18世紀フランスの船乗りが体得した遠隔透視予言法「ナウスコピー」の謎! 的中575回の圧倒的精度で伝説に

文=仲田しんじ

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    人工衛星もレーダーもない時代に、島に近づいてくる船舶を何日も前に予知できた能力は、並外れた努力と研鑽で獲得した超絶技法なのか、それともリモートビューイングなどの超能力なのか――。18世紀終盤のあるフランス人の類稀な能力は今も謎に包まれている。

    575回の“予言”的中

     アメリカ独立戦争中の1778年2月、フランスがイギリスに宣戦布告したことで、フランス軍は各地で厳戒態勢を敷いていた。

     フランスの植民地だったモーリシャス島(当時はイル・ド・フランスと呼ばれていた)でもイギリス海軍艦隊の攻撃に備えて海洋の監視に余念がなかった。

    イル・ド・フランスの地図 画像は「Wikipedia」より

     1782年8月、フランス東インド会社の船員として島に滞在していたエティエンヌ・ボティヌという男が、総督フランソワ・ド・スイヤックに、「11隻の艦隊がモーリシャスのポートルイスに近づいている」と報告した。

     イギリス軍の攻撃を恐れたスイヤックは、すぐさま偵察のために軍艦に出航を命じた。しかし軍艦が出航して間もなく、ボティヌは総督に「イギリス艦隊が進路を変えてモーリシャスから離れているため危険は去った」と報告した。

     数日後、軍艦が戻ってきて、艦隊の存在、位置、方向などを報告したのだが、あらゆる点でボティヌの予測が正しかったことが判明する。ボティヌの唯一の誤りは、艦隊はモーリシャスを攻撃するためのイギリス海軍の艦隊ではなく、インドのフォートウィリアムに向かっていたイギリスの商船団だったことだ。

     この一件を含め、1778年から1882年の間に、ボティヌはスイヤック総督のために575回もの“予言”を行い、そのほどんどを的中させた。大多数の“予言”は船影が目視できるようになるより4日も前に行われ、艦隊の船舶数まで正確に推定することで、総督をはじめあらゆる人々を驚かせた。

    「どれほど信じ難いものであろうとも、私を含め、海軍と陸軍の多くの士官は、ボティヌ氏の予言を目の当たりにしたのです」と、スイヤック総督は海洋大臣マレシャル・ド・カストリーに宛てた手紙に記している。

    「彼を偽者、あるいは空想家として扱うことはできません。長年にわたり、目に見える形での実証が行われてきましたが、彼が予測していなかった船が島に到達した例はありません。島に接近したものの接触しなかった船は、ほとんどの場合、外国船であることが判明しました」(スイヤック総督)

     海岸から数百キロも離れた地平線の彼方、つまり目に見えない場所にいる船舶を検知することができたボティヌの能力をどう理解すればよいのだろうか。

    画像は「Wikipedia」より

    本国で嘲笑、否定される

     エティエンヌ・ボティヌは1738年、フランス西部の旧コミューン、シャントソーに生まれ、ナントで育ち海への情熱を育んだ。15歳で早くも貿易船の船乗りになり、その後はイギリス海軍、そしてフランス東インド会社で船に乗り続けた。航海中のボティヌは大気の観察に余念がなく、視界に入らない船の存在を検知する能力を醸成したという。

    「1764年、私はイル・ド・フランスに赴任した。そこで多くの余暇を過ごした私は、再びお気に入りの観察に没頭した。そこでは、以前よりもはるかに多くの利点があった。まず、日中の特定の時間帯には、澄み切った空と澄んだ空気が研究に好都合だった。また、島に来る船の数が少ないため、船が絶えず通過するフランス沖合に比べて、ミスを犯す可能性が低かった。島に来て6か月も経たないうちに、私は自分の発見が確実だと確信した」(ボティヌ)

     ボティヌはこの新たに獲得した能力を「ナウスコピー(Nauscopie)」と呼び、あくまでも科学的な技術であると主張した。

     ボティヌは同僚の水兵や海軍士官たちに対し、船が実際に地平線上に現れる数日前に特定の時刻に島に到着すると予測し、それが的中するかどうか頻繁に賭けを行っていた。

     彼の予想は滅多に外れなかった。士官たちは彼の成功を鋭い視力のおかげだと考えたが、彼ら自身は望遠鏡を使って地平線を観測していたのに、ボティヌは一度も望遠鏡を使ったことがなかったので、士官たちは困惑するばかりであった。

    画像はYouTubeチャンネル「Crier」より

     ある時、スイヤック総督はボティヌに“秘密”を明かす見返りに1万リーブルと年間1200リーブルの年金を支払うと申し出たが、ボティヌはもっと良い条件があると考え、これを断った。

     1784年、ボティヌは自分のこの能力が本国で認められたいと思いパリに赴いたが、ナウスコピーの話は嘲笑されるばかりだった。カストリー元帥は謁見を拒否し、文芸誌「メルキュール・ド・フランス」の編集者フォントネー神父は、ボティヌが見ているのは「海上の船ではなく、空中の蜃気楼だ」と示唆した。ボティノーは失意のうちにイル・ド・フランスに戻ると、その後インドへと渡り、1802年に人知れずこの世を去ったのだった。

    ナウスコピーは遠隔透視だったのか?

     ボティヌは本当に遠く離れた船を検知できていたのか。それともきわめて巧妙な詐欺師だったのか。

     ナウスコピーは20世紀半ばまで、ボティヌの母国ではなく、主にイギリスで関心を集め続けた。スコットランドの物理学者、サー・デイヴィッド・ブリュースターは1832年に彼を「イル・ド・フランスの魔法使いの灯台守」と呼び、「その力は自然現象の綿密な観察から得たに違いない」と考えた。

     フランスの政治理論家で科学者のジャン=ポール・マラーも、彼に多少の懐疑的な見方を示したが、彼に有利な証言が多数あることを踏まえ、フランス当局と科学者が彼の技術の研究を怠っていたのではないかと疑問を呈した。

    Miran LesnikによるPixabayからの画像

     1928年になっても、ボティヌには元イギリス海軍士官のルパート・グールドが共感を寄せており、彼は次のように記している。

    「ボティヌがペテン師ではなかったこと、彼が成し遂げた発見が今日の世界貿易の時代でさえも興味をそそるものであったこと、そして彼の時代にはもっと重要であったに違いないことは、ほとんど疑いの余地がない」(ルパート・グールド)

     ボティヌは今日で言う「リモートビューイング(遠隔透視)」に似た、類まれな超能力を持っていたのかもしれない。とはいえ、たとえ遠くにいる船の存在を遠隔透視できたとしても、その船がこちらへ向かってきていることまでわかるとなれば、それはもはや予言に近い能力であるとも考えられる。とはいえ、ボティヌ自身と当時のヨーロッパ社会は、ESPや超能力という概念を持ち合わせていなかったのだろう。ナウスコピーを今から検証することはきわめて難しいと言わざるを得ない。

    ※参考動画 YouTubeチャンネル「Crier」より

    【参考】
    https://www.smithsonianmag.com/history/naval-gazing-the-enigma-of-etienne-bottineau-104350154/
    https://www.mysteriouspeople.com/remote_viewing.htm

    仲田しんじ

    場末の酒場の片隅を好む都会の孤独な思索者でフリーライター。興味本位で考察と執筆の範囲を拡大中。
    ツイッター https://twitter.com/nakata66shinji

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