受取地蔵に味噌なめ地蔵、油をかけて病気を癒すお地蔵様たち/奈良妖怪新聞・地蔵厳選

文・写真=木下昌美

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    奈良の妖怪を集めて100号!『奈良妖怪新聞』を制作する妖怪文化研究家・木下昌美さんが奈良のユニークな伝説を紹介するトリビュート記事第3弾は、もっとも身近な仏さま、お地蔵さんにまつわるふしぎな伝承の数々を紹介。

    受け取る、なめる、かけられる

     至る所でその姿を見かける地蔵菩薩は、数ある仏さまの中で最も我われの暮らしに近い存在であるように思う。そして数が多いということは、それだけ個性豊かな地蔵が存在するということ。『奈良妖怪新聞』でもたびたび取り扱っているが、今回はその中から死者の魂を受取り浄土へ送るという「受取地蔵」など、特徴的なものをいくつか紹介したい。

    『意外な歴史の謎を発見! 奈良の「隠れ名所」』にはこんな話が載っている。

     七曲り峠の頂上に石仏がある。建長5年(1253)の鎌倉時代のものであるという。石仏が野に祀られる初期のものとされ、今も別所の共同墓地の「受取地蔵」と呼ばれる。死者の魂を受け取り、浄土へ送ってくれるという。
     七曲り峠というのは、天理市福住地方と国中(奈良盆地の平坦部)を結ぶ道にある峠のひとつ。案内板によると、かつては薪や炭を積んで国中へ売りに行くなどするために使われ、生活道でもあったそうだ。廃道になっていたものを平成18年に地元住民らが復興している。
     福住という地域は隣の奈良市の都祁とともに古代、闘鶏(つげ)・都祀(つげ)の国と呼ばれ皇族が狩猟をする場所だった。夏場は氷を朝廷に献上するための土地としても重宝され、冬場に作った氷を氷室という貯蔵庫に納めるといった場所でもある。2024年現在はその氷室を復元する活動なども行なわれており、自然が多く涼しい場所であることが知れるだろう。

     そして受取地蔵の話から察しが付いているかもしれないが、この地の墓制習俗はやや特色がある。近年まで土葬を基本としていて、死体を埋葬するいわゆる「埋め墓」と、供養のため碑を建ててお詣りする「詣り墓」のふたつのお墓を用意する両墓制をとっているのだ。こうした事例はこの場所に限ったことでなく、関東から中国四国地方に分布し、東北と九州は少ないといわれるので、さほどめずらしいことではない。奈良県内だけでもそこそこの数がある。

     受取地蔵は現存するため、筆者は取材を兼ねて何度か足を運んでいる。永照寺(天理市福住町別所)の婆羅門杉という巨木を横目に山に分け入り、ほんの少し歩くと受取地蔵が現れる。そして受取地蔵の視線の先には埋墓がある。地蔵前には大きめの石がゴロンと転がっているが、これは棺を置くための役割を果たすものだったようだ。

    死者の魂を浄土へ送ってくれるという受取地蔵。

    土葬の文化が育んだ「魂を受け取る地蔵」

     永照寺の関係者に話を伺う機会があったため、このあたりのことについて尋ねてみた。詳しくはわからないようだったが「死者がこの世に戻らないよう、棺を持って受取地蔵の周りを3周させていたと聞いたことがある。そしてそのまま目の前の墓に埋葬したのでは」と教えてくださった。

     3周させるのはよくあることなのか、例えば『西吉野村史』には、墓で遺族男子が棺を担ぎ死人が生家に戻らぬよう3回左回りをする旨が書かれている。

     また同町で生まれ育ったという30代女性は、自身の祖父の代までは土葬だったことをよく覚えているという。そして彼女の住んでいた場所は別所から少し離れているが、そこにも受取地蔵と呼ばれる地蔵があったのだそう。

     両墓制であり、町内のあちらこちらに死者を見守る地蔵がいるという土地柄だからこそ、天理市福住町別所の受取地蔵も生まれ、存続し、今も大切にされているのではないだろうか。奈良県外にも「送り地蔵」などと呼ばれ同じようないわれを持つ地蔵は存在するが、受け取る側に重きを置くか、送る側に重きを置くか地域により異なる点も興味深い。

    お棺を置いていたであろう石。

    唯一無二の特殊能力? 味噌をおいしくする地蔵

     近くに一体このような地蔵がいてくれたらば嬉しいな、と感じるのが「味噌なめ地蔵」だ。『郷土の伝説』などに掲載されているのは、以下のような話。

     その昔、農婦が自家製味噌の味が悪くなり困っていたところ、ある夜のこと夢の中に地蔵が現れて「私にその味噌を食べさせてくれたらいい味にしてみせよう」と告げた。翌朝矢田寺(大和郡山市矢田町)へ行き参堂を見ると夢にあった地蔵がおられたので、さっそく例の味噌をその口元に塗ると家の味噌は味がなおったという。これを聞いた里人たちは新しい味噌を作ると味がよくなるように、こぞって地蔵の口元へ塗るので誰がいうでもなく味噌なめ地蔵と呼ばれるようになった。

     あじさい寺とも呼ばれるほどに、たくさんのアジサイが咲き誇る同寺。味噌なめ地蔵も、アジサイに囲まれるようにして本堂へ向かう参道脇に建っている。寺の縁起などにこの話があるわけではないが、寺でも代々語り継がれているようだ。

     寺の方に話を伺ったことろ、興味深いことに現在でも地蔵に味噌が塗られている形跡があるという。味噌作りをする家庭もめっきり減っているだろうが、そうであるからこそ、こだわりを持って自作している人にとって味噌なめ地蔵は最後の頼みの綱なのかもしれない。

    矢田寺の味噌なめ地蔵。

    今もつづく病気平癒の珍しい風習

     最後に紹介するのは「油かけ地蔵」だ。その名の通り地蔵に油をかけるのだが、これにはさまざまな理由がある。

     奈良市の古市町にある油かけ地蔵は、子授け地蔵として信仰を集めている。昔大雨が降り続いて岩井川という川が増水した際、地蔵が川上から流れてきたという。信心深い老人が引き上げると、その夜地蔵が夢枕に立ち「私は子どもを授ける地蔵だ。毎日種油をかけてお参りすれば必ず子どもを授ける」と告げた。老人がその言葉通りにすると子どもが生まれ、遠くからお参りする人も増えたのだとか。

     実際に参ると地蔵の表面はぬめぬめとしており、恐らく現在も油がかけられているのだろう。供え物も多く、今でも参拝者が多いことを物語っている。

    奈良市の油かけ地蔵。

     また川西町という街にも、油かけ地蔵が存在する。南吐田(はんだ)と北吐田の境界の、四辻に南向きに立っている。天保12年(1841)の『油掛延命地蔵尊監觴』に由来が記述されており、こちらを基にその後さまざまな媒体でも紹介されている。

     なんでも200年程前に泥田の中に地蔵が埋もれていたのを村人が見つけ、気の毒に思い祀っていた。ところがある人が地蔵の汚れを取ってあげようと洗い、奇麗にしてしまった。するとその夜その人は腹痛に襲われることになる。原因は地蔵を洗ったことで、地蔵の怒りに触れてしまったのだ。謝って元通りにしようと地蔵の体に泥をかけたり油を浴びせたりして、もとの汚れた地蔵にした。すると腹痛はたちどころに治ったという。

     また悪性の皮膚病を持った子どもがおり、その母親が地蔵に平癒を願い地蔵の油を子どもに塗ったという話もある。そのうちに子どもの病気も治ったために、そうした病を治す地蔵として親しまれている。

     筆者が聞き取りをしたところ、どうやらこちらの油かけ地蔵も現役のようで、地元の方たちは「子どものころ、顔にできものができたり火傷をしたりすると地蔵の油を塗っていた」と話してくれた。現在も地域の有志で大切に管理しているといい、地蔵の脇には真新しい油が置いてあった。

     同町は古くから水害が多い地域でもあり、もとは半田という土地名だったが水をはけさせたいことから吐田に変えられたのだそうだ。かつて台風21号がやってきた時には、地蔵の祠が見えなくなるほどあたり一面が浸水し、湖のようになったという。故に地蔵は水害除けとしての信仰も集めているとのこと。油に水をはじくという特性があることも、そうした効果を期待される理由のひとつかもしれない。

    川西町の油かけ地蔵。
    地蔵脇の油、川西町にて。

     以上簡単ではあるが、受取地蔵・味噌なめ地蔵・油かけ地蔵と3種の地蔵を紹介した。それぞれに興味深く特徴があるが、いずれにも共通しているのは我われが悩ましく思うところに寄り添ってくれる存在であるということ。地蔵ならではと感じるが、そのような存在であるからこそ場所場所に地蔵があり、また多くの人に大切にされているのだろうと感じた次第である。

    〇本文でとりあげた資料
    奈良まほろばソムリエの会『意外な歴史の謎を発見! 奈良の「隠れ名所」』 2016/実業之日本社
    西吉野村史編集委員会『西吉野村史』1963/西吉野村教育委員会
    駒井保夫『郷土の伝説』1980

    〇参考文献
    ・奈良県童話連盟修、高田十郎編『増補版 大和の伝説』1959/大和史蹟研究会
    ・角川日本地名大辞典編纂委員会編『角川日本地名大辞典29 奈良県』1990/角川書店

    木下昌美

    奈良県在住の妖怪文化研究家。月刊紙『奈良妖怪新聞』を発行中。『日本怪異妖怪事典 近畿』(笠間書院、共著)ほか『妖怪(はっけんずかんプラス』(学研)、『妖怪めし』(マックガーデン)など監修した妖怪ブックも多数。

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