古地図に記された幻の島・北極圏の「ルペス・ニグラ」の謎/遠野そら
北極海には巨大な岩山を中心とした「島」がある! 歴史上、いくども地図に記されたそこは、未踏の楽園か、それとも地球内部への入り口か?
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伊能忠敬が完成させた「大日本沿海輿地(よち)全図」より数十年も前に正確な日本地図を作製した人物がいた。その地図はおよそ1世紀もの間、日本中で使われ、海外にも広まっていたという。しかも、そのきっかけを作ったのが、日本に初めてやってきたフリーメーソンだったのだ。
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江戸時代に作られたこの日本地図を見て、「あ、この地図なら知っている。伊能忠敬が全国を歩きながら実測して作った伊能地図でしょ」と思われた方も多いのではないだろうか? だが、これは伊能忠敬が作った地図ではない。伊能忠敬が彼の地図を完成させる半世紀近く前、正確にいえば42年も前に、農民出身の独学の地理学者が、たったひとりで、全国を測量することもないまま作り上げた日本地図なのである。
その男の名は、長久保赤水[せきすい](1717〜1801)。伊能忠敬に比べると無名の人物といってもいいだろう。
今は確かに伊能忠敬のほうが有名かもしれない。だが、江戸時代には伊能本人はもとより、伊能が作った日本地図など知る者はほとんどだれもいなかった。そもそも見ることさえできなかったのだ。幕府は伊能図をご禁制の地図と定め、幕府内から外に出すことを強く禁じていたからだ。伊能図が一般市民の目にも触れられるようになったのは、江戸幕府が滅んで文明開化が起きた明治以後のことだった。ゆえに、伊能図が江戸文化に与えた影響は、ほぼ皆無なのだ。
一方、長久保赤水が安永8(1779)年に完成した「改正日本輿地路程全図(かいせいにほんよちろていぜんず)」は、翌年に大坂で出版されるやいなや、日本中で広く使われる大ベストセラーマップとなった。以後90年近くの長きにわたって江戸後期の人々は、伊能忠敬の地図ではなく、赤水の地図のほうを旅の友として懐に携え、日本各地を旅していたのである。
さらにいえば、赤水図を利用したのは日本人ばかりではなかった。正確な日本の姿や位置を初めて示した赤水図は、ヨーロッパをはじめアメリカなど世界各地の博物館の奥に、今も大切に保存されていることがわかってきた。
つまり鎖国の状態にあって、外からその中をうかがい知ることが難しかった江戸時代に、日本を認識する際のスタンダードな地図として、赤水図は世界でも注目されていたのだ。そして、赤水図が世界に向けて拡散していくその過程を裏で支えていたのは、今から240年以上も前に、はるばる日本へとやってきていたひとりのフリーメーソンの存在があったのである。
長久保赤水とは、どんな人物だったのか。自分で描いたと伝わる自画像も含めて、赤水の容姿が描かれている絵は、今も数種類残されている。だが、残念なことにそれぞれの絵があまり似ていないため、実際にどのような風貌をしていた人物であったのかは、よくわかっていない。一方、赤水の生涯については、子孫が今もいるといったこともあり比較的よく判明している。
赤水は亨保2(1717)年11月6日、現在の茨城県高萩市赤浜で庄屋を営む農家の長男として生まれた。子供のころは病弱で長生きはできないだろうといわれていたうえに、幼少期に頼りとしていた肉親をすべて亡くしている。
8歳のときに弟を亡くし、翌年には母親のおしげが、そしてその2年後には父親の善次衛門までが死んでしまうという悲劇に見舞われた。弱冠11歳にして、血がつながっていた肉親すべてを失う孤児になってしまったのだ。だが、そんな悲運の赤水を支えてくれたのは、母親が亡くなった翌年に後妻として嫁いできていた継母のおかんだった。
親戚筋からは「農家のせがれに学問は不要」などと冷たくいわれる中、継母のおかんは赤水の学問好きとその才能を深く認め、14 歳のときに近所の村で私塾を開いていた医師鈴木玄淳(げんじゅん)の元に通わせて漢文などを学ばせた。そんな継母おかんの応援もあって、赤水の学問の腕はメキメキと上達。20 代半ばには、のちに水戸藩の学問施設・彰考館の総裁となる高名な儒学者名越南渓(なごえなんけい)の元への入門が許されるほどの実力となった。
さらに学問を深めていった赤水は、52歳のときにその功績を水戸藩から認められ、農民から武士待遇である郷士格へと取り立てられた。その9年後には、水戸藩中興の祖といわれる6代藩主徳川治保(はるもり)に対して学問の講義を行う侍講(じこう)を直々に申しつけられるまでになった。そのため赤水は住み慣れた故郷を離れて、以後は江戸小石川にあった水戸藩邸内の儒者長屋に居住した。
持ち前の能力と学識の深さで、農家のせがれから武士へ、そして藩主の侍講までへと立身出世を果たした赤水だったが、まだ地元の高萩に暮らしていた35歳のころに、なぜだれよりも正確な日本地図を作ることを志すようになったのかは、よくわかっていない。
赤水自らは自分のことを儒学者だと終生考えており、地図作りのほうはあくまで余技と見なしていた。しかし、現在評価されるべき赤水の功績は、時代を先駆けて作り上げた彼の正確な日本地図のほうにある。
赤水図の正確さについては、この地図以前に作られていた日本地図と見比べてみるとよくわかる。日本全体を描いた古典的な地図としては、奈良時代の僧侶行基(ぎょうき)が作ったと伝わる行基図が知られている。袋を適当に積み重ねたかのような描き方で、本州、四国、九州と分かれているあたりまではわかるものの、より細かい各国の形やその方位となるとまったく頼りにならない地図だ。
行基図の後、江戸時代に広く利用されたのが、浮世絵師の石川流宣(とものぶ)が元禄4(1691)年に作製した流宣図(りゅうせんず)だ。日本の外形はそう正確ではないが、地名のほかにも神社仏閣や城など各地の名所旧跡が描かれている絵地図のため約1世紀にわたって広く利用された。だが地図の正確さという点では赤水図とは比べようがなく、赤水図の登場とともに使われなくなっていった。
赤水図は、日本で初めて緯線と方角線が書き込まれた本格的な地図の出版という点にも特徴がある。日本の形の正確さという点だけからいえば、実測で作られた伊能図にはさすがにかなわない。だが逆に、伊能図は海岸線など日本の外形を正確に記述する目的で作られているので、日本内陸の地名などについては空白のまま残されている部分が多い。
一方、赤水の「改正日本輿地路程全図」は、刊行にたどり着くまで30年近くもかかっているが、初版の段階で約4200もの地名が書き込まれていた。
11年後に出た決定版となる第2版では、地名の記載はさらに増え、6000にものぼった。旅行や商売といった目的で使うには、地名の多い赤水図のほうが伊能図より明らかに使い勝手がよかった。また赤水図は折りたたむと手ぬぐい程度の小ささまで縮まるように工夫されていたので、ハンディな携帯地図としても大変に有能だった。
たとえば吉田松陰が全国を旅した際にも、この赤水図を携えて旅していたことが知られている。伊能忠敬も伊能図を作るために行った全国測量の際に赤水図を携え、随時参照していたことがわかっている。
では、これだけ正確で使いやすい日本地図を、いっさいの測量を行わないまま、赤水はなぜ描くことができたのだろうか? その製作過程には多くの謎が残されている。
赤水の伝記などでは、赤水の生家が水戸と仙台を結ぶ街道に面していたので、実家の前を行き来する旅人をつかまえては、彼らから日本各地の地名や地形の話を聞きだして順次地図に落とした、などとされている。
しかし、地名なら旅人の話をもとに書き留めることもできたであろうが、地形については、描かれた手本でもない限り、言葉だけで正確に記すことは難しいはずだ。
大坂の町人地理学者森幸安(ゆきやす)が作った「日本分野図」を参考にしたとか、幕府の依頼で和算家建部賢弘(たけべかたひろ)がまとめた「亨保日本図」をどこかで写したのでは、などといわれている。また、水戸彰考館図書係をしていた立原蘭渓(らんけい)と赤水は親しかったので、彰考館所蔵の禁制地図をそっと見させてもらったとか、関西に旅したときに大坂の博物学者木村蒹葭堂(けんかどう)のもとを訪れているので、その際に木村秘蔵の地図を見たのでは、などとも推測されている。
まるで宇宙から眺めたかのような正確な日本の外形を、赤水はどこから手に入れたのか?
1820年ごろに、赤水が生前に住んでいた家が火事になり貴重な資料が灰になってしまったこともあって、赤水図の詳しい製作過程はいまだ謎のままとなっている。
赤水図は江戸時代、日本国内のみならず海を渡って全世界へも広がっていっていた。今も赤水図の所蔵が確認されている研究施設として、米国議会図書館や英国図書館をはじめ、ブリティッシュ・コロンビア大学(カナダ)やミュンヘン民族学博物館(ドイツ)、ケンブリッジ大学(イギリス)、ライデン大学(オランダ)などがある。海外5か国に計37点、うち5点がドイツ人医師シーボルトによって海外に持ちだされたものと見られている。
シーボルトは赤水図にある地名を書き抜くことで「日本地名辞典」を作ろうとさえ試みていたが、結局、刊行には至らなかった。シーボルトはその著書『日本』の中で、赤水が刊行した地図について触れて「日本人はこのことに感謝すべきである」とまで述べている。
ところで、赤水図には日本の地名が6000も掲載されているといっても、地図を見た西洋人らがその地名をどうやって読めたのか疑問には思わないだろうか? 漢字で細かく書き込まれた地名を、当時の西洋人はいったいどうやって解読したのか? だれかが、シーボルトが行ったように外国語に翻訳をしなければならなかったはずだ。
赤水図を外国人にも理解できるように翻訳して世界へと広がる橋渡し役を務めたのが、オランダ生まれの外科医にして、1779年から1784年まで3度にわたって長崎出島にあったオランダ商館長(カピタン)を務めたイサーク・ティチングという男だった。そして彼こそ、日本にやってきたフリーメーソンとして記録が残されている最初の人物なのだ。
赤水図は、ティチングが日本に赴任するのとほぼ同時期に刊行されている。日本着任後すぐにそのすばらしさに気がついたティチングは、この地図をどうにかしてオランダ語に訳せないものかと考えた。
ティチングは、赤水図に書かれている地名の脇に地方ごとに分けて番号をふっていった。そして長崎にいる通詞の助けを借りながら、日本語の地名の読みをオランダ語へと移し、番号ごとに並べた一覧表を作り上げた。オランダ語化できた地名の数は4000を超えた。オランダ語にされたティチングの赤水図地名表は、その後ドイツ人言語学者の手に渡り、現在は大英図書館に収められている。
このように、ティチングの血のにじむような努力で作られた外国語の地名一覧と詳細な赤水図がセットとなって海外へと流れていった。翻訳版赤水図の登場によって、それまで謎だった日本という国の姿が海外により広く、正確に知られるようになったのである。
嘉永6(1853)年に黒船に乗って浦賀沖に現れ、日本に開国を迫ったマシュー・ペリーもまた赤水図を持っていた、と見られている。
日本という国が近代化し今の形になるまでに、海外から押し寄せる2度の大きな荒波を乗り越える必要があった。
1度目の大きな荒波は明治維新。上記のペリーの黒船艦隊によって迫られた開国であった。2度目は、太平洋戦争における敗戦。それまで帝国主義の道を歩んでいた日本は、ダグラス・マッカーサーが率いるGHQ(連合国軍総司令部)によって国家を換骨奪胎され、より近代的な民主国家へと脱皮する必要があった。
そして一部ではよく知られていることだが、1度目の脱皮を迫ったペリーも、2度目の換骨奪胎を強行したマッカーサーのどちらもまた、フリーメーソンであったのだ。こう考えると、世界で最初に日本へと上陸してきたフリーメーソンのティチングが行った日本地図・赤水図の翻訳作業もまた、これら後輩のフリーメーソンたちがやがて行うであろう日本の開国や日本近代化を速やかに進めるための準備作業となっていた、ともいえなくもないだろう。
だが、このように書くと「やはり日本は、江戸時代半ばからすでにフリーメーソンによって虎視眈々と日本征服を狙われており、日本の内情を探るために地図を盗みだし、スパイまで送り込まれていたのだ」などといった大きな勘違いを起こす人が出てくるかと思う。
しかし、それはありえない。
フリーメーソンには、世界全体をまとめる中央政府のようなものはいっさい存在しない。だから、オランダのフリーメーソンとアメリカのフリーメーソンがタッグを組んで何世紀にもわたって同じ陰謀をめぐらすなどということは極めて難しい。本来なら1か国にひとつしかないはずのフリーメーソンのグランドロッジが、アメリカの場合は各州にひとつずつ存在してしまっている。グランドロッジごとに独立した権限が保証されているので、州をまたいでの陰謀ということすら難しいのだ。
アメリカ全体のグランドロッジをまとめた統一グランドロッジを作ろうという動きも過去何回も行われた。だが、結局話がまとめられないまま各州ごとにバラバラな活動が続いている。アメリカ国内ですらひとつに統合できないような組織が、世界全体でひとつの陰謀のもとにまとめられるわけがない。
また筆者は日本のフリーメーソンのウォッチングを長らく続けているが、内紛や足の引っ張り合いといったことが、これほど激しい組織も珍しいと思う。男しかいない組織なので、男同士の妬み合いのような、聞いていてウンザリする話も多い。
では、なぜティチングやペリー、マッカーサーといった有能な人々が、かつてはフリーメーソンに集っていたのか?
それは、彼らのように7つの海を股にかけて世界で飛躍し活躍していく男たちにとって、友愛の仲間が全世界に広がっているフリーメーソンは、大変使い勝手のよい組織であったからだ。一流の男らがこぞって入会するほどフリーメーソンは、少なくとも昔は、魅力的な組織ではあったということなのである。
「フリーメーソンは世界征服を企む秘密結社」などというおとぎ話は、実際のフリーメーソンと付き合ったことがない方方が抱く淡い夢に過ぎないだろう。
最後に赤水の晩年について紹介しておきたい。念願だった詳細な日本地図を完成させた赤水は、続いて中国地図や世界地図の作製を試みている。天明3(1783)年に縦横が180センチを超える巨大な「大清広興図(だいしんこうよず)」を完成させ、天明5(1785)年には「改正地球万国全図」を作り上げ、日本、中国、世界の姿を一望のもとに眺められるようにしたのだ。
自らは地図作製を余技と見なしていた赤水であったが、彼の腕を見込んだ水戸藩からは、水戸光圀(みつくに)の命によって延々と続けられていた大事業『大日本史』作成のうちの「地理志」編集という重責も命じられることになった。
老体にむち打ちながら81歳という高齢まで約20年間にもわたる江戸での仕事を勤め上げた赤水は、以後故郷の赤浜へと戻って妻とふたりで暮らし、享和元(1801)年、地元で永眠した。享年85だった。
死後はその業績が忘れられるままとなっていた赤水だったが、1992年に地元で長久保赤水顕彰会が発足した。
展覧会が開かれたり、マンガによる伝記が出版されたりといった再評価が始まり、2020年には赤水図をはじめとする赤水関連資料693点が国の重要文化財に指定された。2012年11月には、JR高萩駅前に有志の手によって赤水の銅像が建てられ、裃姿に正装した赤水に今ではだれでも会えるようになっている。
(月刊ムー 2021年5月号記事を再編集)
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