亡妻との交霊を繰り返した…波田強一の情念/吉田悠軌・怪談解題

文=吉田悠軌 挿絵=森口裕二

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    戦前、霊魂の不滅を信じた理工系科の学者がいた。死者との交霊をも〝実現〟していた彼の信念は、やがて悲劇的な結末を招く。近代スピリチュアリズム、心霊主義の負の一面を体現してしまった、ひとりの男の物語を追う。

    気鋭の科学者がたどった交霊をめぐる哀しい物語

     波田強一という人物を知っているだろうか。
     大正から昭和初期にかけ、ゴム産業の第一線の現場で活躍し、研究者としても論文や著作『ゴム工業』を発表。後年には早稲田大学講師を務め、ゴム協会の運営にも尽力した、日本ゴム技術界の開拓者である。

     ただ彼については、科学技術の発展に邁進した経歴と相反するような、怪談めいたエピソードが知られている。亡妻との「交霊」にまつわる、哀しい物語だ。

     波田は九州明治専門学校(現・九州工業大学)を卒業後に上京、某ゴム企業の技術主任として迎え入れられた。そこで本郷の下宿先「T館」の娘、寿美子と恋仲になる。真面目な性格であった波田は寿美子と若くして結婚、そのままT館に居を構えた。稀に見るほどの愛妻家で、傍目にも仲睦まじい夫婦と映っていたそうだ(ちなみにT館は2016年まで老舗旅館として営業を続けていた)。
     ふたりはやがて女児を授かる。この娘は生まれつき脳性まひの障害により半身が不自由だったが、明るく溌剌と育った。波田もよきパパとして、当時のエリート男性としては珍しいほど家庭に気を配っていたようだ。
     ただ仕事面における波田は、非常に対照的な性格だった。ゴム業界の人々の証言を探ると、みな口を揃えて、彼の難しい性格を指摘している。非常に有能だが「お名前そのままな生一本の強情さ」で「すぐ反対する癖があるばかりか、人との協調ができなかった」。そのため「敵が多かった」との述懐がしばしば見受けられる。仕事の鬼である人格と、家族を溺愛する人格とが、両極端に振り切れていたのだろう。

     そんな彼の最愛の家庭に、最悪の悲劇が訪れる。もともと心臓の弱かった寿美子の病状が悪化。順天堂病院で手を尽くしたものの、昭和5年2月11日、あえなく帰らぬ人となったのだ。娘とふたり取り残された波田の悲痛は、並々ならぬものがあった。
     寿美子の一周忌にあたり、波田は追悼のための小冊子「寿光乃影」を、協会員たちに配布した。亡き妻への想いが溢れる詩歌集だが、そこにふと、次のような一節が差し挟まれている。
     ――死してなほわれを導く君なれば君が内助のほども偲ばる( 霊魂不滅を信ずるに至りし日)――

    波田強一夫妻。
    亡き妻・寿美子に贈った波田の追悼歌集『寿光乃影』。波田が描いた愛妻の似顔絵も載せられている。

    霊魂の実在を確信し、死した妻と会話する日々

     このころから、波田は奇妙な発言を重ねるようになった。
    「この前、妻といろいろな話をしてきまして……向こうの様子がいろいろわかりました……」
     会う人ごとに、そんなことを告げてまわるのだ。その手の話題に慣れていない技術者たちは、喜々として語る彼に、どう答えるべきか戸惑うだけだった。
     著名なゴム技術者である金子秀男も、業界誌に当時の思い出を綴っている。金子にとって波田夫妻は、まだ駆け出しの時代になにかと世話を焼いてくれた恩人だった。そして美寿子の没後、事情により伊勢の山奥で暮らしていた金子のもとを、波田はしばしば訪ねていた。遠路はるばると恐縮する金子に、波田は満面の笑みで返答する。
    「なに、妻に会いにきたついでだからね」
     四日市に有名な霊媒者がいる。その人物に妻の霊を降ろしてもらい、会話を交わすのがなによりの楽しみなのだ、と。「無神魂論者」を自認する金子は、恩師の言葉をどのように受け止めただろうか。

     日を追うごとに、波田の言動はエスカレートしていく。
     主著『ゴム工業』の刊行を祝うため、金子が本郷の波田宅を訪ねた折。2階の書斎で語らっていると、波田はふと「今、下に家内がいるよ」と漏らした。さも当然といった様子に、金子は背筋を寒くした。
     業界内には、愛妻の霊が毎夜、波田の帰宅を出迎えているらしいとの噂が流れた。波田自身も、会合の食事はすべて精進料理にしてくれと要求し、ゴム協会員たちを困らせた。妻の霊をさらに身近に感じて過ごすため、身を清めておく必要があったのだろう。

     さらに波田は2冊目の追悼歌集「寿光乃影 続」を周囲の人々に配った。その序文にはもはや、霊魂の実在についての確信が満ち満ちている。
    「愛する妻の死は色々のことを私に教えてくれました 死が無に帰したのでない知見はその基礎的なものであります 宗教が死後の世界にほとんど価値を有しないことを知り得ましたし また価値観に立脚した現代科学への信頼ももろくも打破せられて私は改めてここに人生観の建て直しを要求されました」
    「妻の死後経験するに至った新しい物理学的認識を含む未知の世界が悠然として開け新しい科学の開拓の興味をそそっており(略)人生の岐路に立つ私としてはこのことは実全的にまた一日も速やかに解決せねばならぬ問題であります」

     この文章はさらに不穏さを増していく。
    「それがため関係方面にそれとなく準備し来たったものが延々になりながらも近く私にその機会を与えてくれんとするまでになってきました。来たらんとするその日こそ私が再び太陽を把握するの日であることを信じて疑いません」

     先述どおり、当時の波田は、「四日市の有名な霊媒者」による妻との交霊にのめりこんでいた。度重なる魂の対話は、ついに行きつくところまで行きついてしまう。密室での交霊会のため、正確な発言内容は不明だ。ただ寿美子の霊は、霊媒の口を通して、おおよそ次のような言葉を告げたようである。
     ――肉体を捨てて霊体となれば、娘の体も不自由でなくなります。こちらの世界で、3人で幸せに暮らしましょう。

    肉体を捨て自由に――霊界を選んだ父、そして

     昭和7年6月14日の夕方。
     金子秀男は、勤務先である住友ゴム工業大阪店の2階にいた。仕事終わりの体を休めようと横になった、そのとき。突如として周囲が真っ暗闇となり、体がふわりと宙に浮いたような感覚を覚えた。そして全身を強烈な痺れが襲ってきたのである。
     しばらくしてもとの状態へ戻ったが、金子にとって生まれて初めての超常体験だった。いったい今のはなんだったのかと首をひねっていたのだが。
     翌朝、金子のもとに、波田の死を報せる電報が届いた。身ひとつで東京へ向かい、本郷のT館へと駆けつけ、そこで一連の真相を伝えられる。
     波田は歩行もおぼつかない娘を連れ、千葉の勝浦へと出向いていた。太平洋を望むその房総の海岸は、かつて寿美子とともにひと夏を過ごした思い出の地。旅行後、急激に心臓を悪化させた彼女が、最後の元気な姿を見せてくれた地であった。
     権現山という丘の上で、父娘はチョコレートを食べ、お伽噺の本を朗読した。そして波田は用意していた液体を、まず娘に飲み込ませ、続けて自らの口へと運んだ。事前に幾度もの動物実験を重ねた、確かな死をもたらすための強力な麻酔薬だった。
     夕焼けが父娘の遺体を照らしたのは、金子が不可解な痺れに襲われた瞬間と、まったく同時刻のことだったという。

    解題――波田父娘の心中事件は心霊研究者にも衝撃

     亡き妻との交霊の末、霊界へ旅立つことを決意、ついに愛娘との無理心中を遂げてしまう……。この波田の行動にショックを受けたのは、ゴム業界の人々ばかりではない。心霊現象研究における大物、小田秀人もそのひとりだった。数々の心霊実験や交霊会を行ってきた小田の業績については、「ムー」2025年8月号の不二龍彦氏による特集に詳しいので、そちらを参照していただきたい。

     愛妻を失った直後の波田は、ひっそりと小田のもとを訪れていた。彼らは広島第一中学の同窓生という縁はあるものの、顔見知りなだけで卒業後に会ったことすらない。不思議に思った小田が訪問の理由を訊ねたところ。「幽霊というものは本当にあるものなのかい?」と、波田は突然、自宅であるT館の間取り図を紙に描きだした。
     T館は下宿と旅館を兼ねた建物なので、トイレが男女でわかれている。その女便所の引き戸が、無人にもかかわらず閉まることがあるというのだ。それもきまって妻の初七日、二七日、三七日と。寿美子は入院中、下の世話を介護してもらうことを嫌い、「早く退院して自宅の便所にいきたい」と口癖のようにいいつづけていた。そして四九日、洗面所にいた波田は、確かに女便所へと入っていくものを目撃した。一瞬だが、女の着物と白足袋がはっきり見えたのである。

     自分は妻の幽霊を見たのだろうか。もしそうなら、ぜひとも会って話がしたいのだ。瞳を輝かせながら、波田は小田に懇願した。
     そこで小田は、浅野和三郎が発足したばかりの心霊科学協会などに波田を同行させる。その流れで繋がったのが「四日市の有名な霊媒者」、中西りかである。大正後期から霊媒として活躍し、後には「日霊会」という団体の教祖となった人物だ。彼女が降ろす寿美子の霊との対話に、波田はのめりこんだ。中西の東京出張には欠かさず出席し、さらに四日市の道場にも通いつめるようになる。審神者も研究者もだれも入れさせない、ふたりきりの密会であった。

     これは交霊会としてはイレギュラーな事態だ。第三者不在のままに霊的対話を重ねれば、歯止めが利かなくなることは想像に難くない。依頼者(波田)と霊(寿美子)およびその声を代弁する憑依者(中西)との相乗効果が、このケースでは最悪の事態をもたらした。

    事件が照らし出した心霊主義の危険な側面

     近代スピリチュアリズムが隆盛した理由は、霊界の存在をデータとして証明できるのではないかという科学的探究心が一面にあった。だがまた一面において、亡くなった愛する人々ともう一度だけでも会話を交わしたい、との切なる情緒が大きく関わっていたのも間違いない。例えばアメリカでは、南北戦争による未曾有の大量死が、死者たちとの交信を望む人々を増加させ、心霊主義の普及に繋がった経緯がある。
     しかしこれには一定の危険も伴う。波田父娘の悲劇は、心霊主義の危うい側面を照らし出した。小田は「もしこんなことがうまく行って流行にでもなったらどうであろう」と難色を示し、『心霊研究』1969年2月号に、警鐘を鳴らすような記事を発表している。
     ある夜の交霊会にて、小田は「空中朗読」の実験を行なっていた。参加者たちが書いた文章を封筒に密閉しておき、それを霊に読みあげさせるというものだ。すると空中から、思いもよらぬ声が響いた。波田強一の霊が、この場を訪ねてきたというのだ。慌てて「どうしています、現在?」と問いかける小田を、波田は「それは今いいたくない」と制す。自分がここに現れたのは、小田の妻が書いた文言を指摘するためなのだ、と。
    「私がそちらへ行くときは楽に行かせてください。いつでも結構です」
     夫人は軽い気持ちで書いたのもしれないが、このような考えを抱いてはならない。自ら死を選んだものが、楽しい生活を営めるほど霊界の法則は甘いものではない……波田の霊は、そう忠告しにきたのである。
     波田父娘が死を遂げた現場近くには、彼らを弔う親子地蔵が建立された。崖下に佇む大小二体の地蔵は、現在も地元のサーファーたちが清掃するなど、丁寧に弔われている。

    波田父娘の慰霊のため、勝浦に建立された親子地蔵。近くでサーフショップを営む高梨さんによると、現地でもこの地蔵の詳細な経緯は忘れられており、一時は一家惨殺説なども流れ「子供のころは触れるだけで祟りがあると脅かされていた」という。その荒れた姿に心を痛めた高梨さんらが草刈りなどを行なうようになり、現在はきれいに整備されている(写真提供=マリブポイント)。

    ※本記事は同人出版社「宮内書房」の宮裡將揮氏から多くの情報・資料提供をいただいた。

    (月刊ムー 2025年12月号掲載)

    吉田悠軌

    怪談・オカルト研究家。1980年、東京都生まれ。怪談サークル「とうもろこしの会」の会長をつとめ、 オカルトや怪談の現場および資料研究をライフワークとする。

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