「デリーの錆びない鉄柱」は…錆びている!? オーパーツの表面に記された神秘文字を現地取材/ムー旅インド

文=遠野そら

    インドといえばのオーパーツ、「デリーの鉄柱」を現地取材! 錆びていないというその表面には謎の古代文字が刻まれていた。

    クトゥブ・ミナールの中にあるオーパーツ

     インドの宗教思想文化に触れるべく、ヒンドゥー教徒の巡礼地であり、ヨーガの聖地「リシケシ」を巡ったムー旅インド取材班。リシケシでのディープな取材についてはお伝えした通りだが、次はインドといえばのオーパーツ、「デリーの錆びない鉄柱」をレポート!

     別名「アショカ・ピラー(アショカ王の柱)」として知られる「デリーの錆びない鉄柱」。ムー読者ならこの鉄柱にまつわるオーパーツ的な由来はすでにご存じであろう。著者もたっぷりと予習をした上で見学に向かったつもりだったが、実際にその目で見る鉄柱は、想像以上に摩訶不思議で、ミステリーに満ち溢れた物体であった。

    気温40℃近い暑さの中、強烈な日差しを浴びながら撮影した写真。鉄柱は石造りのイスラム遺跡群の中で異質の重量感を放っていた

     まず、鉄柱が設置されている場所だが、これはデリー郊外にあるインド最古のイスラム遺跡群「クトゥブ・ミナール」の中にあった。てっきり「奇跡の鉄柱!」などと多くの観光客に囲まれていると思っていたが、驚くことにほとんど誰もいなかった。この日が平日だったからなのか、インド人も辟易するほどの強烈な熱波がインドを襲っている時だったからかはわからないが、おかげで周囲は貸切状態。じっくりと鉄柱を観察することできたのは、実にラッキーであった。
     ただ、隣の門が修復工事中で、鉄柱の囲いに網がかかっているという、若干残念な状態ではあったが……。

    近くの学校から校外学習に来ていた子どもたち。この暑さでも子どもたちは皆元気!

    「デリーの錆びない鉄柱」とは、もともとはヴィシュヌ・パダという丘の上にあったヴィシュヌ寺院の柱の一部である。これは仏教を広め守護したアショーカ王への敬意を込めてチャンドラグプタ2世(376−415年)王が建立したもので、かつて鉄柱の頂上部にはヒンドゥー教の一柱であるヴィシュヌ神の乗り物・霊鳥ガルーダが掲げられていたそうだ。
     そして1200年頃の奴隷王朝建国に伴い、ここクトゥブ・ミナール内へ移設されたのだという。

    クトゥブ・ミナールとモスク。1193年から約30年の月日をかけて建造された巨大な建造物。

     実際その目で見る鉄柱は直径約40センチ、高さ約7.2メートルと飛び抜けて巨大な柱というわけではなかったが、ムー旅インドおなじみの現地人ガイド・シンさんによると、現在は9メートル程の鉄柱が埋まっている可能性も指摘されているのだという。
     通説では地中部分は約1メートルとされているが、これが事実とすれば、鉄柱の長さは約16メートル、奈良の大仏とほぼ同等の大きさになる。鉄柱があったヴィシュヌ寺院は相当立派なものだったに違いないだろう。

    表面の錆と、古代「ブラーフミー文字」

     これだけの情報を得ることができただけでもここへ来たかいがあったが、著者が「デリーの錆ない鉄柱」を見に来たその最もたる目的は『約99.9%という高濃度の鉄製とされているけど、本当に錆びてないの?』である。

    神殿の柱だったという鉄柱。紀元前900年前のものという説もある。

     まず結論から言うと、著者には一部、表面にサビがあるように見えた。現在は柵で覆われているため触れることができなかったが、”所々、古い鉄棒にみられるザラザラした部分がある感じ”、といえばわかりやすいかもしれない。全体的に赤茶色だが、下の方は過去に多くの人々に触れられたせいで黒味が強い羊羹のような色合いになっており、かなり凹凸があった。

    よく見ると赤茶色の錆のようなものが見える。

     画像の通り少々の錆が見えるのが実際のところだ。
     だが、デリーの鉄柱がオーパーツとされる所以は、約1600年前に製造されたにもかかわらず今も現存している点にある。西暦400年といえば、日本は古墳時代。世界的に見てもその時代に作られた鉄製遺物の多くは、サビつき腐食が進んでいるものがほとんどであろう。地中に埋もれていればなおさらである。
     もちろん保存状態にもよるが、デリーの鉄柱は地中に埋もれていてもなお腐食は進んでおらず、人々が触れた部分も通常の鉄に比べるとサビの進行が驚くほど遅いことが明らかになっている。その背景には高度な鋳造技術の存在が囁かれているが、古代インド人がどのようにしてその技術を手に入れたのかは、その素材も含めすべてが今なお謎のままだ。

    鉄柱に刻まれた碑文。表面の何か所にも刻まれていた。

     また興味深かったのは、鉄柱に刻まれた碑文である。実物を見るまでは鉄柱の碑文は2~3個ぐらいかと思っていたが、これは大きな間違いであった。上部の方まではよく見えなかったが、目につくところだけでも5~6箇所以上ある。ガイドのシンさんによると碑文は普通のインド人では読めない「ブラーフミー文字(Brahmi script)」というインド最古の文字で書かれており、まだすべて解読できていないのだという。

     これはあくまでも所感だが、刻まれた碑文の形や陰影、そして大きさもバラバラだったことから、刻まれた時代や、人物に違いがあるように感じた。今後、碑文を記した人物(集団)について、またその内容の解読に向けて研究・検証は進むのだろうか。しかし現地では「鉄柱はオーパーツではなく、神が作りし神聖なもの」という考え方に基づき、歴史的な考察は「さておき」らしい。日本なら我々「ムー」を含め検証が行われるように思うが、これもインドの宗教思想の一片に触れる貴重な経験であった。

    倒れていないのに支えるようなポーズ。クトゥブ・ミナール観光でおなじみらしいので、訪れた際にはぜひ試してほしい。
    犬、リス色々な動物がいたクトゥブ・ミナールの敷地内。トイレでは鳩にも遭遇した著者。上を見上げたら鳩。ビックリである。
    ムー旅インドではお世話になった現地人ガイドのシンさん。

    遠野そら

    UFO、怪奇現象、オーパーツなど、海外ミステリー情報に通じるオカルトライター。超常現象研究の第一人者・並木伸一郎氏のスタッフも務める。

    関連記事

    おすすめ記事