神君に寄り添い、再び闇に還るーー摩多羅神と徳川家康

文・写真=本田不二雄(神仏探偵)

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    摩多羅神(またらしん)。その御名をご存じだろうか。 その仏神は、異国に由来し、阿弥陀仏を祀るお堂の裏に隠される一方、さまざまな鬼神や英雄神と冥合を果たし、ついには徳川将軍家の秘密の守護神になったともいう。今回は、「他言してはならず」、「秘めて尊崇すべき」とされた摩多羅神の隠された正体に迫る旅に出かけよう。

    奇妙な印象を与える一枚の画像

     不意にこんな画像に出くわした。「東照三所大権現」像(模本、東大史料編纂所蔵)という。模本とあり、原本の出所はわからない。3様の「権現(神)」が描かれているが、「東照」で「大権現」といえば、神になった徳川家康の神号。中央は家康公にまちがいあるまい。
     では残りの2神は何か。向かって右の僧形像は山王権現、左の烏帽子・狩衣姿で鼓をとる像は摩多羅神とされる。後者は前の記事の画像を見れば一目瞭然だろう。

     絵の出所はともかく、この三者は日光東照宮に祀られた神々である。
     その唐突なプレゼンテーションには驚きを覚える。もとより摩多羅神は、阿弥陀仏を祀る常行堂の裏(後戸)に密かに祀られる存在だった。それが江戸幕府を開き、神君と称えられた徳川家康とともに、日光東照宮の祭神になったというのだ。
     ちなみに「三所大権現」としてのデビューは、元和3年(1617)、東照宮の本殿遷座の儀礼だったらしい。
     これは、神君・家康公の霊柩が久能山(静岡県)から日光に渡され、天海大僧正によって家康の神霊に秘法の伝授が修されたのちに執り行われた、一大盛儀だった。
     参列者は、二代将軍秀忠をはじめとする重臣、大名ら。行列の中には、比叡山王の使いである猿の面をつけた童子38人と33匹の猿につづいて、その後方には山王権現の神輿、その後ろには摩多羅神の神輿がつづいたという。

     すなわち、日光に着いた家康の神霊が、天海による秘密のイニシエーション――全宇宙を見通す仏の眼の開眼を意味する五眼具足の印と明(真言)の伝授――によって、天皇に並び立つ東照大権現という新たな神格をそなえて、東照宮の本殿に入った。
     そこに、山王権現と摩多羅神が寄り添ったのである。
     現在も、毎年5月の例大祭には久能山から日光に改葬された際の行列が再現され、3基の御輿が出御する。それぞれの神輿には葵の紋、巴の紋、抱き茗荷の紋がついているが、このうち抱き茗荷は摩多羅神の紋である

    「東照三所大権現」像(模本、東大史料編纂所蔵)。

    摩多羅神をめぐる家康と秦氏

     ちなみに、久能山から日光への改葬は、家康公自身の考えによるものだったという。
    「臨終のときは遺体を久能山(現在の久能山東照宮)に納め、葬儀は增上寺に、位牌を三河の大樹寺に立てよ。そして一周忌が過ぎたら日光山に小さき堂をたて、勧請するように」
     家康はそう遺言したという。

     これに対し、天海は「これを案ずるに、久能山は補陀落山(観音菩薩の聖地)と称し、その守護神は摩多羅神である。そして日光山の奥院も同様である。そのことを公は知っていたとは思えず、『不思議の出合』である」とコメントしている(『東照大権現縁起(真名縁起)』)

     久能山も日光も観音菩薩の聖地だったことを家康が知らなかったとは思えない。ただ、その守護神がともに摩多羅神だという秘事までご存じだったか……天海が「不思議の出合」と感嘆したポイントはそこにある。
     もちろん、天台宗の大僧正である天海は知っていた。摩多羅神を本尊とする比叡山常行堂の秘伝(「玄旨帰命壇」と呼ばれる口伝灌頂)にも精通し、何より、「三所大権現」を東照宮の祭神とする構想の発案者だったからだ。
     一方、晩年に駿府で過ごした家康は、生前から久能山を重要視し、遺骸をここに納めよと遺言し、西国鎮護の要衝と定めた。ちなみに久能山東照宮の前身は久能寺という古刹だが、当寺は実に秦河勝の子孫・秦久能忠仁が開創した寺だった。しかも久能寺(現在は鉄舟寺)には、摩多羅神の古像も伝わっていた(京都国立博物館に寄託)。

     秦氏と家康。摩多羅神をめぐる縁はこんなところにつながっていた――。
     それにしても、なぜ日光東照宮に摩多羅神だったのか。「三所権現」といえば、山岳信仰の聖地にしばしば登場する神号(熊野三所権現、箱根三所権現、彦山三所権現など)だが、その尊容は、仏像でいう「三尊形式」、つまり本尊と両脇侍の関係に通じるものだ。釈迦三尊(釈迦+文殊・普賢菩薩)、阿弥陀三尊(阿弥陀+観音・勢至菩薩)などがそうで、この場合、中尊の脇を固める菩薩は、ホトケになりかわって智慧と慈悲――仏の功徳の両輪――を体現する存在である。
     なお、山王権現は比叡山延暦寺の鎮守神であり、天台宗の神仏習合理論(山王神道)でも釈迦如来の化現として重んじられていたことから違和感はない。問題は摩多羅神だ。

    日光東照宮の神輿庫。3基の神輿が納められている。
    日光東照宮の拝殿から本殿を望む。

    摩多羅神はなぜ恐ろしいのか

     山王神道を独自にバージョンアップさせた天海のロジックはこうだ。

    「山王は、顕の益にして即久成(久遠実成)の三身即一の如来なり、強いて名けて釈尊と云い、釈尊は垂迹なり、山王は本地なり。
     摩多羅神は、炎魔王にして冥の益なり、即ち有量の無量に非ずして無量の無量寿仏なり、ゆえに常行三昧の護法とす」(『一実神道秘決』)

     難解ないい回しだが、要は、〈山王権現は顕(表)のご利益で、釈迦如来と同体。摩多羅神は冥(暗闇)の主、炎魔王のご利益を担うとともに阿弥陀仏(無量寿仏)を支える存在〉ということである。

     ちなみに炎魔王(焔魔天)は運命、死、冥界を司る尊格である。
     つまり、顕界の山王、冥界の摩多羅神の両輪で東照大権現を支え、補佐するのが三所権現のコンセプトであり、国家鎮護の要諦である。天海はそう考えたのかもしれない。

     ところが実は、江戸時代の初期に東照宮に祀られて以降、摩多羅神は急速にその存在感が失われていく。
     その理由を語る言葉は持ちえないが、「天竺の神なのか、中国の神なのか、日本の神なのかも知られていない」と江戸前期の真言僧・覚深が嘆いたように、その謎めいた属性と秘匿性は、近世の泰平の世にはそぐわなかったのかもしれない。
     こうして再び闇へと還ったかに見える摩多羅神だが、一方で常行堂の周辺では「摩多羅神は行疫神(疫病神)なり。その法体(お姿)は本山の人に知らすべからず。悪しざまににすれば必ず罰のあたるなり」(「常行堂修正故実双紙」)などと伝えられていた。

     この恐ろしさ、ヤバさはいったい何に由来するのか。

     ある密教僧A師は(天台宗)はいう。
    「常行三昧を行った僧侶複数に聞くと、『生々しい雰囲気をまとっている』、『爛々とした目をみた』などなど、息遣いを感じるような神として受け止められています。縁あって拝してみた個人的な印象でも、ある種の「生臭さ」を感じました。それはいわば、実類(仏教に帰依する以前)の鬼類に近い感じなのかもしれません」
     障礙神にして鬼神。そんな神の実在を「生臭さ」で実感するという。興味深い感想だが、それを感受するのは、われわれだれしもがその「生臭さ」を知る存在だからかもしれない。

     また師はいう。
    「90日間、横臥することなく念仏をつづける行のなかで、「その実在性の強烈さと加護の篤い感じに、行者は畏れつつありがたくも思うそうです」と。
    「結局のところ……」言葉を詰まらせつつ、A師はつづける。「摩多羅神は、人間の持っている悪なる性向を祭り上げたものではないでしょうか」。

     彼の話を聞いていて、摩多羅神がなぜ笑っているのかがわかった気がした。この神はすべてを見抜いている。底知れぬ悪を。貪り、怒り、自分勝手に増長する人の愚かさを。それを見抜いたうえで笑っている。だから恐ろしく、ありがたいのだと――。

    『大正新脩大蔵経(図像 第7巻)』より、焔魔天曼荼羅。牛に乗り(!)、人の善悪を知る「人頭杖」を持つ焔魔天(中央)と、中国の冥府神・太(泰)山府君、障礙神のビナヤカ、ダキニ、焔摩天の妃シャモンダ、道教の冥土神・五道大神などとともに描かれる。すべて摩多羅神と相通じる尊格である。

    (月刊ムー 2025年6月号掲載)

    本田不二雄

    ノンフィクションライター、神仏探偵あるいは神木探偵の異名でも知られる。神社や仏像など、日本の神仏世界の魅力を伝える書籍・雑誌の編集制作に携わる。

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