八雲も驚いたニッポンの「きつね信仰」/小泉八雲の怪談現場・城山稲荷神社

文・写真=田辺青蛙

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    動物界のばけばけ上手、きつね。松江に滞在していた小泉八雲は、ニッポンのきつね信仰に強く興味を惹かれていた。リアルな畏怖の対象としてのきつねがいた時代、八雲はそこに何をみたのか。

    ハーンの心をとらえたニッポンのきつね信仰

     松江に滞在していたころの小泉八雲は、この町の怪談や伝承を「珍しい話」としてではなく、人々の暮らしの一部として観察していた。

     とりわけ彼の目を引いたのが、狐と火災防止の信仰だった。

     明治の松江では、町の家々の引戸や玄関には当たり前のようにお札が貼られ、軒下には房の長い小さな注連縄が下がっていた。
     木造家屋が密集する城下町において、火は常に最大の脅威であり、その不安を引き受けるかたちで宗教的な実践が日常に溶け込んでいたのだろう。

     この火除け信仰の中心にあったのが、城山(じょうやま)稲荷神社だった。

    城山稲荷神社。

     城山稲荷神社の創建は寛永15年(1638)、徳川家康の孫にあたる松江藩初代藩主・松平直政が新たに領国入りした年にさかのぼる。

     社伝によれば、直政の夢枕に「稲荷真左衛門」と名乗る美少年が現れ、「城内に私の住まいを設けてくれれば、城内はもちろん江戸の屋敷まで火難から守ろう」と告げて姿を消した。直政はこれを霊示として受け止め、城内に稲荷社を建立。
     この由来によって、城山稲荷神社の札は火難除けとして松江の町に広く行き渡り、狐は、城と城下を守る存在として位置づけられていたという。

     八雲は通勤の途中に、この城山稲荷神社をよく訪れた。

     城山稲荷神社の境内には、大小さまざまな石狐が所狭ましと並んでおり、今もその神秘的な光景が訪れる人を魅了している。だが、かつては2000~3000体以上、明治時代には数千体あったと伝えられる石狐も、風化や損傷により現在は約400体程度まで減少してしまった。

     これらの石狐は、火災除けや願い事成就のお礼として人々が奉納したもので、苔むした古いものから比較的新しいものまで、表情や姿勢が実に多様だ。

     特に有名なのが、随神門(ずいしんもん)前に立つ、一対のにんまりと目を細めて笑みを浮かべた石狐。八雲が松江滞在中に特に愛で、何度も足を止めて眺めていたと伝えられている。

    八雲お気に入りの狐像。

     出雲の石狐は東京の洗練されたものとは異なり、素朴で個性的で、作り手の気まぐれやユーモアがにじみ出ていた。長い年月を経て苔や菌類に覆われ、背中は緑のビロードのように柔らかく、尾や肢には死んだ金や銀のような美しい斑点が生じ、牛蛙の鳴く薄暗い森の中に佇む姿は、まるで土から生まれた妖しい生き物のように見えたという。

     また、近年パワースポットとして人気を集めているのが「玉(宝珠)を持つ石狐」で、境内の中に複数体(少なくとも2体)隠れており、これを見つけると願いが叶うという言い伝えがある。

     宝珠は稲荷信仰で神の霊力や稲の魂を象徴するもので、探しながら境内を散策するのも楽しみの一つとなっているようで、私が境内を散歩中にも宝珠探しをしているカップルや親子連れを見かけた。
     赤い鳥居のトンネルをくぐり、石段を上った先の静寂の中で、石狐たちに囲まれると、不思議な気配を感じる人も少なくないようで、何もない場所で急に振り返ったり、「ん?」と言ってから、振り返った人がいたのも印象的だった。

    狐信仰にみられる明暗の両面

     八雲は城山稲荷神社以外にも、出雲地方独特の狐信仰の深さに関心を寄せ、1894年に出版した『Glimpses of Unfamiliar Japan』(知られぬ日本の面影)の第一巻で、「Kitsune」(狐)という長い章をまるごと一章分捧げて、狐信仰と特に狐憑きについて詳細に記録している。

     その一部をここに紹介しよう。

    『出雲では、妖狐は、とりわけ三つの邪悪な性質ゆえに強く恐れられている。
     第一は、怨恨や純粋ないたずらのために、妖術によって人を惑わすことである。
     第二は、ある家に取り憑き、その家の「家来」のように居座ることで、その家を近隣の恐怖の的にしてしまうことである。
     第三にして最も忌むべきは、人の身体に入り込み、悪魔的な憑依によって狂気へと追い込むことである。この病は「狐憑き(きつねつき)」と呼ばれる。

     妖狐が人を欺くために最も好んで取る姿は、美しい女の姿である。より稀ではあるが、異性を欺くために若い男の姿を取ることもある。狐の女にまつわる数え切れぬほどの物語が、語られ、書き残されてきた。男を虜にし、財産のすべてを奪い去る危険な女は、民衆から致命的な侮辱語をもって「狐(きつね)」と呼ばれる。
     狐は決して本当に人間の姿を取るのではなく、ある種の磁力、あるいは魔的な放射物を人の周囲に漂わせることで、人にそう見せているのだ、と主張する者も多い。
     狐は常に邪悪な目的のために女の姿を取るとは限らない。受けた恩に報いるため、美しい女に姿を変えて人と結婚し、子をもうけたという話もいくつかあり、実際にそのような筋立ての美しい芝居さえ存在する。ただし、その幸福な家庭も、子どもたちに見られる奇妙な肉食の性癖によって乱されるのである。
     悪事を働くためには、女の姿が最善とは限らない。女性の魔力にまったく動じぬ男もいる。だが狐は変装に事欠かない。プロテウス以上に多くの姿を取ることができるのだ。
    さらに狐は、人に見たいもの、聞きたいもの、想像したいものを、自由自在に見せ、聞かせ、思わせることができる。時間と空間を超えて物を見せ、過去を呼び起こし、未来を明かすことさえできる。

     西洋思想の流入によっても、その力は失われていない。事実、数年前には東海道鉄道に幻の列車を走らせ、鉄道会社の技師たちを大いに混乱させ、恐怖させたではないか。
     しかし、あらゆる妖怪と同じく、狐は人里離れた場所を好む。夜には危険な場所で、提灯の火のような怪しい燐光(狐火)を漂わせることを好む。これを防ぐには、両手の指を交差させ、菱形の穴を作り、そこから一定の仏教の呪文を唱えつつ光に向かって息を吹きかければ、どんな距離にあっても狐火を消すことができるとされる。
     狐の悪戯は夜に限らない。真昼であっても、死地へと誘い込んだり、幻影を見せたり、地震を感じさせたりして人を驚かせる。そのため、昔気質の農民は、あまりに奇妙なものを目にすると、自分の目の証言をすぐには信じない。
     磐梯山の大噴火(一八八八年)を最も冷静に目撃した証人も、そうした老人であった。二万フィートに達する黒い噴煙が傘のように広がり、太陽を覆い隠し、熱い雨が降り注ぎ、山が根元から揺れ、世界が砕けるかのような轟音が響いたにもかかわらず、彼は微動だにしなかった。すべては狐の妖術による幻だと決めていたからである。』
    (「知られぬ日本の面影」小泉八雲著 翻訳、田辺青蛙)

     このように、八雲が記録した出雲の狐信仰は、穏やかな守護の側面だけではなかった。
     彼が強い関心を寄せた出雲地方に特有の「狐憑き」は、狐が人に入り込み、狂気を引き起こすと信じられていた。

     しかもこういった「狐憑き」は、明治期の松江では決して珍しい話ではなかったという。

    境内にずらりとならぶ、奉納された石狐たち。

    恐れられ、同時に崇められた狐の両義性

     憑かれた人が裸で街を走り回り、口から泡を吹き、狐のように鳴き声を発すること、皮膚の下を移動する腫れ物が現れると信じられていたこと、さらには憑かれる前には知らなかった言語を話し書くといった症状まで、八雲は詳細に記している。

     豆腐や油揚げ、小豆飯といった狐の好物だけを異様な量で求め、「自分ではなく狐が空腹なのだ」と語る例もあった。
     治療と称して行われた行為は苛烈だった。火であぶり、殴り、それでも治まらなければ山伏や法印と呼ばれる祈祷師が呼ばれ、憑いた狐と「対話」が行われた。
     狐は自らを特定の稲荷の使いと名乗り、供物を条件に立ち去ると約束する。狐が去ると憑かれた者は昏睡状態に陥り、回復後は二度と豆腐や油揚げを口にできなくなると信じられていた。

     出雲では、こうした狐を「人狐」と呼び、特定の家に飼われているとされた。その家は「狐持ち」と呼ばれ、富を得る一方で強く忌避された。八雲は、この信仰が個人の病ではなく、村社会の経済格差や緊張関係を映し出すものだと見抜いている。

    「知られぬ日本の面影」の中で、八雲は狐信仰を「人々が恐れるものを同時に崇める」典型として描いた。

     城山稲荷神社の石狐群は、その光と影の両面を象徴する存在と表現したる守り神としての狐と、恐怖の対象としての狐であって、その両義性こそが、八雲にとっての出雲であり、松江という土地の深層だったのかも知れない。

    田辺青蛙

    ホラー・怪談作家。怪談イベントなどにも出演するプレーヤーでもある。

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