巨大な龍神で雨を呼ぶ! 埼玉・鶴ヶ島の「脚折雨乞」を目撃/奇祭レポート

文・写真=影市マオ

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    オリンピックがある年に、それはやってくるーー。埼玉県に伝わるド級の龍神奇祭を現地レポート!

    8年ぶり!巨龍の雨乞い神事が復活

     パリオリンピックが開催され、汗と涙のドラマに世間が熱狂した、2024年の夏――。しかし筆者はというと、同じく4年に一度行われる、別の祭りにより注目していた。その祭りとは、埼玉県鶴ヶ島市の脚折(すねおり)地区に伝わる「脚折雨乞」だ。

    「脚折雨乞」は、江戸時代から続く降雨祈願の伝統行事。龍神に見立てた巨大な蛇体「龍蛇(りゅうだ)」を男達が担ぎ、地区内の白鬚(しらひげ)神社から雷電池(かんだちがいけ)まで、約2キロの道のりを練り歩くのである。そして最後に、龍蛇を池に入れて解体することで、降雨や五穀豊穣を祈るというものだ。

     この雨乞い神事の由来について、明治8年(1875)の地誌『村誌編輯(そんしへんしゅう)』には、次のようなことが記されている。

     かつて脚折村の雷電池には大蛇が棲み、畔に建つ脚折雷電社に雨乞いをすると、必ず雨が降るという言い伝えがあった。江戸時代、その霊験のあらたかさは、近隣の人々にも知られるほどだった。
     ところが、寛永年間(1624~1644)に、池を縮めて新田にしたところ、大蛇が上州板倉(群馬県板倉町)の御手洗(みたらし)沼へ移り、雨乞いをしてもほぼ雨が降らなくなった。
     明治7年(1874)夏に起きた干ばつの際も、雨乞いによる“おしるし”は無かった。そこで、村人が協議の末、藁にもすがる思いで板倉雷電神社(関東一帯の雷電神社の総本宮)に赴き、降雨を祈願。雷電神社の神官による祈祷が一晩中行われた。その翌日、村人が神社境内の御手洗沼(雷電沼)の水を竹筒に入れて持ち帰り、雷電池に注いで雨乞いをした。すると、快晴だった空にたちまち暗雲が立ち込め、雨が降り始めたという――。

     脚折村の雨乞いに、龍蛇が登場した時期は不明。だが、明治10年(1877)の村人の日記には、「蛇を池中へ入れ祈る」と記されている。つまり、少なくともこの頃には、現在の祭りに近い内容となっていたようだ。ただし、言い伝えを加味すると、江戸時代から既に蛇体が用いられていた可能性も考えられる。

    雷電池の畔に建つ脚折雷電社。

     明治時代以降も度々、不定期にこの雨乞いは行われたが、戦後の高度経済成長期に至ると、農家の減少などに伴い、東京オリンピックのあった昭和39年(1964)をもって中断。けれども時は流れ、都市化した地域の一体感を生むべく、地元住民によって保存会が結成され、昭和51年(1976)に復活した。その後は、夏季五輪イヤー限定で8月の第1日曜日に行われてきたが、前回の2020年はコロナ禍で中止に。従って、今年の「脚折雨乞」は、実に8年ぶりの開催となった。しかも、すっかり忘れていたが、今年は辰年。龍神の顕現を拝むのに、この上ない好機といえよう。

    龍神の壁画(雷電池付近の建物の外壁)。

    龍蛇が龍神と化して神社を出発

     そんな訳で、祭り当日の8月4日――太陽がギラギラ光る絶好の雨乞い日和に、筆者は脚折地区を訪ねたのだった。しかし、「脚折」とは奇妙な地名である。雨乞いのために、生贄の脚を折って龍神に捧げたことが由来だろうか…などと物騒な想像もしていたが(住民の皆様すみません)、ヤマトタケル(日本武尊)の東国征伐の折り、人馬が脚を折ったことにちなむ名であるようだ(諸説あり)。

     県内ほぼ中央に位置するこの辺りは、典型的な郊外のベッドタウン。ただ、チェーン店が建ち並ぶ幹線道路から少し脇道に入ると、住宅街に混じって茶畑(狭山茶)も点在し、完全な農村地帯であった昔の名残を伺わせる。しばしば干ばつに見舞われてきた当地では、特に農家の人々にとって、超自然的な力に頼る雨乞いも重要な行事だったのだろう。

     正午頃、祭りの起点となる白鬚神社に到着。白鬚神社は、1000年以上の歴史を持つとされる古社。祭神はサルタヒコ(猿田彦命)と武内宿禰命で、両神とも白髪の老翁の姿で現れることから、長寿の神ともいわれている。江戸時代には、脚折を含む7つの村が神域で、総鎮守として崇敬されていたらしい。

     入口を探していると、神社南側の畑道いっぱいに、デーンと鎮座する緑色の何かを発見。そう、これこそが、祭りの主役の龍蛇である。全長約36メートル、重さ約3トンに及ぶ巨大造形物だ。1週間前から地元住民が力を合わせ、大量の竹や麦藁などで製作したという(材料は前年から準備)。

     龍蛇の頭部は、高さ約4.5メートル。ギザギザの銀歯(牙のみ金)が生えた大きな口が開き、今にも炎を吐き出しそうだ。口の中を覗き込むと、上顎には板倉雷電神社のお札が、下顎には舌が付けられている。また、ギョロッとした目が睨み付け、鼻の辺りに御幣が立てられ、銀色の長いヒゲが生えている。他にも尖った耳、金色の宝珠、紅白縞の細長い角などもある。威圧的でありながら、何処か愛嬌を感じさせる顔だ。地元の老人によると、以前に比べてシュッとした印象だが、手作りの味わいや材料の調達状況などで、龍蛇の顔つきは毎回多少異なるとのこと。

     そもそも当初、龍蛇は全長20メートル台だったものの、昭和39年(1964)の中断前に現在のサイズになったようだ。当時の住民らが、最後の雨乞いのつもりで気合を入れ、従来より大きくしたのだろうか。その長い蛇体は、竹の骨組みに藁束を重ねて肉付けされ、鱗に見立てた熊笹の葉で、びっしりと覆われている。また尻尾の先端には、「尻剣」と呼ばれる大きな剣が付けられ、なんとなくヤマタノオロチ(八岐大蛇)を彷彿とさせる。

     龍蛇の存在感に圧倒されていると、スピーカーから挨拶の声が聞こえ、神社の境内で出発の儀式が始まった。背中に「龍」と記された青い法被姿の男達が、小ぢんまりとした境内の参道に溢れている。やがて午後12時半になると、一同は龍蛇の前に集合。宮司による修祓・祝詞奏上が行われた。この「入魂の儀」により、龍蛇は「龍神」へと変化するのだという。

     その後、複数の竹筒が運ばれてきた。御手洗沼の“御神水”である。祭りの前日、代表者が板倉雷電神社に参り、「戴水(たいすい)の儀」で汲んだものだ。今では車が使われるが、昔はこの御神水を持ち帰るのに、数10キロの距離を複数人で走り継いだという。これは御神水を置いておくと、そこに雨が降ってしまうので、休むことなく移動する必要があるとされたからだ。埼玉と群馬の友情のようなものや、オリンピックの聖火リレーを思わせる、興味深い話である。

     そんな神秘的な御神水は、保存会の会長らによって龍神の口へ注がれていった。こうして全ての準備が整い、午後1時、待望の「龍神渡御」が始まった。

    灼熱の街を龍神が豪快にうねり歩く

    「わっしょい!わっしょい!」

     気温が体温に近い炎天下の中、男達が掛け声を上げ、必死に龍神を担いで突き進む。担ぎ手の数は、総勢約320人。新旧住民の絆を繋ぎ、伝統を継承する意図もあってか、熟年から若手まで幅広い世代が交代制で参加している。

     龍神が住宅街を移動する光景は、まるで怪獣襲来のような迫力である。古代の生き残りみたいな姿が、現代文明を象徴するコンビニの前を通過する様子などは、特に異物感が際立つ。意外と動きが速く、油断すると置いていかれそうになるほどだ。交差点などを曲がる時は、勢い余って角や人にぶつからぬよう、細心の注意が払われていた。

     龍神を先導するのは、法螺貝・太鼓の音を轟かせ、神旗・霊水を携えた人々。神旗には、「雷電大神(らいでんのおおかみ)」や「天水分神(あめのみまくりのかみ)」などの神名が書かれている。いかにも雨乞いの儀式といった雰囲気だ。

     総指揮者の音頭のもと、龍神は神社を出て、まずは近所の善能寺へと向かう。たまたまとは思うが、祭りのパンフレットに載る龍神の渡御コースは、龍や蛇の形を地図上で一筆書きしたようにも見える。

     沿道に見物人はそれなりにいるものの、懸念していたほど多くない。恐らく暑過ぎるせいだ。筆者は、濡れタオルを首に巻き、こまめに水分補給しつつ龍神を追いかけた。しかしタオルはすぐ乾き、飲み物はたちまち飲み干し、図らずも、干ばつの恐ろしさを少し体感させられた。実際、この灼熱の場に居合わせた誰もが、お湿りを欲する状態だったように思う。

     龍神が善能寺に着くと、住職による祈祷とともに一時休憩。担ぎ手の男達は当然汗だくで、ぐったりしている者もいる。「暑過ぎて死にそうだよ!」という声も聞こえる。見ているだけでも疲れるのだから、担ぎ手の大変さは相当なものだろう。

     その後、一行は雷電池を目指して動き出し、白鬚神社の方まで戻ってきた。あとで知ったが、この付近の公園内には「龍蛇ふる里会館」なる施設があり、「ミニ龍蛇」が常設展示されている。龍神が到着するまでの間も、雷電池では子供達がミニ龍蛇(長さ約6メートル、重さ約100キロ)を担いで回り、見物人を楽しませるそうだ。

    龍蛇ふる里会館。

     改めて神社を過ぎた辺りで、筆者は渡御コースを先回りし、報道関係者が集まる交差点付近へ。撮影の好ポジションを確保し、こちらに近付いてくる龍神を待ち構えた。

     ところが、その時だった。あともう少しのところで、龍神の身に異変が。なんと、急に骨組みの竹が折れ、下顎が変形。傾いて、殴られたような顔になってしまった。まさかのアクシデントに周囲は呆然……。暑さで意識が朦朧とし、すぐ隣に某テレビ局カメラマンがいたこともあり、筆者には一瞬、「終」のロゴマークが見えた気がした。ただ、しばらく中断を余儀なくされたが、関係者らは臨機応変に対応。龍神の口の中に“ドラム缶を入れる”という応急処置を施した。これにより、龍神はバランスを取り戻し、どうにか渡御は再開されたのだった。

    街道で龍神が破損してしまうトラブルが。とっさの応急処置でことなきを得た。

    聖なる池で荒ぶる龍神は天へ昇る

     午後3時過ぎ、龍神は封鎖された国道を大胆に横断し、車のドライバーを驚かせると、あっという間に雷電池へ到着。雷電池は、現在は公園として整備された小さな人工池だが、かつては老樹が鬱蒼と茂る大きな湧水池であった。近世には、雷や雨に関係の深い景勝地として知られ、「雷電」「雷耕」「雷神」「神鳴り」「神立(かんだち)」などと呼ばれた。

     雷の語源は「神鳴り」であり、別名は「神立」ともいわれる。これはすなわち、“神の示現”を表すものだ。古来、雷は文字通り“雨”を“田”に降らせる他、稲妻・稲光が稲穂を実らせるとされたため、雷神や農耕神として崇められてきた。また、雷が雨に伴うもので、稲妻が蛇を想起させることから、雷神は蛇体であり水神であるとも考えられた。

     従って、雷と蛇と龍は三位一体といえる。中世には、水神を象徴する蛇と龍は同一視されたからだ。いわゆる、龍蛇信仰である。「蛇足」という言葉が余計なものを意味するように、通常の蛇には足がない。だが、御利益などで身分が高まった大蛇は神格化され、その結果、角や足が生えて、龍とみなされたのだ。

     実は「脚折雨乞」の蛇体も、昭和時代に復活するまでは、龍神・龍蛇の名は用いられず、あくまで「大蛇」と呼ばれていたという。世代を超えて受け継がれた人々の願いや絆が、雷電池の大蛇を龍へと昇華させたのである。

     そんな地域の聖地たる池の周辺は、懸念通り、既に大勢の見物人で埋め尽くされている。早めにこちらへ向かい、場所を取って龍神を待っていた人達も多いようだ。池から少し離れた草地には、大きな特設観覧席まである。人ごみをかき分け、可能な限り池に近付くと、対岸の木立の中に龍神の頭が見えた。その目の前には鳥居があり、奥に脚折雷電社(白鬚神社末社)が建っている。

     まずはこの雷電社で、白鬚神社の宮司、善能寺の住職による修祓。その後、保存会の会長、鶴ヶ島市の市長による「御神水献注」が行われた。明治時代の雨乞い方法に則り、板倉雷電神社の御神水が池に注がれたのだ。すると、ほぼ同じ頃、奇しくも空に雲が現れ、それまであった強い日差しが陰った。雨こそ降り出さないものの、天気に影響が出始めた気がして、筆者の胸は高鳴った。

     そして午後3時半過ぎ、担ぎ手達がゆっくりと慎重に階段を下り、ついに龍神が池に入水。神旗がはためき、法螺貝や太鼓の音が轟く中、龍神は蛇体をうねらせながら、池の中を時計回りに周回していく。勇壮に泳ぐその姿は、まるで本当に生きているかのようだ。

     大きな口からは先程のドラム缶が覗き、映画『ジョーズ』のサメ(空気ボンベを口に突っ込まれる)みたいでもある。一方、担ぎ手達は必死の形相。太ももの辺りまで水に浸かり、池の幅をめいいっぱい使って龍神を進ませる。

     ここで全員が「雨降れたんじゃく、ここに懸かれ黒雲」と唱和。雨乞いの呪文で、「たんじゃく」は帝釈天を意味するともいわれる。仏教の守護神にして、元々ヒンドゥー教の雷神インドラであった帝釈天に、降雨を願うのである。喧騒と熱気とともに渦を巻く蛇体の後方では、尻剣で水面が激しく叩かれ、池の中は泥水と化していった。

     やがて龍神が池の中心まで来ると、その無数の足(脚)が折れた。いや、足役の担ぎ手達が、蛇体を水の中に下したのだ。いよいよ、祭りのクライマックス「龍神昇天」である。次の瞬間、総指揮者の号令をきっかけに、担ぎ手達が一斉に蛇体に取り付いた。そして猛然と藁や笹などを搔きむしり、頭部の宝珠や目など、各部位を奪い合い始めたではないか。水しぶきと砂埃が上がり、龍神は見る見るうちに解体され、ほぼ骨組みだけになってしまった。

     こうした一連の荒々しい行為や騒ぎは、聖地を穢すことで龍神(雷神・水神)を怒らせ、雷や雨を誘うためといわれる。他の雨乞い儀礼にも見られる内容だが、神も仏も使えるものは何でも使って生きてきた、先人達の知恵と逞しさには驚かされる。

     気が付けば、池は男達と藁で埋め尽くされ、なかなかの芋洗い状態だ。この藁や各部位は縁起物で、持ち帰ると幸福が訪れるとされ、多くの人々が拾っていた。

    龍神に群がって宝珠などを取り合う担ぎ手たち。

     午後4時過ぎ、埼玉県知事らの挨拶をもって、万雷の拍手のうちに祭りは閉幕。池の周回数が予定より短縮されるなど、龍神の破損が尾を引いたものの、「何が何でも池まで持っていく」という担ぎ手達の意地や気概は、見る者の心を十分揺さぶったに違いない。

     それにしても、かつて農民が生活のために苦肉の策で始めた雨乞いが、これほど大々的な行事になっているとは思わなかった。古代オリンピックが聖地の宗教行事であったことを鑑みれば、もはや「脚折雨乞」は、“埼玉オリンピック”といっても過言ではないかもしれない。

    ――祭りの3日後、首都圏は記録的な大雨に見舞われた。

     鶴ヶ島市周辺も1時間に約100ミリの猛烈な雨量となり、埼玉県庁は落雷で建物外壁が破損したという。久々の雨乞いだったから、龍神が張り切ったのだろうか……。そう思った筆者が、試しにSNSの投稿をチェックしたところ、やはり同様の声が複数見かけられた。

    「脚折雨乞」の次回開催予定は2028年。ロサンゼルスオリンピックの年に、龍神は再び姿を現し、人々を圧倒することだろう。

    龍神昇天ののち、藁が拾い集められ池はもとの静寂に戻っていく。

    影市マオ

    B級冒険オカルトサイト「超魔界帝国の逆襲」管理人。別名・大魔王。超常現象や心霊・珍スポット、奇祭などを現場リサーチしている。

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