太陽信仰の拠点か、異世界との交信基地か? インカの空中都市マチュピチュの基礎知識

文=羽仁礼

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    毎回、「ムー」的な視点から、世界中にあふれる不可思議な事象や謎めいた事件を振り返っていくムーペディア。 今回は、南米ペルーの急峻な山頂に築かれたインカ帝国の空中都市マチュピチュについて取りあげる。

    アンデス一帯を支配したインカ帝国

    「四大文明」という言葉がある。あるいは「四大古代文明」ということもある。世界の文明は、メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、そして黄河文明という4つの古代文明に始まるという考えである。
     日本では常識とされているこの四大文明説であるが、その正確な起源は不明で、世界的にはまったく認知されていない。
     一説には第2次世界大戦後に江上波夫(1906〜2002)が作った概念とされるが、この人物は、日本最初の統一王朝は大陸からやってきた騎馬民族が樹立したという、今では荒唐無稽とされている学説を提唱した張本人でもある。このような人物の思いつきがいまだに大手を振って闊歩しているのは、大御所の発言をなかなか否定できないという、日本の学界の徒弟制度のような構造にも原因があるのだろう。
     実際、現在確認されている古代文明の数は到底4つに収まらない。黄河文明の生まれた中国でも、同じくらい古い時代に存在した長江文明が発見されているし、紀元前1万年以上前の日本でも、縄文文明と呼ぶべき秩序ある社会が存在していた。

     また、この四大文明説によれば、文明は大河の畔で生じ、文字を持つべきであるとしていたが、南米のアンデス山脈周辺では、文字を持たず、世界的な大河など存在しないにもかかわらず高度な文明が栄えてきた。
     アンデス山脈は、ベネズエラからペルー、ボリビア、アルゼンチンを経てチリに至る、全長7500キロ、幅750キロという世界最長の褶曲山脈である。
     その周辺には1万年以上前から人類が住み、地上絵で有名なナスカやボリビアのラパス、チャビンなど、各地にいくつもの古代文明が生まれたが、15世紀後半になると、この地域はクスコを首都とするインカ帝国として統一される。
     インカ帝国は本来「タワンティンスーユ」と呼ばれ、インカとはこの帝国の王や王族を指す言葉であったが、現在はこの帝国やその文明自体もインカと呼ばれている。全盛時にはエクアドルからチリ、アルゼンチンにまで及ぶ広大な領域をひとりの皇帝が支配していた。マヤやアステカと同じく太陽を崇拝し、石造りの大規模な都市やピラミッドを各地に建設、頭蓋骨の切開手術といった高度な医療も行われていた。

     インカ文明において何よりも特徴的なのは、さまざまな大きさや形をした石材を組み合わせ、しかもカミソリの刃も入らないと形容されるほど隙間なく接合させた独特の石組みである。
     たとえば現地の言葉であるケチュア語で「へそ」を意味する首都クスコには、当時の石組みがあちこちに残っているが、通りの一角にはなんと12角に削った石がぴたりとはめ込まれている。しかもこの石組みは耐震性も高く、スペイン人が征服後に建てた建物が倒壊した大地震に遭遇してもびくともしなかった。

    インカの首都だったクスコの街並み。スペインによる征服後、壊されたインカの石組みの上に建物が建てられた。
    複雑な接合面を持つ「12角の石」(写真中央)。

     クスコ郊外にあるサクサイワマンの砦には、重さが50トンから300トンもある巨石が3層に積みあげられているが、これほどの巨石を用いていながら、隙間はほとんどない。

    巨大な石組みが並ぶサクサイワマンの砦。50〜300トンもの巨石が隙間なく積みあげられている。

     しかし、隆盛を誇ったインカ帝国も1533年、フランシスコ・ピサロ(1470ごろ〜1541)に率いられたスペイン人たちの手で皇帝アタワルパが処刑され、クスコも占領されたことから、世界史年表からは消えてしまった。
     実際には、残った王族たちがサクサイワマンやオリャンタイタンボの要塞に立てこもり、次いでビルカバンバに逃れて抵抗を続けたのだが、1572年にはビルカバンバも陥落し、反乱の指導者トゥパク・アマル(1547〜1572)も処刑された。

    征服者ピサロに処刑され、インカ帝国最後の皇帝となったアタワルパ。

     そのインカ帝国が残した都市遺跡のひとつがマチュピチュである。

    標高約2400メートルの険しい山の頂に築かれたインカの都市マチュピチュ。1983年にユネスコ文化遺産に登録され、南米を代表する遺跡として知られる。

    インカの黄金探しから発見された空中都市

     マチュピチュはクスコから約70キロ北西にあり、面積は約13平方キロ。ケチュア語で「古い峰」を意味するマチュピチュ山と、「若い峰」を意味するワイナピチュ山に挟まれた、標高約2400メートルの険しい断崖上にへばりつくように位置する岩棚に築かれている。下方からはその存在はまったくうかがい知れないため、「空中都市」「空中の楼閣」「インカの失われた都市」などと呼ばれることもある。

     マチュピチュを発見したのは、アメリカの考古学者ハイラム・ビンガム3世(1875〜1956)である。

    ハワイ出身の考古学者ハイラム・ビンガム3世。インカ帝国の黄金を求めてペルーの山中に分け入り、マチュピチュの「発見」に至った。

     ビンガムは、ハワイ王国時代のハワイのホノルルに生まれた。オアフ・カレッジで学んだ後、アメリカ本土のイェール大学やカリフォルニア大学バークレー校に学び、1907年からはイェール大学で南アメリカの歴史を教えていた。
     そのビンガムがインカ帝国の失われた都について耳にしたのは、1908年、チリのサンティアゴで開催された科学者会議に出席した後、ペルーに立ち寄ったときだった。しかもそこには、皇帝が持ち去ったという莫大な黄金が隠されているかもしれないというのだ。
     そこでビンガムは、1911年になると失われた都を求める探検隊を組織し、その結果マチュピチュを発見したのだ。

    「ハイラム・ビンガム・ロード」と呼ばれるマチュピチュへの道。急斜面の山肌を蛇行するように造られている。

     もっともマチュピチュについては、16世紀後半の古文書に記されたワイナピチュと呼ばれる遺跡がそれだともいわれているし、現地人はその存在を承知していたようだ。
     20世紀になってからも、少数のヨーロッパ人がビンガムより先にたどり着いたという記録があるから、正確にいえばビンガムはマチュピチュを再発見したということである。しかし、本格的な調査を行ってマチュピチュの存在を世界に広めたのはビンガムの功績といえるだろう。

     マチュピチュは1983年にユネスコ文化遺産に登録された。また2007年には、スイスに本拠を置く「新・世界七不思議財団」が選んだ新・世界の七不思議のひとつにも選ばれている。
     なお、1954年には、ビンガムの発掘作業をもとに『インカ王国の秘宝』と題する映画が製作されたが、チャールトン・ヘストンが演じた主人公ハリー・スティールの性格は、のちのインディ・ジョーンズの造型にも影響を与えたとされる。そのため、ビンガム本人がインディ・ジョーンズのモデルであるといわれることもある。

    精巧な石組みで造られたマチュピチュの建造物。都市の人口は500〜1000人程度だったと推測されている。
    マチュピチュの斜面に広がる段々畑。トウモロコシやジャガイモなどが栽培されていたという。

    都市の各所に残されたインカの精巧な石組み

     マチュピチュの市街地は、広場を中心に、神殿や宗教施設、人々の住居などが建ち並び、全体の形はインカの聖鳥コンドルを象ったともいわれている。長年人の目に触れなかったせいで、200件ばかりの建造物はほぼ当時のまま残っており、インカ帝国が得意とした精密で特徴的な石材加工がいくつも見られる。
     たとえば「葬儀の石」と呼ばれる不思議な形をした岩があるが、硬い花崗岩を何かで切り刻んだように階段が刻まれている。これと同じように石を彫って造った石段は、水くみ場にも見られる。

    3段の階段が刻まれた岩。ここで動物の生け贄を捧げたとみられ、「葬儀の石」と呼ばれている。

     市街地への入り口に造られた高さ2.2メートルの門も石造りで、上部には重さ3トンの大石が隙間なくぴたりと載せられ、石を削りだして穴の開いた出っぱりが造られている。主神殿の下部にも長さ4.5メートルの巨石が使われており、都市のいたるところに、巨石を自在に扱っていた形跡が認められる。

    市街地への入り口に造られた「太陽の門」。侵入者を防ぐための仕掛けが施されていたといわれる(写真=ピクスタ)。
    都市中央の神域にある「主神殿」。壁のくぼみにはミイラなどが飾られたと考えられている。

    マチュピチュが築かれた本当の目的とは?

     ではなぜ、このように人里離れた山岳地帯にこれほどの都市が築かれたのだろうか。
     アンデス文明は文字を持たなかったため、その詳しい理由や、首都クスコとの関係は正確なところは不明である。ただ、出土物の年代測定などによれば、マチュピチュの建設は1440年ごろに始まり、スペインの侵略を受けたころまで人が住んでいたが、その後突然見捨てられたようである。

    マチュピチュで唯一、曲線状に石が積みあげられた「太陽の神殿」。下方には石を削った階段が見られる。

     建造の目的については、マチュピチュは太陽を崇める神官たちが統治した一種の宗教都市であり、太陽の処女たちが生け贄にされた場所だとか、じつは皇帝の避暑地のようなものであり、冬の都、あるいは田舎の別荘のような目的で造られたものなど、諸説ある。

     しかし最近になって、マチュピチュという都市それ自体が、インカの天体観測拠点であったという説が登場した。実際、それを示すような構造物がいくつも残っている。
     たとえば北部のエリアにある「インティマチャイ」と呼ばれる遺構は、岩に彫られた洞窟の上に石組みが設けられているが、当時の天体現象を詳細に観測するために用いられたようだ。この近くには、水を張って天体の動きを細かく観察するために使用されたふたつの臼状の石もあり、近くの山ワイナピチュの北東にも、「インカラカイ」と呼ばれる観測施設が設けられている。
     マチュピチュが天体観測拠点だとすれば、遮るもののない山間部の高地に建設されたことにも納得できる。だが、マチュピチュの他の建造物、それにアンデス山脈周辺から出土した数々のオーパーツの存在を考えると、マチュピチュは単なる天体観測施設でなく、それ以上の目的で建造された可能性もある。

     アンデス文明の遺物の中には、ナスカの地上絵やコロンビアの黄金ジェット、カブレラ・ストーンなど、宇宙人との関連が指摘されるオーパーツが数多く出土している。
     ナスカ近郊からは、宇宙人ではないかとされるミイラが何体も出土しており、そのうちの2体は、昨年メキシコで開催された議会下院の公聴会で公開されて話題となった。さらには、インカの神話に伝わる文明神ビラコチャも、じつは宇宙人ではないかとする説がある。

     そしてマチュピチュには、異世界とのチャネリング装置とされる遺構も残っている。それが「インティワタナ」だ。これは高さ1.8メートル、上部に38センチの角柱が突きだす形に加工された岩で、ケチュア語で「インティ」は「太陽」、「ワタナ」は「結ぶ」あるいは「つなぐ」という意味を持つことから、日時計に使われたものとされる。他方、インティワタナからは強力なエネルギーが放射されており、霊的に敏感な人物がこの石に手を触れると、他の世界とチャネリングできるともいわれている。

     もしかしたら、インカ帝国の神官たちもインティワタナを用いて宇宙人とのチャネリングを行っており、マチュピチュは一種の交信基地となっていたのかもしれない。

    聖なる石「インティワタナ」。巨石の中央に突きだした角柱の各角は正確に東西南北を指しており、日時計として使われたと思われる。

    ●参考資料=『図説インカ帝国』(フランクリン・ピース著/小学館)、『マチュピチュ』(高野潤著/中公新書)、『神々の遺産オーパーツ大全』(並木伸一郎著/学研)

    羽仁 礼

    ノンフィクション作家。中東、魔術、占星術などを中心に幅広く執筆。
    ASIOS(超常現象の懐疑的調査のための会)創設会員、一般社団法人 超常現象情報研究センター主任研究員。

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