、稲生家どちらも多数派とは微妙に異なっているのがわかる。

整理すると、全体を比較した場合岡田家図と稲生家図にはよく似た点や全く同じ部分がありながら、同時にかなり異なる部分も存在しているということになる。このミスマッチをどう考えればいいのか。
ありうるのは、岡田家図と稲生家図のどちらかがどちらかを写したのではなく、ふたつのどちらとも異なる、両者のもとになる別図があった可能性だ。
手書きの図では、写しをとった際に少しずつ誤写や言い回しの違いができ、コピーが重ねられるうちにそれが蓄積されていく。そうした複数の「伝言ゲーム」分岐ルートの大本にある、最初の一枚の存在があるはず。つまり、すべての虚舟図のルーツになる、未発見の虚舟図「ジ・オリジン」の存在が考えられるのだ。
このオリジンにより近い図、あるいはオリジンそのものが発見されたとき、虚舟事件のさらに正確な事実が解き明かされることになるのだろう。

ところで、岡田家図のもうひとつの大きな特徴は、発見されたのが久喜市だったことだ。これまでの虚舟図は、漂着地である常陸国(茨城県)や江戸で確認されたものが多数で、久喜市はそのどちらとも地理的にはかなり外れた場所にあるのだ。
しかし、久喜市立郷土資料館の小林館長は「ここで注目すべきは利根川の存在ではないか」と指摘する。
鉄道や幹線道が整備される近代以前、水運は今とは比較にならないほど重要な流通ルートだった。虚舟の漂着地は舎利浜、現在の神栖市波崎近辺であることがほぼ特定されているが、そこは利根川が太平洋に流れ込む河口付近にあたる。
そして現在の久喜市にある栗橋宿は、かつての日光街道(日光道中)の宿場であり、同時に利根川水運の要衝として栄えた街だった。つまり、舎利浜と栗橋は利根川を通じてストレートにつながった場所だったのだ。


小林氏は、事件現場である舎利浜近辺から要衝の栗橋まで、利根川をさかのぼるルートで虚舟事件の情報が届けられたのではないかとの説を提唱しているのである。
そしてこの説をとった場合、虚舟事件には新たな可能性がみえてくる。漂着の当事国である常陸(茨城県)、情報集積地である江戸以外にも、広大な利根川ネットワークを介してかなり幅広い地域に虚舟事件が伝えられていた可能性が浮上するのだ。
この利根川伝播説でもやはり、『兎園小説』ではない、虚舟図ジ・オリジンが存在していた蓋然性はより高まるといえるだろう。
さて、そうなるといよいよ謎なのが、虚舟の正体だ。
日本民俗学の父とも呼ばれるあの柳田國男は、「うつぼ舟の話」のなかでこの事件を作り話、ホラ話だと一蹴しているが、栗橋での発見により漂着事件はほぼ間違いなく事実だったといいうる段階になっている。
第一、作り話だったとするならば、あのUFOのような異形の虚舟図はむしろ不自然ということになる。たとえば江戸中期の浮世草子に描かれた虚舟の図をみてほしい。

この「空船(うつろぶね)」は、不義を働いた男女を別々に幽閉して海に流すという懲罰のためにつくられたもので、小舟の上に板と格子で牢を組み上げたものとして描かれている。江戸時代の人に虚舟をイメージさせたら、こういうものが頭に浮かぶのが一般的だったのだろう。『兎園小説』や岡田家図、稲生家図のような円盤状の虚舟が出てくるとはまず考えがたいのだ。
ではなぜ、虚舟図は当時の人にとってもリアリティのない円盤状に描かれているのか。事実流れてきたのが円盤状の船だったから、と考えるのが最も自然だろう。
さらに補足情報を付け加えるならば、稲生家文書の虚舟図は幕末安政2年の日記に挟まれた状態で発見されているのだが、田中名誉教授はその理由を以下のように推測している。
稲生家は幕府に勤める武士、幕臣でもあった。幕末の激動期に幕府に仕えていた稲生家の当主は、かつて常陸国の海岸に漂着したという虚舟の事件を、当時喫緊の大問題だった異国人や黒船の来航と関連づけて認識していたためではないか。
やはり虚舟は、与太話でなく、生々しい事件として認識されていたのだ。
漂着は、あった。ではその正体は……。それを解き明かす鍵は、今後まだまだ発見されうる、未知の虚舟図に隠されているのだろう。



さて、以下はさらに補足になるのだが、久喜市立郷土資料館の小林館長は今回の発見をうけて、近隣市町村の学芸員、資料館などに広く虚舟図発見の情報を展開しているという。
先にも書いたように、虚舟図が利根川を介して栗橋の岡田家にもたらされたとするならば、利根川流域にはまだまだ複数の虚舟図が眠っていることが大いに想定できる。小林氏はこの機会に、そうした未知の虚舟図を掘り起こせないかと考えているのだ。

サイエンスやビジネスの世界では偶然の幸運によって意図せぬ重要な発見があることを「セレンディピティ」というが、実は久喜市での虚舟図の発見も偶然が重なったセレンディピティによるものだった。
というのも、久喜市では岡田家から資料を寄贈される以前に調査自体は進めており、岡田家文書の整理は10年ほど前には完了していた。つまり「虚舟図」も少なくとも一度は誰かしらの目に映っていたはずなのだ。
しかし、その図が虚舟であるとわかったのは令和7年、2025年のこと。それは、日常の何気ない一コマがきっかけだった。
実は小林館長はUFOやミステリー系の話題が大好きで、2025年のある日、たまたま職場の昼休みの雑談で「虚舟事件」を話題にあげたのだという。すると、
「そういえば岡田家の寄贈資料にそんな絵がありましたよ」
という話になり、あわてて再調査をし間違いなく虚舟図であることが判明、という流れだったというのだ。もしも昼休みの雑談がなければ、ミステリー事件ファンと現場担当者の情報のマッチングが生じなければ、虚舟図は今もまだ資料館保管庫のなかで眠り続けていたかもしれないのである。
そんなこともあり、小林館長は次なるセレンディピティを引き起こすべく情報発信に力を入れているのだとか。また久喜市立郷土資料館では令和8年秋の特別展で、虚舟図を含む「市指定文化財・岡田家文書展」の開催も予定されている。

ふしぎなことに令和7年度には、国立公文書館でも同館が所蔵する『弘賢随筆』という資料に描かれた虚舟図を用いた公式グッズが作成され、SNS等で話題を呼び一時的に完売するほどの好評を博している。
事件から二百有余年を経て、いま再び虚舟にビッグウェーブが訪れているとでもいうのだろうか。新たな虚舟図、そして全てのおおもとたる「ジ・オリジン」が発見される時は、すぐそこまで近づいているのかもしれない。

鹿角崇彦
古文献リサーチ系ライター。天皇陵からローカルな皇族伝説、天皇が登場するマンガ作品まで天皇にまつわることを全方位的に探求する「ミサンザイ」代表。
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