古代房総を支配した土蜘蛛の王の痕跡を追う!君津の6本腕英雄「アクル王」

文=鹿角隆彦

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    ムー編集部に寄せられた、とある情報。それは、かつて東国を治めたという異形の古代王に関するものだった。現地取材で明らかになるその姿とは?

    古代東国王「アクル王」の謎

    「千葉県君津市に、かつて房総を治めた『アクル王』という古代王の伝説があるのですが興味ありませんか」

     2024年4月、ムー編集部に一通のメッセージが寄せられた。送信者は、現職の君津市市議会議員にして現役プロレスラーでもある大和ヒロシ氏。「日本不思議再興計画」を掲げるムーに、君津市PR活動の一環としてご当地伝説を提供してくれた、というわけである。
     それにしても「房総を治めた王」とはどういうことだろうか? 古代、日本列島にはさまざまな「王」がいた。やがてヤマトの一部で力を蓄えた王が周辺の王を、さらに各地の有力な王をまとめあげヤマト王権が成立。ヤマトの大王はさらに勢力を拡大させて「天皇」と呼ばれる存在になっていくが、この流れのなかで各地に根を下ろしていた多くの王たちが服従し、あるいは滅ぼされて姿を消していった。
    『古事記』や『日本書紀』などには、ヤマトのナガスネヒコや九州のクマソタケルら天皇に抵抗する「まつろわぬ者」の存在が記されているが、正史に残らなかったまつろわぬ王はさらに多くいたはずだ。君津市にもそんな古代王が存在したというのだろうか。アクル王とは一体、何者なのか?

     調査を進めると、君津市にはアクル王にまつわる多くの伝説が残されていることがわかった。代表的なのは次のようなものだ。

     景行天皇の時代、東夷アクル王一派が勢力を増し関東を併呑するとの風聞が伝わり、天皇は皇子ヤマトタケルを東征に向かわせた。アクル王は敗れて鹿野山に籠城。追撃するヤマトタケル軍には神々の助力もあり、王たちはことごとく殺された。アクル王を討ったヤマトタケルはその首を山中に埋め、これが現在まで阿久留王の塚として伝えられている。(『日本伝説叢書 上総の巻』を参照)

     この他、さまざまな情報をまとめると、アクル王(阿久留王、亜久留王、あるいは悪楼王とも書かれる)は、現在の君津市六手(むて)地区に生まれ、一帯を治めていた。やがてその勢力が関東一円に及びかねないことを危惧した朝廷からヤマトタケルが「東征」に送り込まれ、王軍は迎撃するも鹿野山中で敗れ、滅ぼされてしまう。

    アクル王伝説ゆかりの地名を残す「鬼泪山(きなだやま)」。

     このとき王たちの血が流れた川は千草川(血草川)や染川(血染川)、注ぎ込んだ海は千種(血臭)の浦、敗北に涙を流した場所は鬼泪山(きなだやま)となったなど、当地にはアクル王にひもづけられた地名伝説も多い。そしてアクル王の墓ともいえる首塚までが残されているというのだ。

     伝説は正確なのか? 大和氏の案内のもと、現地を訪れてみた。

    「阿久留王塚」は、房総屈指の古刹鹿野山神野寺(かのうざんじんやじ)から北東800メートルほどの山中にある、高さ2メートルほどの円墳だ。じつはヤマトタケルはアクル王の復活を恐れて首と胴を別々の場所に埋葬したとの伝説があり、ふたつの塚の位置には諸説がある。阿久留王塚は現在では王の胴塚との説がとられていて、神野寺によって今も毎月供養の式が営まれている。

    鹿野山を走る県道から、案内板を頼りに進んだ先にあるのが阿久留王塚だ。神野寺のほぼ正確に丑寅の方角に鎮座し、現在も毎月法要が営まれている。

    まつろわぬ古代王たちを結びつける「土蜘蛛」

     ヤマトタケルが、その首と胴を別々にするほど恐れたという、古代房総の王者アクル王。さらにその姿に迫ってみよう。ある伝説では、王は6本腕という異形の姿で別名を六手王といい、出生地六手の地名はその姿に由来するものだという。
     多くの手をもつ異形の反逆者――。この造形からピンとくるものはないだろうか。そう、近年人気コミックの影響で知名度急上昇中のあのヴィラン、両面宿儺である。

    「まつろわぬ者」の代表格として知られる両面宿儺(図右)。両面宿儺がふたつの頭の根本を射抜かれる場面だ(国文学研究資料館蔵)。

     古代飛騨国に生まれた両面宿儺は、ひとつの胴体にふたつの頭、二対合計8本の手足をもった剛力、知謀の主とされる。その力をたのんで天皇に従わず「両面大王」とも呼ばれ恐れられたが、朝廷が派遣した武将武振熊(たけふるくま)によって討伐されたと言い伝えられている。この「8本の手足」とは何を意味するのか。さまざまな解釈がされているが、ここからはある生物がイメージされるのではないか。
     クモ、である。
     記紀は、まつろわぬ者たちの多くを「ツチグモ」と呼ぶ。それはクモのように長い異形の手足をもち洞窟に暮らす野蛮な存在だと蔑む呼び名だ。やがてツチグモは妖怪視され文字通りに巨大なクモとして描かれるようになるのだが、過去にはおそろしい蛮族と生物のクモのイメージをミックスさせた異形の鬼神として想像されたこともあった。

    神武天皇配下の武将と戦うツチグモを描いた図。その姿は6本腕の鬼神となっている(国立公文書館蔵)。

     上の図が、6本の腕と2本の足、計8本の手足をもつ鬼神型ツチグモだ。両面宿儺伝説には、こうした異形の鬼神としてのツチグモイメージが影響していると考えることもできるのではないだろうか。そして6本腕と2本の足といえばーーまさに言い伝えられるアクル王の姿そのものではないか!
     アクル王が泣いた場所が鬼泪山とされたように、アクル王を鬼として語る伝説もある。アクル王とは、ツチグモや両面宿儺同様に、鬼神のような強さで朝廷に抗う、象徴的な異形を託された古代王だったのではないか。

    出生の地にアクル王の姿が残されていた!?

     まつろわぬ者、ツチグモ、異形の古代王……アクル王の姿にさらに迫れる鍵はどこかに残されていないだろうか。あるとすれば、そこは出生の地、六手である可能性が最も高いだろう。やはり、現地を訪れてみるしかなさそうだ。
     房総は古墳の多い地域で、六手にも複数の古墳が残されている。その最大級のものが六手地区のちょうど中心あたり、六手公民館の背後にそびえる狐山古墳だ。全長60メートル弱、高さは4メートル以上になる前方後円墳で、築造は6世紀中頃とみられている。アクル王墓とするには時代に差があるが、ここで生まれたという王について、なんらかの手がかりが隠されているかもしれない。

    狐山古墳。

     周囲を歩いてみると、墳頂にのびる細い道と、その入り口付近に祀られた数体の石像が目に入った。驚くべきことに、それはいかめしい顔をした「6本腕」の石仏だったのだ!
     鬼を踏みつけ、ニワトリや猿が配されているところからみて、これは青面金剛をかたどった庚申塔だろう。かつて広く信仰されていた庚申信仰の名残である。しかし、6本腕の古代王の出生地に、六臂の石仏。これは単なる偶然なのだろうか。

    六手の狐山古墳に祀られていた石仏群。6本腕の姿には、表向き以上の意味が隠されているのではないか。

     たとえば、両面宿儺の例を考えてみよう。宿儺は暴虐の悪人とされる一方で、地元では善政を敷いた明君だったとの伝承が残され、当地の高山市丹生川町には両面宿儺として立派な武神姿の像を祀る寺社が少なくない。日本史上最大級の「反逆者」である平将門にしても同様だ。将門伝説の色濃い茨城県では、坂東市の国王神社をはじめ将門を祭神とする寺社があり、将門は東国の民のために立ち上がった英雄として讃えられているのだ。思えば、死後に首と胴が別々に葬られた点も将門とアクル王はよく似ている。
     房総の王でありながら、異形の姿をもつ反逆者とされたアクル王。古の六手の人々が、地域の英雄を6本腕の仏像に仮託して密かに崇敬し、伝説を守り伝えていたのだとすれば……。

    異形の王は地元の英雄だった!

     実は、アクル王を祀るとされた寺社は他にもある。それが、現在も阿久留王塚を供養する神野寺なのだ。
     冒頭で紹介したアクル王の伝説には続きがある。ヤマトタケルはアクル王を征伐したのち、祟りを起こさないようにと王を「神野大明神」として鹿野山に祀った。後世、聖徳太子によってこの地に創建されたのが神野寺で、秘仏本尊である軍荼利明王像は、通常8本腕であるところが6本になっている。つまり、神野寺の明王像は6本腕のアクル王の姿に擬してつくられたというのである。

    千葉県内でも屈指の歴史を誇る古刹、鹿野山神野寺。

     重要なのは実際に秘仏が6本腕かどうかではなく、「6本腕の像が祀られている」と言い伝えられてきたという事実だ。かつては33年に一度しか開帳されなかったともいう明王像。一生に一度拝めるかどうかという秘仏に、人々は密かにアクル王の姿を重ね合わせていた、とは考えられないだろうか。
     さらに、六手の地には、アクル王が現在も地域の人々に愛されていることを物語る有力な証拠も残されていたのだ。
     狐山古墳の程近くにある陸橋の橋脚に、それはあった。そこに見えたものはミズラを結った神話風の人物が描かれた四枚の壁画で、いちばん右には多頭の大蛇と戦う男、左には子どもたちに慕われる若い男、中央にはその二人が剣を交え戦っている場面が描かれている。そして、上部には「あくる王と日本武尊」との画題が添えられているのだ。

     壁画は地元小学校の児童が制作したもので、絵の流れを読むと、大蛇と戦うのは草薙剣をもつヤマトタケル、それに対峙する人物がアクル王ということになる。平和に治めていた自らの領土を守るため、西からきた外征軍と戦う。壁画にはそんなメッセージが込められていることがみてとれる。アクル王は確かに、地域のヒーローとして語られていたのである。

    六手地区の壁画には、ヤマトタケルとアクル王が描かれていた。そこにある王の姿は地域の英雄そのものだ。

     じつは、阿久留王を密かに祀ったともいわれる神野寺のすぐ近くには、ヤマトタケルを祭神とする神社が鎮座している。社伝によれば、ヤマトタケルの死後、その魂が白鳥となって鹿野山に飛来。その場所に創建したのが同社であるという。ヤマトタケルの魂が白鳥になったという伝説は『古事記』をはじめ多くの神社に伝えられるものではあるが、ヤマトタケルが死後自らの魂をもってアクル王を鎮めなければならないと考えたのだとしたら、それは王の強大さを何よりも雄弁に物語っているようでもある。
     房総の謎の古代王は、地元の各地に密かに痕跡を残し、現在も人々に畏怖され、愛されていたのだ。今後、アクル王はご当地のヒーローとしてより一層フィーチャーされ、再興されていくのだろうか。

    ヤマトタケルを祀る白鳥神社が最初に建立された場所に建つ石碑。その頂点には草薙剣型の石が飾られていた。

    鹿角崇彦

    古文献リサーチ系ライター。天皇陵からローカルな皇族伝説、天皇が登場するマンガ作品まで天皇にまつわることを全方位的に探求する「ミサンザイ」代表。

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