考えるな、踊れ! 第60回「キリスト祭」で新郷村の郷土史に組み込まれた超史実・古代ロマンを見た!
第60回を迎えた「キリスト祭」は郷土に根付いた歴史遺産となっている。現地ライターも驚いた新郷村のストレンジぶりをレポート。
記事を読む
はるか昔、京を追われ東北地方に逃れ、崩御した天皇がいた……。青森県各地に残る天皇伝説は、はたしてただの“伝説”なのか、それとも!?
宮内庁によれば、天皇や皇族が眠る陵墓は現在「近畿地方を中心として、北は山形県から南は鹿児島県まで1都2府30県にわたり(略)総計899」もあるという。
山形県にあるのは、聖徳太子のいとこで出羽三山を開いたとされる伝説的な皇族・蜂子皇子(能除太子)の墓、鹿児島県のものは神代三陵とよばれる神武天皇以前の祖先神の墓だ。これが陵墓の最北端と最南端ということになるが、じつは山形の蜂子皇子墓よりもさらに北、青森県にも、かつて宮内省が公式に管理していた“天皇陵”があった。
紙漉沢村、現在の弘前市紙漉沢にある「長慶天皇御陵墓参考地」がそれだ。
明治時代に撮られたその写真には、標柱にはっきり「宮内省」の文字もみえる。陵墓参考地とは「陵墓かもしれない場所」として宮内省が管理していた墓所のこと。青森の天皇陵は、一時期宮内省が有力な候補地として公認していた場所なのだ。写真を拡大してみると(今では怒られる話だが)参拝した人々の記念の書き込みが残されているのもみえ、多くの人が訪れる史跡であった様子もうかがえる。
それにしてもなぜ京から遠く離れた青森県に天皇陵があるのか? そしてなぜ今は天皇陵ではなくなってしまったのか?
そこには、この陵の主であり、歴代天皇のなかでも最も謎の多い存在である長慶天皇の人生が深く関わっている。
長慶天皇は今から700年ほど前、南北朝時代を生きた天皇だ。
南北朝時代は朝廷がふたつに割れ、ふたりの天皇が同時に存在していたという日本史上でも特異な時代。「天皇は天下にただひとり」という大原則からしたらとてもあり得ない状況が、50年近くも続いてしまった時代だ。
そもそもことの発端は(ごくごく単純に説明すれば)鎌倉幕府を倒したあとに生まれた後醍醐天皇政権のいざこざだ。政権が運営に失敗し、後醍醐天皇派とアンチ後醍醐天皇派が発生。アンチ派は後醍醐天皇を政から追い出して新たな天皇をたてたのだが、天皇は京を脱出して退位を否定、吉野にあらたな拠点をおく。
本人がまだ辞めてないといっているのだから後醍醐天皇に従う公家や武家も多く、しかもこのとき天皇は「京にある三種の神器は偽物、本物は自分が持ってきた」と宣言したものだから幕府もいよいよ放っておくわけにいかなくなってしまった。神器を手にいれるためにもたびたび攻め入ることになり、やがて南朝は吉野から摂津の住吉、河内の金剛寺など天皇の住まいも転々とさせざるをえなくなるほど追い込まれていった。
こんな南朝衰退のさなかに、後醍醐天皇、後村上天皇と続いた位を継ぎ、南朝3代目の天皇となったのが長慶天皇だった。
しかし、天皇になったとはいうものの、長慶天皇は長いあいだ即位した「らしい」というきわめてあやふやな天皇だった。この頃の南朝はもはや滅亡寸前というくらいの状態で、即位の儀式もできず、後世その正確な記録を確認することもできなかったからだ。
長慶天皇は16年ほど在位したのち、位を弟宮にゆずって上皇となっていたらしいのだが、在位中のことがわからないのにその後のことが詳しくわかるわけもない。譲位からほどなく南朝は北朝に吸収されるかたちで消滅するが、長慶天皇は京には戻らなかったとされ、その後どこでどう亡くなったのかも長らく謎のままだった。
天皇にもなったほどの人が、どこでどう過ごしていたのか……。この大きすぎる謎をめぐって、東北ではこんな伝説が語られるようになっていた。
「長慶天皇は足利の手勢に追われて東北に逃れ、現在の青森県で崩御した」
という、伝説である。
青森の長慶天皇伝説とは、具体的にはどんなものだろう? 青森県相馬村(現在の弘前市相馬地区)の歴史をまとめた『相馬村史』からその概要をみてみよう。
(退位後の長慶天皇は上皇だが、ややこしいのでここでは「長慶天皇」で統一する。)
文中2年(1373)年、長慶天皇は譲位すると紀伊の玉川宮に移って出家の身となった。ところがその3年後、足利軍が攻め入り拠点が陥落、天皇は南朝方の北畠氏をたよって伊勢に移動した。
だが5年ほどするとここにも足利軍がせまり、今度は海路常陸まで移動。そこから陸奥まで北上し、これも南朝方の南部氏のもとに身を寄せた。
これで一安心と思いきや、やがて頼みの南部氏も北朝に寝返ってしまい、天皇はさらに西の浪岡(現青森市浪岡)へ、より西の紙漉沢(現弘前市)へと移動。この地に潜み最期を迎えた。紙漉沢には長慶天皇をまつる上皇宮と、妃の菊子姫をまつる白山神社が建てられ、代々長慶天皇の末裔が守り伝えた。
この崩御の地が先の写真の「長慶天皇御陵墓参考地」だ。そこには現在も「長慶天皇御陵墓参考地」の標柱が建てられ、伝説のとおりすぐ近くには天皇と妃を祭神とするふたつの神社が祀られている。
長慶天皇は常陸(茨城県)から陸路東北をめざし、はじめ南部氏が治める南部地方にきたというのだが、じつはあの南部の名物おかし、南部せんべいの誕生にも長慶天皇が関わっているという話がある。
「その昔、南部に滞在していた天皇が空腹のとき、家臣が鉄の兜をつかって焼いた即席せんべいをたいそうお気に召したのが南部せんべいの始まり」
「天皇が京でお好みだったせんべいの製法を、南部にやってきたときに領民たちに伝えた」
などいくつかのパターンがあるのだが、パッケージにこの由来を印刷している南部せんべいも販売されているほど。長慶天皇伝説が青森に浸透している証拠、ともいえるだろうか。
しかし謎が多いだけに、伝説は他にもさまざまなバリエーションをうんでいた。南部地域の青森県三戸郡新郷村にも、興味深い長慶天皇陵の伝説が残されている。
新郷村ときいてピンと来なくても「東北のキリストの墓」といえば、ああ! と思う人も多いだろう。2000年前密かに来日し、日本で生を終えたキリストと弟イスキリの墓だという十代塚・十来塚があるのが新郷村だ。その「キリストの墓」から車で10分ほどの場所に、天皇の墓まで残されていたのだ!
お断りしておくと、新郷村の天皇陵伝説は「キリストの墓が有名になったからほかにも有名人の墓やるか」的に最近つくられたものではない。平成元年に出版された『新郷村史』にも、すでに「長慶天皇の伝説」と題された一項がある。
ここにはかなり長い伝説が紹介されているのだが、かいつまんで簡単にまとめると次のようになる。
足利軍に追われ各地を転々とする長慶天皇は、父・後村上天皇にもゆかりのある陸奥の地を目指した。23人の側近を引き連れて長谷寺(現在の青森県南部町)に滞在した天皇は、ここで辞世の句をのこして崩御する。
しかしこれは追手をまくためのカムフラージュだった。天皇の側近・弘田刑部(ひろたぎょうぶ)は各地に「天皇が崩御した」とのニセ情報をながし、ニセの御陵をつくりながら天皇を狙う足利軍を撹乱していたのだ。
こうして一団は南部氏のもとに身を寄せたものの、すでに南部氏内部でも北朝に鞍替えする空気があり、これを察した天皇たちはさらに遠方の北畠氏を頼って浪岡まで移動することになる。一団は修験者の姿に変装すると、浪岡で合流することを約束し、天皇がいる本隊と別働隊の二手に分かれて別々のルートを進む計画をたてた。
伝説はさらに続く。
別働隊を率いたのは弘田刑部だったのだが、弘田はこの別行動のさなかに突然の病で急死してしまう。一行は嘆きつつもその死を無駄にしないよう、弘田を長慶天皇だと偽り、天皇崩御のうわさをながしながら「くじょれの森」に塚を築いて丁重に弘田を葬った。
ここがいま新郷村の崩(くずれ)と呼ばれる地区で、偽装天皇陵の墓守となった村人には崩御の一文字をとって「崩」の名字が与えられた。塚はやがて三婆羅塚(さんばらづか)と呼ばれるようになり、地域では「さる貴い人の墓である」と言い伝えられていった。
一方の長慶天皇本隊はなんとか浪岡にたどり着くことができたが、ここにも安住することができずさらに西の紙漉沢まで逃れて崩御、ついに本物の御陵を築くこととなってしまった。
また、新郷村には「ナニャドヤラ」という謎の民謡が伝わるが、
「ナニャドヤラ ナニャドナサレイノサエ ナニャドヤラ」
という意味不明の歌詞のなかにある「ナサレイノサエ」は「長谷嶺居野宰叡」、つまり「(最初に隠れ住んだ)長谷のほかに住む都はない」という長慶天皇のきもちを読んだ歌だったのである。
知ってる人は知っている、新郷村のキリスト祭りでも披露される民謡「ナニャドヤラ」も、じつは長慶天皇ゆかりのものだったというのだ!
『新郷村史』ではこの伝承を「疑問視している郷土史家もある」と注意もそえつつ載せているのだが、あまりにわからないことだらけの長慶天皇だけに、間違いだと断定する証拠もない……ともいえる。
こちらが伝説にある崩地区のサンバラ塚だ。現在は地元の有志によりきれいに整備され、厳かな空気を漂わせている。目視の印象では幅2メートル、奥行き5、6メートルほどの縦長の塚という印象だが、古くはひょうたんのような、あるいは前方後円墳のような形に記した図も残っている。なんとも意味ありげな形状だ……。
ただ、もし『新郷村史』にある伝説が正しいとしても、三婆羅塚に眠るのは身代わりの弘田刑部であって長慶天皇ではないということになる。しかし、これをさらに覆す伝説が、崩地区の旧家・崩家に残されていたのだ。
(つづき)
参考文献
『天皇陵論 聖域か文化財か』(外池昇、新人物往来社)
『歴代天皇年号事典』(米田雄介編、吉川弘文館)
『歴代天皇総覧』(笠原英彦、中公新書)
『相馬村史』(鳴海恒男、津軽書房)
『新郷村史』(新郷村史編纂委員会編、新郷村)
鹿角崇彦
古文献リサーチ系ライター。天皇陵からローカルな皇族伝説、天皇が登場するマンガ作品まで天皇にまつわることを全方位的に探求する「ミサンザイ」代表。
関連記事
考えるな、踊れ! 第60回「キリスト祭」で新郷村の郷土史に組み込まれた超史実・古代ロマンを見た!
第60回を迎えた「キリスト祭」は郷土に根付いた歴史遺産となっている。現地ライターも驚いた新郷村のストレンジぶりをレポート。
記事を読む
1963年から続く神事「キリスト祭」と謎の舞踊「ナニャドヤラ」! 伝承が伝統となる信仰的文化の現在地
村民自ら「奇祭」と称する「キリスト祭」を現地取材。古史古伝を受け入れ、伝統文化に織り込む神事の実体とは……。
記事を読む
巨石群が物語る太古日本の山岳信仰 青森県「大石神山」ピラミッド
本誌「ムー」における、屈指のミステリーのひとつ。ピラミッド日本列島発祥説。列島各地に存在するピラミッドと超古代文明の謎を徹底ガイド!
記事を読む
インドネシア・フローレス島に絶滅したはずの猿人が生きている!? 存在を確信した研究者の最新レポート/宇佐和通
インドネシア・フローレス島は、今でも謎の猿人「ホモ・フローレンシエンシス」が生きているのではないかと噂される島だ。数々の目撃証言を集めた男がたどり着いた結論とは?
記事を読む
おすすめ記事