ネット以前の元祖【八尺様】発見!? 大きな女の人の怪異/妖怪補遺々々
2021年のオネショタを含め、SNS上でたびたび話題となる「八尺様」。いわゆるネット都市伝説の存在だが、文献上にも…いるはいるは、八尺様のような大きな女性の伝承が!
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四国最南端、足摺半島(岬)。断崖絶壁に取り囲まれたこの最果ての地は、日本屈指のパワースポットとも呼ばれている。それを代表する巨石群を歩き、驚異の足摺世界を体感する旅は、令和の時代に生きるわれわれにとって特別な体験となる。
目次
そこは「(日本国内で)東京から一番遠い場所」といわれているらしい。
もちろん、距離的にいえば沖縄県のどこかということになるが、そうではなく、あくまで時間を基準にした場合だ。ただ、そのことは、首都圏で暮らしている者にとって決してマイナスな印象ではなく、むしろ憧憬を募らせる重要なポイントである。
筆者は高知空港から約4時間半ほどかけて四国の最南端の碑がある足摺岬にたどり着いた。そこで出会った景観は、まさにここにしかない奇観として心に深く刻まれることになるが、まずは何をさしおいても詣でるべきスポットがあった。
唐人駄場と唐人石巨石群。
そこは日本屈指のパワースポットとも、超古代のミステリースポットとも呼ばれている。「あそこに行くと元気をもらえるんですよ」たまたま出会った地元の女性はそう声を弾ませた。
唐人駄場の「駄場」とは、地元の言葉で〝原っぱ〞というぐらいの意味だ。海岸から2キロほど入った標高230メートルの高台に、直径180メートルほどの円形をなして広がっており、今はキャンプ場・公園として整備されている。
太平洋を望み、南国の陽光が降り注ぐ気持ちのよい広場。そこに異彩を放っているのは、ポツポツとオブジェのように点在する巨石だ。聞けば、かつて広場の周囲に巨岩が並んでいたといい(惜しくもその多くは埋められたらしい)、かのフランスの巨石遺構・カルナック列石に比するべき遺構だったともいわれている。
しかし、何より注目すべきは、背後の山側、北東方向にあらわれる巨岩群だろう。それらは、常緑をたたえた照葉樹の森をかき分け、白っぽく鈍く輝
いている。
この、特別な何かを思わせる巨岩群こそ「唐人石」と呼ばれているものだ。
このラインより上のエリアが無料で表示されます。
「カミサマが宿る場所所といわれていますので、一礼して入っていきましょう」
ガイドに促され、その〝神域〞に入る。その入り口には「南のサークル」、「東のサークル」と呼ばれる一画。案内板には「ストーンサークルと呼ばれるもので、2つの中心の石を取り巻くように円形状に石が配列されています……」とある。
〝参道〞を上ると、いよいよ巨岩群が目に飛び込んでくる。数といい場のスケール感といい、「駄場」から見上げたときの印象をはるかに上回るものだ。先ほどはその一部しか見えていなかったことに気づく。
そして、次から次と何かを思わせてやまない巨岩があらわれる。亀石、千畳敷岩、鏡石、亀の背、鬼の包丁石、祭壇石……。このほか、「再生のエリア」と呼ばれる一画には、亀頭をもたげるような〝陽〞の石と、割れ目を挟んで立つ〝陰〞の石があり、胎内くぐりを思わせる岩の回廊もある。
巨石廻りのハイライトは、「千畳敷岩」だろう。空中にせり出した舞台を思わせる広い平坦面をもち、上れるように橋が渡してある。
思わず声が出る。
足許の周囲を無数の巨岩奇岩が取り巻き、眼下には唐人駄場と断崖が取り巻く海岸線、その先に緩やかな弧を描く太平洋を一望する大景観である。「本来は黒潮が川のようにはっきりと見えるんですよ(残念ながらこのときは黒潮が大蛇行中だった)」とガイドの濱田氏。
この高揚感は何だろう。あえていえば〝足摺世界〞の頂点に立ったかのような感覚というべきか。案内板にはこう書かれていた。「ここは降神時に巫女たちが奉納神楽を舞った場所と言われており、別名を『神楽石』とよばれています」
1990年代、唐人駄場と巨石群は一気に脚光を浴びた。きっかけのひとつは、異色の古代史家・古田武彦の著作だった。「足摺に古代文明圏」と題された雑誌記事(「This is 読売」1993年7月号)には、こんな刺激的な文言が見える。
「『唐人石や唐人駄場は、この巨大遺跡群の入口』——わたしはそう言った。……その一は、『鏡岩』の存在だ。先の唐人石の中の一巨石、それがいわゆる鏡岩だ」
「この鏡岩を見た時、わたしはこれが『縄文以前』の御神体であり、太陽信仰の聖地であったこと、この事実を疑うことができなかったのである」
ここでいう「岩」とは、大きな平坦面をもつ花崗岩のことで、岩に含まれる石英が太陽光を反射して白く輝いて見えることからその名がある。古田氏によれば、「その輝きを古代人は〝太陽の似姿〞として遙拝し、拝礼した」という。さらに氏は、それらのいくつかは「少なくとも、自然にはありそうもない」ことから、ある意図をもって「削平」され、「組み立てられた」ものと考えた。
そして、氏の仮説はこう導かれる。唐人石巨石群のいくつかは「人工の鏡岩」であり、「各鏡岩群は、宗教儀礼上の必要と共に、縄文灯台であった」と。
足摺に巨石構造物をそなえた古代文明が存在した――この古田説は人々のロマンを大いに掻きたてた。
とはいえ、一部のストーンサークルなどを除く巨石遺構(人の手により構築された構造物)とされるものの多くは、自然の作用によるものというのが近年の常識である。「自然ではありそうもない」奇跡的な形状の巨石も、降水や寒暖差による膨張と伸縮をくり返して割れ目(節理)を生じ、それに沿って風化が進んだ結果、現在の姿になったと考えられている。
また、縄文の巨石祭祀という文脈も現在では疑問視されている。磐座(神宿る石、信仰の対象となる岩)のカミ祀りはもっとも原始的なスタイルだと一般に認識されているが、考古学的知見では、自然石を祀る祭祀のはじまりは(弥生時代か古墳時代かは説が分かれるものの)少なくとも縄文時代にさかのぼるものではないとされている。
しかし筆者は、古田説のすべてを否定する気にはなれない。
そこは確かに、縄文人にとって特別な場所だった。
土佐清水市史編纂室の田村公利室長は、「唐人駄場と(そこに隣接する)山の神遺跡からは、縄文時代の大量の出土品が発見されている」という。その内訳は、縄文前期、中期、後期のものとされる土器のほか、大分県国東半島沖の姫島産の黒曜石を用いた石鏃(矢じり)などで、石鏃の出土は、四国西南部では宿毛市沿岸部にならぶ規模とのことだ。
ちなみに、黒曜石(姫島産のそれは灰褐色の独特な石質として知られる)は、縄文人にとって最重要の素材である。おそらく海の道を通じてこの地にもたらされたのだろう。
四国最南端部の足摺半島は辺境の地の果てを思わせるが、海からの視点で見れば真逆の評価になる。田村室長にいわせれば、「足摺は東アジアの要衝というべき重要なポイント」なのである。なぜか。その前提となる重要な事実がある。
足摺半島は、黒潮が日本で最初に接岸する場所だった――。
海の民にとってこの事実は重要な意味をもつ。すなわち、黒潮に乗って海からやってきた者たちが、最初に目に焼きつけた日本(先史時代にその名称はないが)が足摺半島であり、先の巨石群だったのだ。古田氏の「縄文灯台」説もそのことが前提にある。
そしてそのことは、唐人駄場、唐人石という場合の「唐人」とはだれだったのかという疑問にも直結する。この場合の唐人とは、異国人全般を指す言葉だ。紙幅の関係で詳述できないが、かつて足摺を含む四国南西部は「波多国」といい、その始祖は天韓襲命といった。
「波多」は秦氏に由来するともいわれ、「韓」と「唐」は同義と考えられる。いずれも、渡来人(異国人)の記憶を濃厚にその名にとどめているのだ。
一方、古の都びとの世界観では、きわめつけの聖地は地の果ての辺境にあった。東の果てに常陸の鹿島神宮、西の果てに出雲の大社、そして南の果てに紀州熊野。
なぜそんな地でなくてはならなかったのかといえば、日常社会からもっとも遠く離れた最果ての地は、神仏にもっとも近い場所だったからだ。より象徴的な物いいをすれば、そこは「人はどこから来てどこへ往くのか」という問いに直結する場所でもあった。
紀州熊野が「南の果て」なら、足摺はいわば「南の果ての果て」である。
弘法大師空海が開いた四国霊場三十八番・金剛福寺(真言宗)は、その最南端・足摺岬に鎮座している。八十八か所の札所の三十七番岩本寺からは約85キロ、三十九番延光寺まで約60キロ。四国霊場のなかでも最果ての飛び地にある。
境内でまず目に入るのが、楼門に掲げられた「補陀落東門」の文字。つづいて曲がりくねったソテツの大樹とウミガメ像に出迎えられる。三面千手観音を本尊とする名刹だが、贅をつくした境内のデザインは、まさに龍宮を彷彿させる別天地の趣だ。
その背後には、金剛福寺の奥の院にして、足摺の山の聖地・白皇山(458メートル)。中腹の白皇神社の旧社地(大正時代に麓の白山神社に合祀されている)には山の御神体と思しき巨大な磐座が鎮座しており、さらに照葉樹林の森を登りきると、唐人石に比肩する巨岩群が次々とあらわれ、頂の磐座祭場へと導かれる。
その神は、金剛福寺の建立(平安初期)以前から足摺の地主神だったのだろう。その由緒は長い歴史の闇に埋もれていたが、明治の初年、白山神社の神主に神示が下り、隠されていた祭神・猿田大神(猿田彦神)の御名が明かされたという(『異境備忘録』)
一方、足摺の海の聖地が名勝・白山洞門である。花崗岩の海食洞門としては日本一の規模を誇るといい、その尾根の中央に白山神社の元宮が祀られていることからその名がある。「海から見れば、高さ50メートルほどの断崖に囲まれた足摺岬の天然のゲートなんです」と田村室長。聖地・足摺の天然の楼門なのだ。ちなみに、ここに祀られている白山神(ククリヒメ)は、あの世とこの世の境にあらわれる神にして、「潜り(潜る)」の意をもつ水神である。
ここではたと気づいた。この洞門は、金剛福寺に掲げられた「補陀落東門」そのものだったのだと。補陀落とはインド南端の海岸にある観音菩薩の浄土のことで、かつてそこを目指して海へと渡る修行(補陀落渡海)が行われた。その出立の地として選ばれたひとつが、補陀落にもっとも近い南の最果て、足摺岬だったのである。それは生きながらにして往く死出の旅立ちだったが、白山洞門は、その象徴的なゲートだったのだ。
旅の最後に向かったのは、足摺半島西南端に鎮座する龍宮神社だった。ここは黒潮が最初にぶつかるポイントで、潮が渦を巻くことから「ウスバエ(臼碆)」と呼ばれている。
昼なお暗い照葉樹林の参道をくぐり、あらわれた絶海の景観に延びる石段を下って岩礁に降り立ち、さらに断崖を登っていく。この世の際への道行きを思わせるこのアプローチは、最果ての旅のエピローグにふさわしい。
断崖の頂に、いつだれが祀りはじめたのかもしれないお社があり、海に向かって建つ鳥居があった。その鳥居越しに太平洋を眺める。この先に、ワタツミ(海の神)の龍宮があると古の人は思ったのだろう。ふと、黒潮は巨大な龍だったのかもしれないと思いつく。
その龍の背中に乗って、われわれの遠い祖先は日本にやってきた。そんな彼らにとって、この地はたどり着くべき約束の場所だったのかもしれない。
さまざまな思いが頭を駆け巡る。ともあれ、足摺は一度ハマったら足抜けが難しいヤバい聖地なのかもしれない
……筆者はいま、そんな予感を覚えているところだ。
本田不二雄
ノンフィクションライター、神仏探偵あるいは神木探偵の異名でも知られる。神社や仏像など、日本の神仏世界の魅力を伝える書籍・雑誌の編集制作に携わる。
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