作曲家の霊が降臨し、失われた楽譜探しを懇願!? 降霊術に魅了されたシューマンと“幻の協奏曲”

文=新妻東一

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    ドイツ・ロマン派音楽を代表する作曲家、ロベルト・シューマン。晩年は降霊術にのめり込んでいたという彼が、死後に霊界から送ってきたメッセージとは? 失われた楽譜をめぐり交錯する思惑、そして明かされる真実──。音楽史に残る衝撃のミステリー!!

    精神を病み降霊術に傾倒した作曲家

    ──1857年、デュッセルドルフを訪れたある日、私がシューマンの部屋に入ると、彼はソファに座って本を読んでいた。

    「何を読んでいるんだい」
    「テーブル・ターニングを知ってるかい?」
    「もちろん」
    「テーブルはなんでも知っているんだ」

     そういうと、彼は次女を呼んで、彼女の助けを借りて実験をはじめた。小さなテーブルがベートーヴェン運命交響曲の冒頭のリズム、タタタ、ターンと音をたてた。この様子のすべてに私は恐怖を感じた──。

    * * *

    1850年に撮影されたシューマンのダゲレオタイプ(銀板写真)。 このころすでに精神に変調をきたしていた。

     これは、ドイツの作曲家ロベルト・シューマン(1810〜1856)の伝記を歴史上はじめて著したワシエレフスキーの『ロベルト・シューマンの生涯』にある記述だ。

     テーブル・ターニングとは降霊術の一種で、19世紀の半ばに米国で流行すると欧州に伝播、上流階級の女性たちの間やサロンで盛んに行われた。ひとりないしはグループで小さなテーブルを囲み、その上に手指をそえるだけで、テーブルがひとりでに回り、傾き、コツコツと音を立てることで霊と交信するものだ。

    19世紀に流行したテーブル・ターニングの様子。テーブルが空中に浮かび上がっている。

     名曲「トロイメライ」を含むピアノ曲集「子どもの情景」や、「春」「ライン」などの交響曲、数々の室内楽で優れた才能を示したシューマン。彼は1844年ごろから精神の不調を訴え、1850年代に入ると幻視や幻聴に悩まされ、「シューベルトやメンデルスゾーンの霊からメロディを授かった」などと口走っていた。

     晩年、テーブル・ターニングの本を手に入れたシューマンはそれを試し、オカルティズムにのめり込んでいった。彼は友人ヒラーに次のような手紙を書き送っている。

    「昨日初めてテーブル・ターニングの実験を試みたんだ。素晴らしい力だ! 考えてみたまえ! 運命交響曲の最初の2小節を尋ねてみた! 答えには普通より少し遅れたが、最後にこうはじめたんだ、タタタ、ターンとね。

     ただ、最初は少しゆっくりだった。だからいったよ、『テンポはより早くだ、テーブルくん』、そうすると正しいテンポで打ち鳴らしたんだ。自分が考えた数字を当てよと尋ねたところ、テーブルは正確に3と答えるじゃないか。まったく驚いたよ」

    シューマンが療養のために入院していたボン郊外の精神科病院。

     シューマンは1954年にライン川に身を投げて自殺を図るも通りがかった人に助けられ、一命を取り留める。自身の精神状態を懸念した彼は、自らボン郊外の精神科病院に入院し、愛妻クララや子どもたちから離れて暮らすことを選択する。以後、この世を去るまで2年間にわたり療養した。医師の記した病状日誌からうかがえるのは、晩年の悲惨な病状だ。

    「叫びすぎて、のどがガラガラになった」「看護人になぐりかかった」「食物を拒否し、室内に小便をし、たえず裸になりたがる」などとある。友人の若いバイオリニスト、ヨアヒムや作曲家ブラームスらはシューマンを見舞っていたようだが、妻のクララに面会が許されたのは夫が死去する数日前だったという。

     この病状日誌によれば、シューマンの精神異常の原因は梅毒による進行性麻痺と診断されている。梅毒の感染は1831年、当時親しかったクリステルという女性からだろうと彼自身が告白している。

    霊となった作曲家が“幻の曲”捜しを依頼

     時は流れ、シューマンの死後77年が、たった1933年。ロンドンの一室で、それは起こった。

     バイオリニストの姉妹、イェリーとアディラと友人らが集まって、「グラスゲーム」に興じていたときのことだ。

    グラスゲームの様子。「コックリさん」と共通点が多い。

     このグラスゲームとは、アルファベットを円状に記したものをテーブルに広げ、その円の中心にグラ
    スを伏せておく。そしてグラスの上にひとりないしは複数人が指を置くと、グラスが自然とそのアルフ
    ァベットの上を動く。その動いた順に文字を書き留めると、単語や文章ができあがるといったものだ。1970年代、日本の小学生の間で流行した「コックリさん」に興じた著者には少し懐かしい思いがする。

     さて、姉妹らが指を置くと、グラスは盛んに文字と文字との間を行き来しはじめ、文章を作り出し
    た。

    「あなたたちに会えてよかった」

    「あなたは私たちをご存じなの?」とイェリーが尋ねると、「君が生まれる前にこの世を去った者だ」「バイオリンのための作品を君に演奏してもらいたいんだ」とグラスが答える。次に「あなたの
    名前は?」と尋ねると、グラスはR-O-B-E-R-T-Sと動き、さらに続いてC-H-U-M-A-N-Nと綴ったのだ。

     綴りはやや違うが、ロベルト・シューマン。「だったらファンタジアかしら?」とイェリーは尋ねた。実は、イェリーの大叔父は前述のバイオリニストのヨアヒムであり、生前のシューマンは彼に「バイオリンのためのファンタジア」という曲を献呈していた。

    イェリー・ダラーニ(1893〜1966)。ハンガリーで生まれ、後にロンドンに定住した。

    「ノー。それは、まだ未出版のバイオリン協奏曲だ。ドイツにある。おそらくは博物館の中に」とグラスは答えた。

     その日からイェリーたちの、シューマンが作曲した未発表のバイオリン協奏曲捜しがはじまる。シューマンの遺族や研究者に尋ねても、皆が知らないという。しかし、音楽理論家ドナルド・トーベイに相談すると、重要な情報がもたらされた。

     シューマンは1853年にバイオリン協奏曲を作曲したが、クララ、ヨアヒム、ブラームスは、この作品には創造性もひらめきも不足し、彼の精神的な衰弱の兆候が見られると判断。作曲家の死後100年間、つまり1956年までは出版も演奏もしてはならないと封印していた。そして楽譜も行方不明となっていたのだ。

     やがて、姉妹の降霊会には在英スウェーデン大使のエリック・パールスティルナも加わるようになり、楽譜捜しは加速していく。彼らがヨアヒムの霊を呼びだすと、「ベルリン王室音楽高等学院博物館にあるだろう」と教えてくれた。

    ヨーゼフ・ヨアヒム(1831〜1907)。 高名なバイオリニストでシューマンとも親交があった。

     彼らは早速、博物館の館長に手紙を書くも返事はなし。仕方なく、パールスティルナがベルリンに立ち寄った際、その博物館を訪れた。病気で不在の館長に代わり、職員がシューマンの名前がついたフォルダを見つけてくれたが、そこには他の作曲家の書類が入っているだけだった。

     しかし傍で話をきいていた人が、同じくベルリンにあるプロイセン州図書館(現ベルリン図書館)に行ってみてはどうかとアドバイスした。パールスティルナが半信半疑でその図書館に足を運ぶと、なんと捜し求めていた楽譜が実在することが判明する。アシスタントを説き伏せ、なんとか幻のバイオリン協奏曲のピアノスコアまでは見せてもらえたが、楽譜を入手することはできなかった。

     パールスティルナは早速、失われていたスコアを見つけたと姉妹に電報を打った。その後、バイオリニストの姉妹は盛んに博物館に働きかけ、シューマンやヨアヒムの遺族にも協力を依頼したが、ヨアヒムがかけた100年の封印を理由に楽譜を保管する人たちは開示も謄本をとることも拒んだ。

    ナチスも巻き込んだ“初演争い”勃発

     やがてシューマンの未発表のバイオリン協奏曲のことは一般に知られるようになり、作曲家の霊に導かれて楽譜の存在にたどりついたバイオリニストの姉妹と、ナチス・ドイツの宣伝相ゲッベルス、そして米国の若きバイオリニスト、メニューヒンとの間で世界初演をめぐる三つ巴の争奪戦が繰り広げられた。

     当時のドイツにおいて、名曲中の名曲とされるメンデルスゾーンのバイオリン協奏曲は(作曲家がユダヤ人であることから)演奏が禁じられていた。それに代わる曲として、ナチスはシューマンのバイオリン協奏曲に目をつけたのだ。

     さらに、米国で世界初演の名乗りを上げたメニューヒンもユダヤ人だったことから、対抗意識に燃えるゲッベルスは当代の名バイオリニスト、クーレンカンプとベルリンフィルの組み合わせで、1937年11月26日に急いで初演を行わせた。演奏は短波放送で世界中に放送されている。その直後、メニューヒンは12月6日にニューヨークのカーネギーホールで米国初演を果たした。

     一方のイェリーは、初演の権利は自らにあると訴えるも受け入れられず、翌1938年2月16日にエイドリアン・ボールト指揮、BBC交響楽団の演奏で英国初演を行った。彼女はシューマンの霊の指示によって、適切な楽譜の訂正を行ったものを演奏したと主張している。

    シューマン夫妻の肖像(1847年)。ふたりは大恋愛の末に結婚した。

     ちなみに、この協奏曲の第2楽章には、シューマンが死去の直前に作曲したというピアノ曲「主題と変奏」(通称「幽霊変奏曲」)とよく似たテーマが登場する。

     そのためか、妻クララはシューマンの死後に楽譜全集が出版される際、この最晩年の曲には作品番号を与えなかった。

     晩年、そして死後も数々のオカルティックな話題がつきまとうシューマン。そんな一面もまた、このロマン派を代表する大作曲家の魅力のひとつなのかもしれない。

    (初出:月刊「ムー」2024年9月号)

    新妻東一

    ベトナム在住でメディアコーディネート、ライター、通訳・翻訳などに従事。ベトナムと日本の近現代史、特に仏領インドシナ、仏印進駐時代の美術・文化交流史、鉄道史に通じる。配偶者はベトナム人。

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