妖怪「土蜘蛛」の実像は蜘蛛トーテム信仰集団だった!/高橋御山人・土蜘蛛考察(前編)
巨大な妖怪、あるいは朝廷に従わない「まつろわぬ民」とされる土蜘蛛。しかし本当にそうなのか?文献を読み解くことでみえてきた、土蜘蛛の新たな可能性とは。
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神・一言主はなぜ朝廷から畏れられ、土佐へ流されたのか? 古代の呪術合戦の背後にある畏怖の痕跡を追う。
いにしえ、土佐国は流刑地であった。比較的有名なところでは、道鏡の弟・弓削浄人(ゆげのきよひと)、源頼朝の弟・希義(まれよし)、後鳥羽上皇の子・土御門上皇などの人物が配流されている。
だが、それだけではない。土佐国には何と神も流されているのだ。その神の名は、一言主神(ひとことぬしのかみ)。高知市に鎮座する土佐国一宮・土佐神社の祭神である。各国の一宮は、端的に言えばその国で一番格式の高い神社であり、そこに祀られる神はその国を代表する神である。流刑地であった土佐の神は、流刑された神なのだ。
では、一言主神は一体何の罪で土佐に流されたのか。
その前に、そもそも一言主神とはどのような神なのか。
一言主神の神話については、『古事記』や『日本書紀』に詳しく書かれている。
第21代・雄略天皇が、現在の奈良県と大阪府の間に聳える葛城山(かつらぎやま)で狩りをしていると、天皇の一行と全く同じ姿の一行と出会う。天皇はその無礼に怒り、矢を向けつつ、何者か問うと、「我は良い事も悪い事も一言で言い放つ、葛城の一言主神である」と告げる。天皇は恐れ畏まって、武器や従者達の衣服を脱がせて献上すると、一言主神は喜んで受け取り、天皇の一行を山の麓まで送った。
上記は『古事記』の記述であり、その数年後に編纂された『日本書紀』では、共に狩りを楽しんだとされている。そして平安初期、『日本書紀』に続く国家の歴史書として書かれた『続日本紀』では、天皇と同じ獲物を狙い争ったため、怒った天皇により土佐へ流された、となっているのだ。一言主神の土佐配流は、国家の正式な歴史書に書かれている出来事なのである。
一言主神が土佐に流された後についても、古くから詳しい話が伝わっている。鎌倉末期に成立した『釈日本紀』に引用された『歴録』には、まず土佐の「賀茂」の地に祀られ、後に土佐神社に遷ったとある。
この「賀茂」の地が土佐のどこかは諸説あるが、有力な場所の一つが、高知県西部、須崎市に鎮座する鳴無神社(おとなしじんじゃ)である。
鳴無神社は、浦ノ内湾という、東西に細長い湾の最奥近くに鎮座する。周囲は山が海に迫るリアス式海岸となっており、海に向かって鳥居が立っていて、「土佐の宮島」とも呼ばれている。一言主神は、都から流され、ここに上陸したというのだ。しかし、この地は意に沿わぬところがあり、石を取って投げ、その石の落ちた土地に鎮まった。それが土佐神社であり、その石が今も土佐神社境内に祀られる礫石(つぶていし)だ、という伝承がある。
しかし、一言主神は、そのまま土佐に留まり続けた訳ではなかった。『続日本紀』では、奈良時代、賀茂氏の奏上により、再び葛城に祀られたという。それが現在も鎮座する葛城一言主神社とされる。一方『歴録』には、その和魂(にぎみたま)は引き続き土佐に留め祀られた、とある。和魂というのは神の温和な側面であるが、それが土佐に留まったということは、一言主神が土佐を気に入っているという意味合いになるだろう。一言主神は古くから土佐の人々に人気があった、ということを示すものでもある。
ところで、これまで何度か「賀茂」という言葉が出て来ている。『続日本紀』では一言主神を「高鴨神」と表現し、『釈日本紀』に引用された『土佐国風土記』逸文には、土佐神社を「土佐高賀茂大社」と記す。そしてそれに続いて、一言主神は、一説によると大国主命の子・味鋤高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)だと書いている。こうしたこともあり、現在、土佐神社ではどちらも祭神とし、鳴無神社では同じ神だとしている。
そして一言主神の鎮まる大和の葛城には、一言主神社とは別に、味鋤高彦根神を祀る高鴨神社があり、『古事記』は味鋤高彦根神の別名を「迦毛大御神(かものおおみかみ)」としている。非常にややこしく、この両神が異なる存在なのか、同じ存在なのか、はっきりしたことはわからないが、どちらも葛城を根拠地とする古代豪族・賀茂氏が祀る神には違いない。
賀茂氏は皇室に匹敵する歴史を持つ、非常に古い氏族であり、一族の出身者で最も有名なのは、上述の葛城山を根拠地とした、修験道の開祖・役小角(えんのおづぬ)である。別名を「賀茂役君(かものえだちのきみ)」という。稀代の陰陽師・安倍晴明を見出したという、賀茂忠行(かものただゆき)や、その子・保憲(やすのり)も名が知られる。
このように、賀茂氏は修験道や陰陽道の成立・発展に深く関与しており、呪術的な色彩が非常に濃い。一言主神も、吉事も凶事も一言で言い放つ神であり、託宣の神とされている。託宣とは神懸かりであり、これも非常に呪術的である。
ところで、平安初期に書かれた『日本霊異記』では、一言主神は、役小角に使役され、それに不満を持った為に朝廷に讒言し、役小角が伊豆に流刑となったとある。この役小角の伊豆流刑は『続日本紀』にも記されている(ただし一言主神とは無関係)が、何とも奇妙な話である。伝説とはいえ、賀茂氏の神と、神に等しいような賀茂氏の行者が互いに争っていることになる。その上、別々の話とはいえ、どちらも流刑の記録があるのだ。
こうした歴史と神話伝説から浮かび上がって来るのは、賀茂氏の呪術的なパワーと、それに対する信仰、及び畏怖、恐怖である。書物によって天皇が恐れ畏まったり、流刑に処したりと、真逆といえる行動を取るのも、強大な呪力に対する畏怖、恐怖と考えれば矛盾がない。役小角の流刑にも、そのような側面があった可能性もある。
力を恐れて都から遠ざけるという話は、日本武尊の神話にもある。伊勢の神宮の由来も、元々は宮中で天照大神を祀っていたが、神威を畏れて同じ場所に住むことに不安を覚え、外に祀ったというものだ。
また、力を恐れて「同士討ち」させるよう、仕向けたこともあったかもしれない。強大な勢力を仲間割れさせてその力を削ぐというのは、古今東西、計略の常道だ。一言主神の使役や讒言の話は、そうした出来事を反映した物語かもしれない。
しかし、恐れられ遠ざけられても必要とされるのが、呪術師というものだ。『続日本紀』には、呪詛を罰し、呪術を禁止した記録が度々あるが、それだけよく行われたということだ。だから、遠ざけられた呪術師が呼び戻されることもあったろう。一言主神は再び葛城に祀られ、役小角も『日本霊異記』では恩赦によって大和に帰って来る。これらは、呪術に長けた賀茂氏が時に恐れられ遠ざけられて、時に必要とされ呼び戻された、という二面性を反映した話なのではないか。
そうなると、一言主神が赦されて再び葛城に戻る時、和魂は土佐に留めたという話の意味も見えて来る。つまり、中央では呪術ゆえに恐れられ、荒ぶる存在──「荒魂(あらみたま)」だと見なされていたのだ。しかし、辺境の流刑地・土佐では、呪術やそれに付随する知識・技術等で、恩恵をもたらす存在と見なされたのではないか。このような図式は、呪詛により信州・戸隠に流刑になったという、鬼女紅葉の伝説などに見られる。
中央で流刑に処された神が、流刑地では国一番の神として崇められるという二面性は、呪術の恐怖と恩恵という、二面性そのものなのかもしれない。
高橋御山人
在野の神話伝説研究家。日本の「邪神」考察と伝承地探訪サイト「邪神大神宮」大宮司。
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