頭塔に塚に祟る石……古都のいわくつき建造物! 奈良妖怪新聞・ピラミッド厳選

文・写真=木下昌美

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    通算100号を迎えた『奈良妖怪新聞』から、選りすぐりの奈良伝説を紹介する当記事も今回でフィニッシュ。第5回は特に「ムー」的な、古都の不思議な塚&石ミステリー!

    奈良の街なかにピラミッドがある

     奈良県を拠点に活動する妖怪文化研究家・木下昌美がこれまで4回にわたり奈良の怪しいものごとを紹介してきた「奈良妖怪新聞」特選記事も、今回でラストとなる。最後は近鉄奈良駅から歩いて行くことができる「頭塔」「吉備塚」など、高畑というエリアに伝わるさまざまな不思議をお届けしたい。

     ならまちと呼ばれる街を東へ向かって歩いていると突如、ピラミッドのような建造物が現れる。数年前まで外からその姿は見えなかったが、手前のホテルが取り壊されたため、今(2024年)だけの貴重な景色である。普段は拝観料を支払い、間近で見られるが現在は見学を一時中止している模様。

    玄昉の頭を祀ったという話がある頭塔

     こちらは頭塔(ずとう、奈良市高畑町)と呼ばれる土製の塔で、平安時代の仏書『東大寺要録』によれば神護景雲元年(767)に東大寺の僧実忠が良弁の命により造営したものであるとのこと。盛り重なった土を石で覆っていて周囲に石仏を配し、その高さは約10メートル。大正11年(1922)に国の史跡に指定されている。

     実はこの頭塔は史実と異なるものの「首塚」としても有名で『南都名所集』『奈良坊目拙解』などに詳細が見える。
     曰く、奈良時代の僧侶・玄昉(げんぼう)に恨みを持つ藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)が怨霊となり、玄昉の身体をバラバラに引き裂き地上に落としたという。玄昉の弟子たちがその身体を拾い集め頭を祀った場所が、頭塔。頭塔のほか、肘塚(かいのつか)町はその肘を埋めたところで、眉と目を埋めたのが大豆山(まめやま)町であるのだとか。

    『南都名所集』に描かれた頭塔の図((国文学研究資料館所蔵、国書データベース

     首塚としての頭塔の歴史は古く『今昔物語集』や、大江親通が嘉承元年(1106)と保延6年(1140)に奈良を訪れた際の記録『七大寺巡礼私記』などにも見える。平安時代にはすでに、この話が成立していたようだ。近世には、より一層話が広まったのだろう、延宝6年(1678)の『奈良名所八重桜』では玄昉と光明皇后の関係を記し、ふたりの間に出来た子が僧・善珠(ぜんしゅ)であり、頭塔周囲の石仏は善珠が立てたものであるとする。善珠は奈良時代から平安時代にかけての僧であり、玄昉の子とする場合があることはある。ただし善珠が生まれた当時、玄昉は遣唐使として唐に滞在中だったため、史実かどうか明らかでない。

     ちなみに頭塔のほど近くには陰陽(いんよう)町という街がある。この街にはかつて陰陽師たちが暮らし、明治の中頃まで陰陽師の末裔によって「南都暦(奈良暦)」が作られていたそうだ。

    普段は拝観料を払うと敷地内に入れてもらえ、近くで頭塔を見られる

    陸軍が、神社が、大学が恐れた“祟る塚”

     頭塔から5分ほど歩くと奈良教育大学(奈良市高畑町)にたどり着く。同大学の敷地内には吉備塚古墳と呼ばれる円墳があり、こちらにもさまざまな謂れがある。江戸時代の地誌『南都名所集』や同じく江戸時代の地誌『奈良曝』や『奈良坊目拙解』ほか多数塚についての記録があり、近世にはかなり知られた存在かつ名所のひとつでもあったようだ。

    奈良教育大学敷地内の吉備塚

     同大学が行った調査によれば、塚は6世紀のものであるとのこと。明治時代には陸軍連隊の敷地であり、第2次世界大戦後は米軍キャンプとして接収されていた。敷地返還時に奈良教育大学が移転し、今に至るようだ。

     『増補版 大和の伝説』などにもある通り、吉備真備の墓と伝わり触ると祟りやよくないことが起こると囁(ささや)かれる。陸軍連隊の敷地だった際に何度も取り去ろうとしたようだが、そのたびに事件が起こったため、動かせなかったそうだ。

     『奈良 高畑町界隈−その歴史と伝承−』に、塚について著者が近年聞き取った内容が記されている。それによると過去に触ると恐ろしい祟りがある、塚の草をむしっても腹痛が起こる、塚の土地を削ったため死んでしまったなど、多岐にわたる災いがあったとみられる。そのほか玄昉の首が飛んできて落ちた場所でもあり、はじめは首塚といっていたものが訛って吉備塚になったという話もある。

     筆者が古墳調査に関わったという方に話を聞いたところ、調査中は目立つ変事はなかったとのこと。ただ調査後に碑を建てようと鏡神社(奈良市高畑町)の宮司に地鎮祭を依頼したそうだが、しばらくして宮司が体調を崩してしまったそうだ。さらには塚の調査を手伝っていた生徒が卒業後、自転車に乗り来校したところ塚周辺で飛び出してきた猫を避けようとしたもののうまくいかず、肩を脱臼してしまったのだとか。

    『南都名所集』の吉備塚図(右下)(国文学研究資料館所蔵、国書データベース)。

    触れてはならない“祟る石”

     最後に頭塔と吉備塚のちょうど中間あたりに位置する「破石(わりいし)」へ案内したい。個人宅の庭にある石で普段は拝観が叶わないが、管理者のご厚意で見せていただく機会を得た。その石は両手で抱えるには少し大きく、十文字に思い切り亀裂が走っている。隣に小さな石がひとつ。

    十字の亀裂が入った破石

     この石は一体何なのか。『奈良町風土紀』によると、西大寺(奈良市西大寺芝町)の東塔の心礎石を作る際、酒をこの石にかけて割ったので破石といい町名もここから生まれたとするが、一説によるとこの石は藤原氏、吉備氏、阿部氏の境界を示す石でもある。石に線のあるのは東南は藤原氏、南西は吉備氏、東北は安部氏の方角であることを示す。町の人々はこの石に触れると祟りがあると称し、触れることを避けているとのこと。
     また『奈良市史 民俗編』には、こんな話が載っている。奈良時代に吉備真備(きびのまきび)が人麿という人に会うためにここを通り、そのたびにこの医師に腰を掛けて休んでいたそうで、そこに家を建てると町内に火事が起こる。藤原氏と吉備氏の領地の境界石と言われ、触れると病気になるという。

     話が前後するが、吉備塚の箇所で少し触れた『奈良坊目拙解』の吉備塚の項で、塚は幸下之町(現幸町)という項に記録されている。幸町は吉備真備の子孫であるとする幸徳井(こうとくい)氏の屋敷があったと考えられる。幸徳井氏は南都の陰陽道を牽引する存在で、吉備真備を陰陽道の祖としてまつり吉備塚を守っていたという話もある。
     また破石の北東には平安時代の陰陽家、安倍晴明邸があったとも伝わる。そうであるが故の『奈良町風土記』の記述であろうが、事実であるかなど、詳しいことは明らかになっていない。
     ただひとつ考えられることは、破石をはじめ吉備塚や頭塔ほか高畑エリアは、かつて御霊や陰陽道などの力がうごめいていたのだということ。触れてはならない場所のひとつやふたつ、あっても不思議ではないのかもしれない。

    吉備真備(『前賢故実』国文学研究資料館蔵)。

    奈良県は“怪しい”見どころが満載!

     紹介しきれなかったエピソードもあるが、ざっと近鉄奈良駅で降りて気軽に足を運ぶことができる、奈良市内の怪しく不思議な場所を紹介させていただいた。いずれも普段は住宅や生活空間にまぎれているが、探ってみるとこうした話がわんさか出て来るところが面白い。
     今回で奈良の不思議を紹介するこちらのコラムは終了するが、県内にはまだまだたくさんの怪しげな見どころがある。縦に長い奈良県は、北と南で全く環境や異なるため何処へ行ってもそのたびに新しい発見があることだろう。奈良をよく知る人もそうでない人も、本コラムがいつもとは違う視点で奈良とそこに潜むバケモノたちを楽しむことができるきっかけになれば幸いだ。

    〇本文でとりあげた資料
    太田叙親・村井道弘編『南都名所集』2010/臨川書店
    村井古道著、喜多野徳俊訳註『奈良坊目拙解』1977/綜芸舎
    大久保秀興・本林伊祐編『奈良名所八重櫻』1975/勉誠社
    島本一編『奈良曝』1939/大和國史會
    村井古道『奈良坊目拙解』1977/綜芸舎
    奈良県童話連盟修、高田十郎編『増補版 大和の伝説』1959/大和史蹟研究会
    大槻旭彦『奈良 高畑町界隈ーその歴史と伝承ー』2021
    山田熊夫『奈良町風土紀』1978/豊住書店
    奈良市史編集審議会『奈良市史 民俗編』1968/奈良市

    木下昌美

    奈良県在住の妖怪文化研究家。月刊紙『奈良妖怪新聞』を発行中。『日本怪異妖怪事典 近畿』(笠間書院、共著)ほか『妖怪(はっけんずかんプラス』(学研)、『妖怪めし』(マックガーデン)など監修した妖怪ブックも多数。

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