「天使が降臨して一晩で18万5000人の兵士を全滅させた」聖書の記述が真実だった可能性! “弾薬の丘”で何が起きたのか?

文=仲田しんじ

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    2700年前、包囲されたエルサレムを守るため、神が遣わした天使が一夜にしてアッシリア兵18万5000人を全滅させた。そんな聖書の話が史実だった可能性が高まっている――!

    2700年前のアッシリア軍の陣地を最新技術で特定

     旧約聖書の『イザヤ書』『列王記下』『歴代誌下』の3つの物語には、約2700年前にアッシリアの大軍がエルサレムに侵攻した際のエピソードが記されている。18万5000人ものアッシリア兵はエルサレムを包囲したが、攻撃の前夜になって神ヤハウェが遣わした天使が出現。陣地で眠っている兵士たちを死体の山に変えたというのだ。

    ギュスターヴ・ドレ作 画像は「Wikipedia」より

     実はこれまで、旧約聖書にあるアッシリアのエルサレム侵攻を裏付ける考古学的証拠は存在しなかった。しかし、この壮大な戦いが史実である可能性が高まってきたという。

     学術誌「Near Eastern Archaeology」に掲載された論文によると、考古学者のスティーブン・コンプトン氏は、最新の地図作成技術を用いることで、2700年前の戦争でエルサレムを包囲したアッシリア軍が築いていた陣地の場所を特定できたというのだ。

     コンプトン氏がまず注目したのは、エルサレム侵攻を決断したとされる古代アッシリア帝国のセンナケリブ王(前705〜前681)の宮殿の石壁だ。そこに描かれている絵図について、コンプトン氏は軍事用の地図であると確信。エルサレム侵攻時、アッシリア軍の陣地がどのように配置されていたかが示されていると直感したという。そしてコンプトン氏は、これらの絵図と20世紀初期に撮影されたエルサレムの航空写真とを照合することで、2700年前の戦争でアッシリア軍がどこに陣地を築いていたのか特定したのである。

    画像は「Daily Mail」の記事より

     コンプトン氏によると、一つひとつの陣地は楕円形を描いており、これはアッシリア軍の建造物の特徴とも一致するという。

    「楕円形であることはわかっていました。私がしたのは、レリーフの画像を抜き出し、それを風景の特徴と一致させることでした」(コンプトン氏)

     さらにその後の調査で、陣地と考えられる場所の古い地名が「侵略者の陣営」を意味するものだったことがわかるなど、コンプトン氏の発見を裏付けるさまざまな事実も明らかになった。約2700年前、アッシリアの大軍によるエルサレム侵攻は、どうやら本当に起きていたのだ。

     なお、アッシリア軍がかつて築いた陣地の場所が判明したことで、彼らの侵攻ルートと、それによって滅亡した2つの古代都市「リブナ(Libnah)」と「ノブ(Nob)」の位置も特定されつつあるという。

    画像は「Wikipedia」より

    アッシリア軍18万5000人の兵士に何が起きたのか? 

     紀元前1365年から紀元前609年まで存在していたアッシリア帝国。最盛期のセンナケリブ王が、シリア砂漠を抜けて地中海へと至るルートで政治・経済的優位を確立するため、エルサレム侵攻を決断したといわれてきた。

     そして実際、アッシリア軍によるエルサレム侵攻が史実だったことが判明しつつあるということは、旧約聖書にある“奇跡”も実際の出来事だった可能性が大いに高まってくるが、18万5000人の兵士が一晩にして殺害されるとは、いったい何が起きたと考えられるのだろうか。

     聖書の記述では、アッシリア軍に包囲された時、当時のエルサレムを支配していたユダ王国のヒゼキヤ王が神(ヤハウェ)に安全を祈ったところ、その使者である天使が降臨し、アッシリア兵を死体の山に変えたとされる。

     これについては、疫病がアッシリア兵の命を奪ったとされる説や、夜中にネズミがアッシリア軍の陣地に侵入して弓の弦と盾の帯をかじり尽くしたため、アッシリア兵は丸腰での戦闘を余儀なくされて敗北した等の伝承もあるが、謎の解明は研究の進展を待たなければならないようだ。

    多くの人命が奪われた「弾薬の丘」

     ちなみに、天使の襲撃によってに撃退されたアッシリア軍だが、彼らの陣地が築かれていた小高い丘の一帯には、少なくとも2600年にわたり人間が住んでいなかったことも判明している。しかし、1930年代になってイギリス軍が弾薬庫を設置し「弾薬の丘」と改名して以来、状況が一変する。

    「弾薬の丘(Ammunition Hill)」(1967年) 画像は「Wikipedia」より

     1948年、イギリス軍から「弾薬の丘」を奪ったヨルダン軍によって周囲に防御用の塹壕が築かれた。そして1967年6月には、イスラエルとアラブ諸国による第三次中東戦争の戦場となり、1万5000人のアラブ兵と1000人のイスラエル兵が命を落とした末、「弾薬の丘」はイスラエル軍の手に落ちた。そして現在、この場所には血みどろの戦いを記録する博物館と、記念碑が建っている。

     いずれにしても、この丘で人類史を通しておびただしい数の人命が奪われてきたことだけは間違いない。悲劇がもう二度と繰り返されることがないように祈りたい。

    ※参考動画 YouTubeチャンネル「The Lost History Channel TKTC」より

    【参考】
    https://www.dailymail.co.uk/sciencetech/article-13530311/Ancient-military-camp-mentioned-Bible-discovered-Jerusalem.html
    https://www.newsweek.com/archaeologist-discovery-biblical-siege-jerusalem-1915824

    仲田しんじ

    場末の酒場の片隅を好む都会の孤独な思索者でフリーライター。興味本位で考察と執筆の範囲を拡大中。
    ツイッター https://twitter.com/nakata66shinji

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