退廃の町ソドムは隕石の空中爆発によって滅亡した!「旧約聖書」の史実カタストロフィー/宇佐和通

文=宇佐和通

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    これまでフィクションとされてきた『聖書』に登場する背徳の都市、 ソドム。だが、神から下された怒りの鉄槌は、まぎれもない歴史的事実だった! 考古学によって明らかとなった、古代の要塞都市消滅の実態とは──?

    隕石の空中爆発で破壊された古代都市

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    (上)中東におけるトール・エル・ハマムの地理的位置。ちょうど死海の北東、ヨルダン渓谷南部の高台にある。(下)トー ル・エル・ハマムにあった宮殿と寺院の位置を示したもの。左上には死海も見える。

    『聖書』は、年代順に史実を記した歴史書であるという意見がある。確かに、神の存在について語られる逸話のなかには、現代科学の枠組みのなかで説明をつけられるものも含まれている。そして最近、こうした議論をさらに深めるような論文が発表され、注目を集めている。
     2021年9 月、「ネイチャー・サイエンティフィック・レポート」誌に、「ツングースカ級の空中爆発が死海近郊ヨルダン峡谷の中期青銅器時代の都市を破壊」というタイトルの論文が掲載された。現地調査と執筆を主導したのは、カリフォルニア大学サンタバーバラ校の名誉教授ジェームス・P・ケネット氏と、トリニティ・サウスウエスト大学考古学部教授フィリップ・J・シルビア氏だ。まず、論文の概要部分を読んでみよう。

    「われわれはこの論文で、紀元前1650年(約3600年前)、死海の北東、ヨルダン峡谷南部に位置していた青銅器時代の都市トール・エル・ハマムが隕石の空中爆発によって破壊されたことを示唆する物証を提示していく。
     問題の空中爆発は、1908年にロシアのツングースカで起きたものよりも規模が大きかったと思われる(ツングースカでは直径最大50メートルの火球が、ヒロシマ型原爆の1000倍のエネルギーを放出したとされている)。
     空中爆発によって4〜5階分に相当する高さ12メートル以上の宮殿と幅4メートル以上の日乾しレンガ製の城壁が崩壊し、近くにいた人々の体はばらばらになり、骨片となって地層に残っている。空中爆発が原因で周囲の土壌に起きた高濃度塩分化が農業に大きな悪影響を与え、25キロ半径に位置する最大120の集落に対し、300〜600年にわたる人口減少期間を招いた。
     トール・エル・ハマムは、問題の空中爆発によって破壊されたシリアのアブ・フエイラに次ぐ2番目に古い都市であった可能性がある。そしておそらく、文字化された口承伝統(「創世記」)においては、最古の都市だったと考えられる」

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    (上)破壊される前のトール・エル・ハマムに存在していた宮殿の想像図。(下)現在の姿。宮殿は厚さ7~8メートルの城壁と厚さ4メートルの防御壁で囲まれていた。当時は4階建てだったと思われるが、発掘では1階上部から上がすべて失われていた。
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    遺跡で発見された人骨。(左上)は頭蓋骨だが、赤くなっているのはセ氏200度以上の温度にさらされたためだという。 (右上)は埋まったままの別の頭蓋骨と骨の断片。(下)人間の脚の骨だが、足先が極端に曲がって いる。

    『聖書』に描かれた背徳の都市ソドムか?

     そしてこの論文には、きわめて大きなインパクトを秘めた、次のような文章が記されたセクションが含まれているのだ。

    「現在、トール・エル・ハマムが『聖書』に記されたソドムであった可能性に関する議論が進んでいる。ソドムの正確な位置と本論文との間に直接的関連性はないが、隕石によって破壊された都市の逸話が口承伝承となり、『聖書』に記された可能性は否めない」

     中期青銅器時代(今から3600年ほど前の紀元前1650年ごろ)、エルサレムの10倍、エリコの5倍という規模を誇っていたとされるトール・エル・ハマムは隆盛をきわめていた。
     死海北東のヨルダン峡谷南部の高地にあり、数千年にわたって文明の中心地だった大都市だ。ケネット教授によれば、一帯は当時の人類の文化複合性が育まれた地域として認識されている。
     考古学においても聖書研究においても、トール・エル・ハマムが重要な研究対象とされていることは間違いない。長きにわたる破壊と再建が繰り返された、戦略的価値がきわめて高い都市として栄えた歴史を物語る地層には、金石併用時代や銅器時代の文化的要素を示す遺物が豊富に含まれている。

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    堕落しきったソドムとゴモラの街に、 神の怒りの炎が降りそそいだ。しかし快楽にふける人々は、まだそのことに気づかない(「ロットとその娘たち」ルーカ ス・ファン・レイデン:1509年)。

    繁栄する都市を襲ったセ氏2000度の高温

     ケネット教授は考古学および神学の専門家であるシルビア教授をパートナーに迎えて共同研究新プロジェクトを立ちあげ、3650年前に起きた出来事を明らかにするための現地調査を開始した。
     問題となったのは、幅およそ1・5メートルの中期青銅器時代の地層だ。上下の地層と比べてきわめて異質な特徴が見られる。戦争や地震などの名残であるさまざまな種類の破片とともに、表面が溶けてガラス化した陶器、気泡ができた日乾しレンガ、一部が溶けた状態の建材などが見つかったのだ。
     いずれも高温にさらされた痕跡が見て取れる。青銅器時代に実現していた技術で生みだせるレベルの温度ではない。ケネット教授はこう語る。

    「問題の地層に含まれる物質がさらされたのは、セ氏2000度という高温です。われわれは、その証拠も発見しました」
     研究グループは、青銅器時代には実現しえなかった高温の原因を、隕石の空中爆発だったと結論した。これによって全地球規模の天候変化が生じ、多くの生物が絶滅したという。
     上空で起きた爆発の衝撃で、トール・エル・ハマムでは宮殿も城壁も吹き飛ばされ、ほぼ平らな状態になってしまった。問題の地層から採取した土壌サンプルからは、粉々になった遺骨も見つかっている。ケネット教授は、大規模な空中爆発を示唆しさする数々の物証から推論を構築していった。
     土壌サンプルの分析においては、溶けた金属成分とともに鉄分、そしてケイ素成分が豊富な小球体などが検出された。

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    数字の「4」の地層から上は、トール・エル・ハマムの破壊後、3600年間で堆積した砂。「2」 と「3」は、宮殿で使われていた絨毯やタペストリーが燃えてできた隙間だという。
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    宮殿の発掘現場。もっとも深い層には溶けた日乾しレンガの破片や屋根用粘土、木炭や木材、 布や骨、陶器の破片などが確認できる。

     なかでも主要な発見として挙げられるのが衝撃石英だ。これが意味するのは、想像を絶する圧力がかかる状況が生まれていたという事実にほかならない。石英は鉱物でもかなり固いほうに分類され、このような状態になることは珍しい。
     また、高い圧力にさらされた場合のみに生じる表面の亀裂が見られる砂の粒子も見つかった。
     このように現場で採取された物証から考える限り、トール・エル・ハマム近郊で大規模な空中爆発が起きた可能性はきわめて高いのだ。

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    「a」は宮殿の食堂跡。「2」の黒い層には木炭が多く含まれており、宮殿で火災が起こった可能性を示す。「b」は「a」の地層の拡大写真。「c」は宮殿跡から出土した。破壊された壺。 矢印の黒い点は、穀物や種子が炭化したもの。「d」は炭化した宮殿の屋根。
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    融けたような外観の日乾しレンガ。日乾しレ ンガの計算上の融点はセ氏1300度から1500度となる。また、電子顕微鏡でも溶けた鉱物結晶や金属の粒子が観察された。
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    溶けた砂や溶けた宮殿の石膏せっこく、溶けた金属などのスフェルール(球状粒子)。スフェルール は鉄と砂が蒸発してできる塵のような粒子であり、セ氏約1590度の高温で形成される。

    高濃度の塩分が急激な人口減少を招く

     現地一帯で採取された土壌サンプルに見られる“異常に高いレベルの塩分濃度”も、隕石の空中爆発によって説明できる。サンプルの塩分濃度は、周辺地域の平均値である4パーセントに対し、25パーセントという非常に高い数値を示している。
     空中爆発の高い圧力によって、一帯の地表が高濃度塩分の膜で覆われるような状態になってしまったのだ。近くにある死海の塩分濃度が高いことも、同じ理由で説明できる。
     高塩分の土壌は、「後期青銅器時代ギャップ」と呼ばれるものの原因にもなっているかもしれない。
     ヨルダン峡谷では、標高が低い地域にあった都市の人口が急激に減少した時期がある。かつて豊かだった土壌が突然不毛に近い状態になってしまったからだ。当然のことながら、人々はより農耕に適した土地に移住することになった。トール・エル・ハマムの人口が再び増えはじめたのは600年後、鉄器時代に入ってからだった。

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    トール・エル・ハマムの地形図と、隕石の侵入経路および爆風の向き。まさに都市の中心を神の怒りの炎が襲ったのだ。
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    旧ソ連のツングースカ大爆発のときに発生した、高温の衝撃波の広がりを示した図。このときは高度18キロで天体の空中爆発が起こり、その6.5秒後に地表にガスが到達している。

    『聖書』の時代まで語り継がれた記憶

     トール・エル・ハマムにはもうひとつの特徴的な側面がある。論文でも語られているように、『旧約聖書』「創世記」に出てくる街、ソドムだった可能性についてだ。住民が堕落的なライフスタイルを送り、享楽きょうらくにふけった挙句に神の怒りを買って滅ぼされたという、罪の都市である。

    「創世記」によれば、ソドムに住んでいたロトという男性は「逃げる最中に後ろを振り返ってはいけない」という天使の忠告を守って助かった。しかし忠告を守らなかったロトの妻は塩の柱に変えられてしまった。

     上空は炎と硫黄で満たされ、分厚い煙が町を覆い、住民も作物も死に絶えた。まさに隕石落下の目撃記録のような響きの文章だ。ここまでシンクロする部分があるのなら、確かに学術的な検証に値するだろう。

     ケネット教授は語る。
    「隕石の空中爆発に関して書かれたものなら、『旧約聖書』の記述に違和感はありません。ただ、隕石の空中爆発によって壊滅的打撃を受けたのがソドムだったと断言するには、まだ科学的データが不十分です」

     確かに、現時点でトール・エル・ハマムとソドムをイコールでつなげてしまうのは、いささか乱暴かもしれない。しかし3600年前の災害が口承伝統として残り、やがて『聖書』で文字化された可能性は検証に値する。

     こうした背景について、コリンズ/シルビア両教授は、2015年11月に「文明の終焉をもたらした3700年前の出来事:考古学的データ、サンプル分析と聖書との関連性」という報告書を発表している。結論部分で語られているのは、以下のような要素だ。空中爆発はトール・エル・ハマム(ソドム)のみならず、周囲の都市(周辺の平野に点在していたゴモラを含む他の都市)も破壊した可能性がきわめて高いと考えられる。
     死海で発生し、広範囲にわたって浸透した高濃度の塩分によって土壌汚染が起こり、農業の存続が困難となった。一帯に文明が戻ってきたのは、土壌が農業に適したものとなった、爆発から6〜7世紀後の時代である。

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    ツングースカ大爆発の際に発 生した空中爆発の範囲を、トー ル・エル・ハマムがある死海周辺の地図に重ねてみる。これに よって、当時、この地を襲った被害の規模を伺い知ることがで きるだろう。

    遺跡から検証されたソドムとの共通点

     ソドムに関する記述が出てくるのは、主として「創世記」だ。ソドムはヨルダン川平原、死海のすぐ北にあったとされている。ヨルダン東部最大級の水源豊かな都市として知られ、貿易路上に位置していたため地政学的にもきわめて重要で、全体が厚い壁で要塞化され、高い塔もあった。
     一方、紀元前3500〜同1540年の間に最盛期を迎えたトール・エル・ハマムも、要塞都市という表現がぴったりだったようだ。
     高さ10メートル、厚さ5・2メートルの壁に囲まれ、そこには門と見張りの塔、通路がしつらえられていた。また、都市インフラの拡張と強化も常に継続されていたと考えられる。実際、青銅器時代中期においては、都市全体を覆う壁が厚さ7メートルにまで増強された。壁の上は広い通路になっており、二重の同心円状構造として都市全体が囲まれていた。
     地理的に考えても、都市としての規模や機能から考えても、トール・エル・ハマムがソドムだった可能性は決して低くはないのだ。
     いや、こうして実際の発掘現場を見ると、その思いはますます強くなることだろう。
     史実と神話。科学と宗教。背反する性質のふたつの分野の関係性は、今回の論文によって結びつけられていくのだろうか。

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    ジョン・マーティンによる「ソドムとゴモラの破壊」(1852年)。神によって、硫黄と炎が街に降りそそがれた。

    写真=A Tunguska sized airburst destroyed Tall el-Hammam a Middle Bronze Age city in the Jordan Valley near the Dead Sea / Author : Ted E. Bunch et al / Publication : Scientific Reports / Publisher : Springer Nature / Date : Sep 20, 2021/Copyright c 2021, The Author(s)

    (2021年12月22日記事を再編集)

    宇佐和通

    翻訳家、作家、都市伝説研究家。海外情報に通じ、並木伸一郎氏のバディとしてロズウェルをはじめ現地取材にも参加している。

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