錦織先生の実像は? モデルとなった人物宅の周辺に現れる黒マントの男/小泉八雲と西田千太郎

文=田辺青蛙

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    ばけばけの「錦織先生」のモデルとして知られる西田千太郎。小泉八雲の無二の友人であり、人生にも深い影響を与えた早世の天才。松江では今も彼にまつわるふしぎな話が語られていた。

    「錦織先生」はどんな人物だったのか

     朝ドラ「ばけばけ」では、映画『国宝』等で著名な俳優・吉沢亮が演じる錦織先生のモデルとなったことでも知られる西田千太郎(にしだせんたろう)。

    「ばけばけ」で彼の存在を知ったという人も多いだろう。そんな錦織先生こと、西田千太郎に纏わるエピソードを今回は紹介したい。

     明治23年(1890)、ラフカディオ・ハーン――のちの小泉八雲が松江に赴いたとき、彼は異国に投げ出された観察者のような存在だった。日本という国を理解しようという強い意志はあっても、それを日々の暮らしとして体験する足場を持たない。言葉は通じず、風習も分からず、生活の見通しも不安定だった。だが、松江で過ごしたわずか一年余りの時間は、彼の人生と文学の方向を決定づけるほど深い意味を持つことになる。その転機の中心にいた人物が、島根県尋常中学校教頭・西田千太郎だった。

    西田千太郎(画像=国立国会図書館デジタルコレクション)。

     西田は松江藩足軽の家に生まれ、少年の頃から学問に秀で、「大磐石」と呼ばれたほどの秀才だった。教員伝習校変則中学科で常に首席を保ち、退学後はすぐに授業助手として教壇に立つ。だがそれでも学問への飢えは収まらず上京し、外国人教師から英語を学び、心理学・論理学・哲学・地学を独学で修める。文部省の中等学校教員検定試験では心理学・倫理学・経済学・教育学の四科目で主席合格という快挙を成し遂げながら、なぜか英語のみ不合格だった。

     外国人教師の通訳を務め、英文書簡を自在に書いた人物が英語で落ちてしまった……この奇妙な事実の理由は今も分からない。体調不良とも言われるが、いずれにせよ彼の人物像には、どこか人間的な余白がある。完全無欠の秀才ではなく、静かな誠実さを持つ教育者だった。

     松江に戻った西田は尋常中学校で多科目を教え、やがて教頭となる。温厚で私心がなく、生徒にも同僚にも公平で、「松江の聖人」と呼ばれるほど信頼を集めた。その彼が迎えたのが、来日間もない八雲だった。

     新聞記者として来日した八雲は、雇用条件への失望から職を離れ、松江へ流れ着く。
     生活は不安定、日本語も不自由。そんな彼を学校に迎え入れ、授業準備を整え、町を案内し、寺社や庶民信仰の意味を丁寧に説明したのが西田だった。彼は単なる通訳ではなかった。八雲が求めていたのは制度や知識だけではなく、日本人がどのように感じ、どのように生きているかという感覚そのものだったからだ。

     さらに西田は、のちに妻となる小泉セツを紹介し、帰化手続きにも尽力する。つまり彼は、八雲の生活を助けただけではなく、日本における人生の基盤を築いた人物だった。

     二人は急速に親しくなった。西田の日記には「ヘルン氏ヲ伴ヒ帰リ、酒飯ヲ饗ス」という記録が繰り返し現れる。八雲の松江滞在443日の間、西田家への訪問は25回以上。互いの家を行き来し、旅行を共にし、語り合い、病を見舞い、熊本転任後も150通以上の手紙を交わし続けた。八雲は西田を「利口と親切と、少しも卑怯者の心ありません」と評している。観察者として人間の本質を見抜こうとした彼が人格の誠実さを断言するのは稀なことだった。二人の友情の重みは、教育の現場にも深く刻まれていた。

     八雲が松江で経験した最も痛ましい出来事の一つが、教え子・横木富三郎の死だった。貧しい家庭に生まれながら学年主席に立つ神童。だが過度の学業と栄養不足により17歳で病没する。臨終前、彼は「もう一度学校を見たい」と願い、真綿入りのどてらに包まれ背負われたまま夜の校舎を遠くから眺めたという。八雲はその情景を記し、勤勉が命を削るものであってはならないと痛感する。

     教育とは何か。知識を増やすことか、それとも生を守ることか。その問いは彼の中に深く残った。

     この教育観は西田の人格的教育と共鳴する。そしてこの系譜の先に、夏目漱石が現れる。八雲の後任として熊本第五高等中学校に赴任した漱石は、教育制度の中で人間をどう理解するかという問題に苦しみ、それを文学として結晶させた。想像力を重んじた八雲、人格的教育を体現した西田、近代的自我の孤独を描いた漱石。つまり、三者は同じ問いの周囲を歩いていたのだ。しかしその頃、西田はすでに結核を患っていた。八雲の初講演で通訳を務めた際も止血剤を服用しながら壇上に立ち、途中で喀血したという。八雲は激しく心を痛め、毎日のように見舞いに通い、果物やラムネを届けた。

     だが病は進み、明治30年、西田は34歳で世を去った。
     八雲は多いに悲しみ「千太郎なき松江を訪れる気になれない」と語ったと伝えられている。

    西田千太郎旧居で語られる、ふしぎな話

     そうした記録から感じた思いを抱きながら、私は松江市新雑賀町に残る西田千太郎旧居を訪れた。

     通りに面した町家は静かに佇み、内部には柔らかな空気が漂っていた。

     日の差す縁側に並んだ椅子が二つ。ここで西田と八雲は並んで語り合ったそうだ。

     家には「千太郎」と本人の手によるものだろうか、名前が書かれたタンスがあり、引き出しを開けるとミョウバンの入った包みが出て来た。

    「当時の喀血の薬です。他に、遺書も出て来ました。当時は結核は不治の病でしたから……残されたお子さんは皆、優秀で帝大に進んだそうです。彼も若くして亡くならなければ、我が子の行く末を見られたでしょうに、さぞ無念だったでしょうね」という話を聞いた。

     そして家を出てから、近所の方に取材をしている最中、ふと思い出したようにこんな話をしてくれた人がいた。

     最初は、ためらうような口調だった。こういう話は、観光客向けの作り話だと思われたくないのだろう。だが「実際に見た人がいる」と前置きしてから、静かに語り始めた。

     夜遅く、この家の前の細い道を歩いていたときのことだという。灯りはまばらで、人通りもない時間だった。ふと気配を感じて顔を上げると、道の向こう側を黒い影が横切った。
     長いものを羽織っていた。コートというより、もっと重たい布――マントのように見えたそうだ。
     背丈は高くない。大人の歩き方ではなく、どこか遠慮がちで、肩をすぼめるような姿勢だった。
    「学生みたいだったんです」
     声をかけようと思った瞬間、影は家の前を通り過ぎた。足音がなかったという。舗装の粗い道なのに、靴が地面に触れる音が一度も聞こえなかった。
     不自然に思って振り返ったときには、もういなかった。
     逃げた様子も、曲がった様子もなかった。ただ、消えた。
    「昔の生徒じゃないかって、家族で話題になったんです」
     そう語る声は笑っていたが、笑いは長く続かなかった。西田千太郎の教え子たちは彼を深く慕っていた。病に伏したとき、見舞いに訪れる生徒が絶えなかったという。亡くなった後も、この家の前で立ち止まる若者の姿を見たという話が、昔からぽつぽつ語られていたそうだ。
     もし帰る場所を探しているのなら、ここ以外にないと、そう語った人もいた。

     別の人は、もっとはっきりしたものを見たと言った。
     夜、用事で外に出た帰り道だった。旧居の前を通りかかると、門のあたりに人が立っていた。背の高い西洋人だったという。黒い外套のようなものを着ていた。輪郭がはっきりしていて、影ではなかった。
     その人物は、ためらいなく敷地の方へ入っていった。
    「関係者の方かと思ったんです」
     この家は保存活動が行われている。見学や調査の人が来ることもある。だが、時刻はかなり遅かった。訪問の約束があるような時間ではない。
     声をかけようとしたが、足が止まったという。なぜか分からないが、呼び止めてはいけない気がした。
     数分後、やはり気になって門の方をのぞいた。
     誰もいなかった。
     敷地はそれほど広くない。隠れる場所もない。出て行くなら必ず見えるはずだった。
    「あとで思ったんです」
     その人は、少し声を落として言った。
     最近、この家の話題が増えている。取材も多い。昔の写真も展示され、名前がよく呼ばれるようになった。
    「もしかしたら……様子を見に来られたのかもしれないって」
     ヘルンさんが。
     冗談のように言ったが、目は笑っていなかった。

     こうした話は証明できない。だが、この家の前に立っていると、不思議と否定する気持ちも起こらない。ここは人が深く結びついた場所だ。学び、支え、看取り、別れた場所だ。強い感情が長く留まるとき、形を持たないものが歩いていても不思議ではないのかもしれない。

     夕方の光が落ち、家の輪郭がゆっくり暗くなっていくころ、通りを誰かが横切った気がした。

     近所の方から聞いた黒いマントの影の話を、最初は単なる見間違いの類だと思っていた。夜の住宅地では、遠近感も狂うし、影の形も変わる。昔の家が残る場所では、記憶のイメージが視覚に重なることもある。

     証明はできない。だが、この家の前に立っていると、理解しようとする気持ちそのものが、あまり意味を持たないように思えてくる。

     私は頂いた庭から捥いだばかりの柿の実を抱いたまま、そんなことを考えながら帰路についた。

    田辺青蛙

    ホラー・怪談作家。怪談イベントなどにも出演するプレーヤーでもある。

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